斯く歪みしや




 保険適用でも、こんなにするんですか?

 個室料金じゃないんでしょう。大部屋の入院費で

 こっちだって余裕がある訳じゃないのに

 ああもう、ほんっと厄介だわ

 あの人もなんだって今更、自分が面倒を看るなんて言い出したんだか

 次男なんだからお義兄さんに任せればいいのよ

 どうせ後々のことは全部私がやらされるんだもの

 いいわよね、男は仕事だけしてればいいんだから

 家の苦労なんてなんにも考えてくれない。その上また、お義母さんの介護まで

 なんで私ばっかりこんなに苦労しなくちゃいけないの。どいつもこいつも

 ねぇ、看護師さん。入院費用ってもう少し安く上がりません? 食事も一日一回くらいで

 どうせ自分がなにを食べてるかも覚えてませんよぅ、あの人


 中年の女はそう言ってけらけら笑った。

 私は曖昧に笑みを返して、込み上げてくる吐き気を堪えた。





 最初の出会いは、県立がんセンターの待合所で。

 その日の入院患者の受け入れを終えたナースセンターへの帰り道。胸に湧いた黒い淀みをどうにか喉の奥に仕舞って、重みを増していく足で床を蹴る。

 嘔気にも似た不快感。それを紛らわせる心地で、私は周囲に視線を泳がせた。その先に。

 壁際に片手を付いて体を傾ぐスーツ姿を見付けた。会社員風の男性、遠目に年齢はよくわからなかった。

 たまたまその時、周囲には他の看護師も職員もいなかった。入院用のケア病棟に一般外来の患者が迷い込むのはよくあることだ。

 医療従事者としての使命感、なんて大袈裟なもの随分前に脱ぎ捨ててしまった。単に職責を果たす為、私は彼に声を掛けた。


『どうされました? とりあえず、椅子に座りましょうか』

『……いえ、お構いなく。ちょっと立ち眩みしただけで、問題ありませんから』


 病院に来て、見るからに体調不良な人間が、何を言ってるんだろう。

 一瞬、私は呆れて言葉を失くした。

 近くで見ると、思ったより若い。自分ともそう歳は離れていないだろう。

 ただ、若々しさ、みたいなものはほとんど見られなかった。顔色は悪く、目の下には黒々隈が浮いている。髪は短く刈られ整えられてはいるし、スーツやシャツはきちんとクリーニングがされている。けれど、全身から陽炎のように疲労と憂鬱が漂って見えた。


『問題ない訳ないでしょ。一般病棟までご案内しますから、一応診察を』

『本当にお構いなく。診ていただくような病気ではないので……時間休で、早めに戻らないと。あまり長居できないんです。すみませんが』


 体を支えようと近寄った自分を、彼は片手で制した。それは遠慮だったのだろうが、私には邪険にこちらを追い払うような所作に見えた。少なくとも、その時の私の目には。

 所見から単純に栄養状態が良くないという点を差し引いても、彼の様は有体に言って、その……ひどく病んでいた。明らかに心を廃らせていた。

 だから。


『心療内科ならバスで一駅ですよ』


 思わずそんな言葉が口をつく。はっとして口許を手で覆った。

 我ながら失礼過ぎる。悪態以前の心無さ。赤の他人に、それも何を置いても看護師たる者が、病院で、患者かも知れない相手に。

 胸の汚穢おあいが、零れてくる。どうやら倦み疲れているのは自分も同じだった。

 恐々と男性を見上げる。当然の罵倒を覚悟して。

 だのに。

 彼は微笑んでいた。気後れするみたいに、穏やかに。


『ありがとうございます。多分その内に、お世話になると思います』

『……』


 皮肉のような言葉を、皮肉も厭味も含めずに、感謝で返される。

 それは、今の私にとってはどんな罵詈雑言よりも堪えた。











 本物に憧れた。

 家族とか、愛情とか、そういう綺麗なもの。そこに曇りのない純粋さを欲した。嘘偽りの一欠片も、お為ごかしの欺瞞さえ許せなかった。

 私は偽物を嫌悪する。

 私の家族は偽物だから。

 私への愛は偽物だったから。

 私が、偽物の子供だったから。


 よくある話だ。

 子供のできない夫婦が孤児みなしごを養子縁組して家に迎える。私達血は繋がってないけど、そんなこと関係ないこれからは本物の家族で一生愛し合っていこうね。

 最初の一年は私もそれを真に受けて朗らかに過ごしていた。引き取られた引け目や父母子全員が他人同士なんだという賢しらな緊張感も、一年過ぎた頃にはすっかりと薄れ、私達は世間的には何の変哲もない、暖かで理想的な家庭の風景を築き上げていた。みんなきちんと演じきっていた。

 そう思う。少なくとも表面上。

 それがメッキだと気付いたのは、養母ははの妊娠が発覚した時だ。

 長らく子供を授からなかった夫婦、遂にご懐妊めでたいめでたい……とはならなかった。

 それはそうだ。できる筈ないのだ。

 養父ちち無精子症たねなしなんだから。


 勿論、夫婦には精子バンクへ登録し体外受精で子を得ようなんて予定も、もっと手っ取り早く他の男に妻を抱かせて種を植えるなんて偏った趣味もなかった。

 宝くじを当てるような奇跡的な確率で夫が妻を孕ませることに成功した、などという一抹以下の可能性きぼうも、現代のDNA鑑定技術の緻密な精度の前には無きものとなった。

 要は間男がいて、夫はまんまと妻を寝取られていた訳だ。


 その後、この家庭が崩壊の一途を辿ったのはまあ当然の結果として。

 罵詈雑言を飛び交わす内に、様々なボロが皮下アテロームの膿のように吹き出始めた。

 妻は不倫を皮切りに、若い男に貢ぐ為に貯金を使い込み、飽き足らず遊ぶ金欲しさに家財を勝手に売って、売り上げを懐に入れていたことが明らかになった。

 夫の方もただの哀れな被害者などではなかった。種無しが免罪符になるとでも思ったようで、夜遊びはその実こちらの方が派手だった。その癖妻には貞淑さを厳格に求める。不倫の事実が発覚したのは妻の懐妊が決定打だったが、どうやら夫は以前から妻の周囲を監視していたらしい。

 膨大な数と種類の盗聴器、盗撮カメラ。妻の不貞を詳らかにすると同時に、夫は自身の異常な偏執性を露見した。


 汚れた恥部を見られた人間は、恥じ入るよりもまず怒りで凶暴になる。隠していたものを暴かれた自分こそが被害者だと言わんばかりに。

 本性が露になる。


 ツンドラの凍土のように冷えきっていく家で、私はまるで他人事みたいに素朴な疑問を持った。

 この有り様で、よく養子を取ろうなんて考えたなと。

 夫は職場で相応の地位に在り、良い歳で子無しは体面が拙かったようだ。

 妻は妻で、同年代の友人家族が次々と子を儲け、彼女らの愚痴に隠した幸福自慢を聞かされることに耐え難い苦痛があったとか。こちらもまあ、体面か。

 とんだ似た者夫婦もあったものだ。


 彼らが離婚へ踏み切るまでそう時間は掛からなかった。体面で結婚を決め子供を引き取ったわりに、縁切りに対する羞恥心は緩かったらしい。

 私は養母に引き取られた。自分で選んだ訳ではなく、この国では法的にそうなることが多いというただそれだけが理由だった。

 当然なのか必然なのか、養母は自身を孕ませた男の許に身を寄せた。

 自分もそれに付いて行くことになった。


 最悪というなら、きっとその時期が。

 私にとって一番の不快な記憶。


 新しい家。新しく宛がわれた部屋。

 そう、あれは深夜だった。

 静かに開かれた扉の隙間から廊下の明かりと共に何かが忍び込んできた。

 薄く、眠りの淵にある意識、ベッドに近寄って来る人影が。

 布団を捲り、私のパジャマを脱がして、胸を弄った────


 当時十三の私に、新たな父親はその欲情を向けた。


 怖かった。ただひたすらに、声も出ないほど。形にもできない絶叫を胸の奥に押し殺して、私は夜毎寝たふりをして男が去るのを待った。

 週に一度だったのが、三日に一度になり、そしてその手が胸だけでなく下腹へ及んだ時、私は遂に耐えられなくなった。

 養母に全てを話した。あの家の中で、私が頼ることができるのは唯一彼女だけだったから。


 ────あんたから誘ったんでしょ


 養母は私を睨め下ろしてそう言った。その目には憎悪と、まるで汚物でも見るような嫌悪が滲み出していた。

 不思議だったのは、彼女が腕に子供を抱いていたことだ。三歳になる彼女の実娘を。

 黒く燃える火のような呪詛を私に吐くその人。腕に抱いた娘を優しく撫であやして揺するその人。

 憎悪と愛情を並べ立てるその人。

 ひどく、不思議だった。不思議な心地だった。

 こんな人間。こんな、矛盾が服を着て立っているような人。

 だのに……私はひどく、羨ましいと思った。

 実の母親に抱かれるこの子が、そして血を分けた愛しい娘を腕に抱けるこの女の人が。

 “本物”を得た彼女達が。

 不思議だった。私は自分自身が不思議でしょうがなかった。


 中学卒業を機に家を出た。あそこに私の居場所はない。苦痛に耐えてまで居座る理由も皆無だった。

 そのまま寮付きの准看護師養成学校に進学し、二年間を比較的穏やかに過ごした。看護師を目指したのは、前の養父が医師だったことも確かに切欠の一つだ。けれど、私が医療現場に求めたのは仁の心、なんかではなく。

 “本物”。

 私はどうも、それに憑かれていた。

 生命の進退に係わるこの世界なら、それを見付けられるのではないか。“本物”の何か。“本物”の……心からの生成物を。

 私に向けられたものでなくてもいい。誰かが誰かを、真心で想う。そんな風景を、私は欲した。餓鬼のように、渇いていた。


 期待とは往々にして裏切られる。

 三年間の実務経験を経て正看護師になった私を待っていたのは、逼迫し余裕を失くした医療現場の悲鳴と、患者やその家族達の生臭い憎しみ合いだった。


 わかってる。それだけじゃない。それだけじゃなかった筈だ。

 ひたむきに治療に専念し、快癒を目指そうと努力する患者さん。それを支え援ける家族。医師や看護師の奮闘が、苦闘が。

 確かにあった。綺麗なものはあった。

 だがそれを穢すものがあまりにも多すぎた。憎悪を、殺意を覚えるほどに。


 私はひどく疲れてしまった。

 “本物”を探すことに疲れてしまった。








 また一つ、汚穢を呑み込んだその日、私は尾上カゲユキと出会った。

 ステージ4、末期に入りケア病棟へ入院している母親を見舞う為に、彼は病院を訪れていた。

 その頻度は、お世辞にも高いとは言えない。一月の内、三度も来ればよい方だった。私生活の忙しさを理由にして入院患者への見舞いを疎かにする家族は珍しくはない。

 実際、彼の職場は激務であり、法定休日すら守られているかどうかといった具合だ。

 言い訳。責任逃れ。

 当時の私の潔癖で欲張りな心は、彼をそう批難した。

 彼は見舞いに来る。それとなく事情を探ると、有給申請がそもそも受理されないらしい。昼休憩の時間、上司の目を盗んで来た、なんて日もあったくらいだ。

 彼は来る。息せき切らせ、身を殺ぐようにして時間を作り、ここへ。


 B棟の奥、305号室。彼を待つお母さんの許へ。


 病室に入る前に、彼は必ず身嗜みを整えた。その様は傍から見ると、面接に臨む就活生というか、お見合相手に会う独身男というか、なんとなく滑稽だった。

 けれど、絶対に必要なことなんだと私は知っている。

 彼の懸念。彼が最も嫌うこと。それは、母親を心配させることだった。毛先ほどの心労さえ掛けたくない。そんな願い。

 そのある意味強迫にも近い潔癖さに、私は少しだけ共感を覚えた。


 倦み疲れ、窶れていた顔に生気の仮面を施し、彼は柔らかに微笑んで母と対面する。何の心配もないと、極上の慈しみで、ただただ平凡な親子の会話を交わす。

 本当はろくに睡眠時間も取れず食事さえおざなりで、過労で心身を傷めつけている癖に。そんなものおくびにも出さない。


『……いつか死にますよ。こんな生活続けてたら』


 私は言った。今度は努めて無礼に、無神経に。

 怒りで一念発起してくれたらそれでいいし、私自身どこかで怒りを燻らせていた。自分自身を蔑ろにして、それを当然と思っている節があるこの人に。

 彼は一度、目を瞬いた。心底意外なことを言われた、そんな顔。

 そうしてまた微笑むのだ。どうしてか……嬉しそうに。


『俺はまだ死にませんよ。母が頑張って、頑張り終えるまで』


 決定事項を口にする。声には確信さえ宿っていた。

 なんだそれ。

 それじゃあまるで、母親が死んだら、自分も死ぬって、そう言ってるようなものじゃないか。


『はい、それだけが俺の命の使い途です』


 はっとして彼は、失言でしたと私に謝罪した。本当に口を滑らせてしまった様子で、気恥ずかしそうに。

 私は、病院を去って行く彼の昏い背中を見送った。いつまでも、いつまでも。


 命を削るような献身。無償の慈しみ。

 愛。

 それの源泉が、決して明るいものではないのだと私は感じた。彼は彼の、彼だけの理由によってああなってしまったのだと。

 きっと私と同じ、歪んだ心で。

 それでも、彼は。


 やっと見付けた


 私は見付けた。

 私の理想ゆめを、私だけの“本物”を。











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