雌伏
程なく母はまた眠りについた。こうして一度意識が落ちれば二、三時間は起きないのだと看護師の方から聞き及んでいる。洗濯する入院着をまとめ、戻った花宮と共に病室を出た。
平日の正午、付添家族の訪れも落ち着く時刻。病棟は静かだった。
リノリウムの床を二人分の靴音が響く。背後に随う控えめなそれに、何か声をかけるべきか。
先刻、彼女が母に宣ったこと。あるいはそもそもこの状況こそ。質すべきなのだろう。
迷惑だと、母に嘘を吹き込むのは止めろと、ここへは来ないでくれと、頑として言い放つべきなのだろう。
「……」
それができない。
いずれ一つでいい。たった一言を口にするだけのことが、できない。
俺は無能か?
ああ、その通りだ。
結局は母親を安心させる為としてこの嘘を、花宮カナミの存在を甘受している。実際、病床の人間に対する彼女の振る舞いは完璧だった。今の俺には容易ならないそれを、この少女はいともあっさりと。
また、喉奥からせり上がってきたこの不甲斐なさを噛み締める。
俺がすべきはこんなことか。慰みの自己嫌悪を弄ぶこと? そんな筈がない。
俺がまずすべきなのは。
「……花宮さん」
「はい、なんですか」
立ち止まり、顧みた少女は己を真っ直ぐに見上げてくる。
白い廊下。射し込む陽光すら白み、それを纏って輝く彼女はまるで人間ではないようだ。それこそ、宗教画に表される天使のような。
愚昧だった。それは俺の錯覚する印象に過ぎない。
俺を、母を労ってくれる、慈しんでくれる彼女があまりにも眩しくて。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。腰を折り、額を膝頭に付ける思いで。
「……」
俺が言うべきこと。いの一番、彼女に対して最初に言わねばならなかったことは。
罵倒でも非難でもない。感謝であった筈だ。
母を慰労し、母を安心させてくれたこの人に、俺はただ敵意を剥くばかりで、当然に為すべき礼を失していた。
ひどく恥ずかしかった。
俺は結局のところ自分の都合しか考えていなかった。彼女の存念が奈辺にあるかはわからない。しかしそれよりなにより彼女が実際に与えてくれたものを碌々斟酌もせず。
やはり俺は愚劣だった。
「無礼なことを数多く言いました。貴女は、確かに俺達を助けてくれていたのに……すみません。本当に申し訳ない。こちらこそ都合よく貴女の厚意に甘えていました」
「やめて、ください」
「……今更、殊勝なふりをしたところで取り返せるものではないとわかっています。でもどうか」
「ち、違うんです」
「! 花宮、さん……?」
震える声音に思わず視線を上げると、そこには泣き顔があった。
驚きと戸惑いが綯い交ぜになった表情に、滔々と少女は涙を溢すのだ。
驚愕というならそれはこちらこそ
嫌々をする子供のように少女は首を振る。沙羅沙羅と、黒髪が白光の中を踊った。
「私、感謝して欲しかったんじゃないんです……そんなこと望んでた訳じゃ。望んでいい訳ない。全部ワガママなんです。私がやりたいこと、カゲユキさんにしてあげたいこと、お母様にしてあげたいこと……全部私利私欲です。全部私の、勝手な願望です。なのに」
両手で口を覆い、俯く。こみ上げてくるものを堪え、抑え込んで。そうして抑えきれず。
「……そんな風に言われたら、どうしたらいいかわからなくなる」
「俺はまた、その、余計なことを言ったんでしょうか」
少女は再び、より激しく首を左右した。
「許してください……」
「それは、なにを」
「嬉しいって感じることを」
黒い瞳が煌めいていた。深い暗黒に光を滲ませ、ふにゃりと泣き笑う顔。
「望まないって言ったのに、やっぱり嬉しい。嬉しくて、堪らなくて。カゲユキさんに、褒めてもらうのが……ごめんなさい、ごめんなさい。悪い子で……ごめんなさい」
さめざめと涙する少女を前に為す術を失くす。
俺はいよいよ、花宮カナミという人物が解らなくなった。
過激な言動と行動と特異な立場。過去、彼女に抱いた憤りや畏怖の念に偽りはない。
しかしそれらは所詮、俺自身が被った非常識であり、打算的に言ってしまえば俺自身の損失は皆無なのだ。
ただ、他者にそれを強いたこと。
母に累が及ぶやもしれないという焦燥。
俺の花宮カナミに抱いた隔意の所以はその二点。特に後者。
ではそれ以外は。
彼女のストーキングや押し掛け女房のような振る舞いについては、俺に嫌悪感はない。監視されるということに好意的になれる筈もないが、精神的苦痛は然程のものもない。
俺はこの少女を嫌っていない。
そして今、再認識を得た。感謝という、当たり前を。
不思議な巡り合わせだ。不可思議な心持ちだ。
「ごめんなさい……あぁ、止まんないっ」
止め処なく流れ続ける涙に当人が業を煮やし、乱暴に手でそれを拭おうとする。
それを制して、ポケットから取り出したハンカチを差し出す。
俺の顔とハンカチを少女の視線が一往復し、程なく綻んだ。またぞろ捧げ持つようにして受け取り、目元を控えめに押さえる。
「やっぱり好きです」
「……」
「私は、カゲユキさんが好きなんです」
数学の命題に新たな証明法を発見したかのような口調で、少女は言った。
俺は、やはり、回答をしかねた。
純粋な、あまりにも純粋過ぎる彼女に、童女のようなこの子に、応えることなど。
どうしてできる。よりにもよって、この俺なんかが。
応えに窮する俺の無様を少女は責めなかった。
ただ、寂しげに微笑むのだ。穏やかに
それが、どうしようもなく胸を衝く。
これとてまたこの賢しい少女の策謀に過ぎないのかもしれない。俺はまんまと泣き落としに嵌まり、絆され、彼女の行為を許容している。
「……あぁ、今更か」
「?」
「いや」
小首を傾げてこちらを見上げる少女に、俺は曖昧に笑みを返した。
俺は既に十分に、なし崩しにあれよあれよと彼女の肉薄を許してしまっている。家に上げたことが最たる過ちだ。今更なのだ。今更深刻ぶる自分こそが滑稽だった。
「また母の話し相手になってやってください」
「っ! はい! 喜んで……!」
「よろしくお願いします」
「お願いします!」
俺達は互いに辞儀し合った。大の男と女子高生。奇妙な取り合わせの、おかしな有り様で。
和かな心地がした。久しく感じたことのないほど。
俺は何かを噛み締めた。きっと、身の程知らずの何かを。
その自覚が明瞭になる、直前。背後に気配を覚えた。足音、衣擦れ、そして声。
「尾上さん……?」
振り返った先にその小柄な姿があった。
ゆったりしたパンツタイプのナース服。季節柄だろう上からカーディガンを羽織っている。
大きな丸い目。顔立ちも相まって、年齢不相応の幼気さの彼女は。
「佐原さん」
「尾上さん、その子……」
佐原さんの視線が背後に流れたことで、俺はようやく事態の窮状を覚った。
花宮と佐原さん。この二人の鉢合わせ。それが未知数の危険を孕むことを思い出した。
あの日、初めて花宮が母の病室を訪れた日の、別れ際の言葉。
────あの女いらないね
あの危うい囁きを。
不味い
花宮の過激さは近く身に染みて理解したこと。その矛先に佐原さんが晒されてしまう。
花宮は容赦するだろうか?
否、俺は迷いなく断じていた。
佐原さんがこちらに歩み寄って来る。
「……」
背にした花宮の気配が膨れ上がる。そこには鋭利な
どうする。どうする。どうする。
すわ、兇気が解き放たれたなら、この身を肉の盾に用立てねばならない。その覚悟を胸に据える。
花宮が、佐原さんが、間近に────
「なに彼女泣かしてるんスか!? このバカちん!」
「……は?」
「もぉべそべそじゃないッスか! あぁあぁ可哀想に。こんな可愛い子泣かすとか幻滅ッスよ尾上さん。ちょっとそこに直って。気を付け! ほら!」
「は、はい」
心持ち姿勢を正して発憤する佐原さんと向き合う。
じっと上から下まで威嚇する仔犬のように俺を睨み付けた佐原さんは、一転して柔らかに花宮に笑い掛けた。
「こういうどーしょーもない朴念仁ッスけど根は真面目で良い子なんで、勘弁してあげてくださいネ」
「えっ、は、はい」
一体どの立場からの物言いなのだろう。
さしもの花宮も、牙の剥き所を逸した様子で目を瞬いていた。
「やーでもびっくりだぁ。まっさかこんな可愛い子が、かんわいいぃ子が尾上さんと……グフフ、上手い事やりましたなー、えー? このこのー。どこまで行ったんスか? ん? お姉さんに教えてみーやな」
「嘗てない品の無さに言葉がないです」
「キ、キ、キス、までは……」
「花宮さん? 花宮さん?」
「────でかしたこんにゃろめ!」
体格差ゆえの、下方からのボディブローがリバーに刺さる。鈍痛が背骨を抜けた。
様々な意味で目眩がした。
危地を脱したという安堵を忘れてしまう程度に、それは酷く、強く。そして実に、痛かった。
ふわりと体が軽くなる。
一歩ごとに、私は宙に浮いていく。
望んではいけない。
期待は、常にあって。
見返りを求めるなんて浅ましい。
貴方が私を見てくれるなんて、夢のようで、いつも夢に見ていた。
ただ、私が、私の都合で、私の願望で、私の……後悔を、貴方を救うことで雪ごうとした。
独善とわかってた。開き直って、一途に狂って、貴方の懊悩を黙殺して。
暗く淀む貴方の目に、少しでも光が戻ればいいと思った。
返ってくるのが罵詈雑言でも、それは紛れもなく生きる力で吐き出すものだから。
憎まれてもいい。そう嘯いていたのに。
貴方が私にくれたのは。
────感謝
私はそれに戸惑い、ただ打ち震える。
背骨を貫く喜悦に、心のやり場を失くす。
カゲユキさん
カゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさんカゲユキさん
ごめんなさい。でもありがとう。
貴方でよかった。
好きになって、よかった。
喜びで心は撓み、緩み、どうしようもなく隙が生まれる。
それが私の油断だった。
イヤホンから耳に流れ込む生活音。
聞き慣れたものだった。一年前からの習慣、ライフワークと言ってもいい。
彼を聞くこと。
映像は機器の質と隠蔽の難易度の釣り合いが取れない為、早々に諦めた。妥協を知らなければ綻びが生まれる。それはすぐに発覚へと繋がる。
慎重に、慎重に、慎重に慎重を重ね、こうして彼の日常の中に“耳”を埋め込むことができた。
母親の見舞いに訪れた彼の衣服、鞄に盗聴器を仕掛けるのは簡単だった。
彼の自宅住所を、入院の更新手続きや各種書類から早々に入手できたのは本当に幸いだ。
本当は家に押し掛けて、いろいろなお世話を焼きたい。けれど踏み込み過ぎれば、彼が遠ざかることを知っていた。だから我慢した。
尾上さん、遠慮深い人だから。
私を頼ってくれる、私だけを。この関係が心地よかった。
我慢した。
我慢してあげた。
なのに。
それはあんまりじゃん。ねぇ、尾上さん。
許さねぇからな
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