蠢動



 これが恋愛感情かどうかさえ、私にはわからない。

 彼を見付けたことが、彼の献身を見詰めることが、私にとっての救いだった。胸の奥にぐつぐつと煮立つヘドロのような黒が清められ、代わりに一雫、綺麗な光が残った。

 私の歪み走った人生で、それがどんなに優しかったか。どんなにか、愛しかったか。

 尾上さん。

 いずれ、貴方の尽力の日々も終わるのでしょう。悲しいけれど、その日は来てしまう。

 私は、ひどく恐ろしくなる。その時、貴方はどうなってしまうのか。

 いや、その時を迎えた貴方を見て、私は正常まともでいられるのか。

 一つだけ確かなのは、私は失望とは無縁だろうということ。

 むしろその逆。側へ、私の心が移ろうことをこそ私は恐れた。心底から恐れ、慄いた。

 貴方は大切な人の死を悲しみ、嘆き、打ち沈み、重く重く自分を責め苛みそれを何度でも繰り返すだろうことは目に見えていて。そしてそれは彼の母親が存命している今でさえ変わらない。

 その姿を、私は。

 絶望に打ちひしがれ、きっと抜け殻となる貴方を、私は。

 愛おしんでしまうのだろう。

 貴方の絶望が深ければ深いほどに、貴方の愛の深みを知る。

 貴方のそれが、本物であることを私に証明し続ける。

 貴方を労りたい。慰めたい。この体を使ってもいい。貴方のほんの僅かな安らぎにでもなってあげたい。悲しみの一粒でも掬って、救ってあげられたなら、それはどれほどの喜びだろう。

 でも、私は。

 私は────貴方の抱える暗黒に理想ゆめを見ている。焦がれるくらい、狂えるまで。

 それは甘く、甘く、ひたすらに甘く。蜜のように、発酵した果実のように。甘みで味蕾が弾けてしまうほどに。

 私は悦びを知った。

 貴方の、本物の絶望が、この心臓を掻き毟る。そのあまりにも甘い痛みにエクスタシーを覚える。

 私は頭がおかしいんだと思う。生来から何処かしら壊れていたんだ。それが物心ついて第二次性徴を終えるまでに修復の余地を失くした。

 他人の不幸に、悦楽を見出だす。そういう外道に堕ちた。

 でも、幸せだった。幸せなんです。幸せを知ったんです。

 貴方に、初めて。

 私は貴方で幸せを知ったんです。

 お母さんに笑い掛ける尾上さん。身を粉にして働く尾上さん。花瓶にお母さんの好きな花を活ける尾上さん。待合所の椅子で転た寝する尾上さん。病床で眠るお母さんを優しく見守る尾上さん。職場と自宅を無表情に往復する尾上さん。起きていることも少なくなったお母さんにそれでも静かに語り掛ける尾上さん。日に日に目の隈が濃く血色も悪くなっていく、それでも、それでも、尾上さんは。

 たった一つの為に生きている。

 お母さんの闘病を支え、そして看取る為に。

 それだけ。それだけの人生。他の意味を残らず除外した一筋限りの道。



 いつだったか。珍しいことに。

 病院の食堂で彼と一緒に昼食を摂った。

 ほんの10分足らずの時間。早く会社に戻らなければならないからと彼は実に義務的に栄養の摂取だけに専念していた。掃除機がゴミを吸うような食事だった。

 ちらほらと伝え聞く限り、最低のブラックな職場に彼が身を置いているらしいことはすぐに知れた。

 その頃の私はまだ、尾上カゲユキという男性について懐疑的だった。無償の献身なんて絵空事だと思っていたし、なにより自分が抱いた感情の形をまだ自分でも理解できていなかったのだ。

 だから、私は無遠慮にこんなことを尋ねた。


『そんな生き方してて楽しいんでスか?』


 彼は一瞬、目を見開いた。こちらの言葉の意味自体がわからないと。

 そうしてしばらく考えて。


『楽しいとか、楽しくないとか、ここ最近考えたこともなかったです』

『……重症っスね』

『自分でもそう思います』

『いや笑い事じゃないんスけど……』

『はい、本当に。ただ』


 その時見た彼の目に迷いはなかった。

 暗く、淀んで、綺麗とはお世辞にも言えない目。でもひたすらに、真っ直ぐで、嘘のない目。


『俺はそういうものだから』


 確信して彼は言った。

 意味は、よくわからなかった。

 自分自身でもその言い様が不明瞭だと気付いたのだろう。彼はまた思索して言葉を選んだ。


『母は、今までさんざ苦労してきました。俺の所為です。いや……俺の、為にです。体を壊すことはしょっちゅうで……今の病状の重篤さは、その無理が祟ったんだと思います間違いなく。だから、あの人には楽になって欲しいし、その権利がある。そして俺にはそれを叶える義務がある。それは変わりません。不文律です。何を置いてもこれだけは、絶対に』

『いや、でも、じゃあ尾上さんは。尾上さんの人生はどうするんスか』

『そんなものはありません』


 それはまるで切って捨てるような、色も温度も宿らない声だった。

 おかしなもので、むしろ慌てたのは向こうだった。


『すみません。俺は……俺はやりたいことをやってるだけです。結局は、自分の望む通りに生きてる。自分勝手に、自分本意にです』

『それこそいつか無理が祟りますよ』

『まだ大丈夫です』

『っ、大丈夫なわけっ、言わせてもらいますけど! 尾上さんだって立派な病人ッスよ! 体に鞭打つだけ打ってボロボロなの自覚してますか?』

『ははっ、そうかもしれません。自業自得ですね』

『だから……』


 何故、そんなに晴れやかに笑えるの。


『望む通りに生きて、今がある。全部、独善ひとりよがり、ですから』


 わからなかった。

 夜の海に身を沈めるような生き方が。

 それを笑って、受け入れるこの人が。

 家族を支える献身に並立する頽廃と破滅の相。

 私は、知りたいと思った。

 彼に盗聴器を仕掛けようと思ったのは、その後間もなくのことである。幸いにもそのノウハウは前の養父から、養母からの悪口という形で聞き知っていた。既製品や製作法、仕掛けるコツ等、改めて調べるにせよこの前提知識は端緒になった。

 静かな音。彼の心根を体現するかのように、彼の帯びる音は音であるのに静謐だった。

 優しい気配。

 病院で見せる慈しみの顔。

 無明の闇のような私生活。

 それらは相反するだろうか? いいや、しない。それらは合わさり混ざり合い彼という為人を形成している。

 穏やかな慈愛と破滅が同居する。


 私は貴方に夢中になった。

 それは実に、必然だった。


 歪みに共感した。救いようのない闇に憧れた。

 絶望と同じほど、愛の深い貴方は本物だった。

 私が恋い焦がれて止まないもの。病み憑かれた真実。


 愛しています。

 求めています。

 尾上さん、貴方が欲しい。ずっとずっと想い続けてきた。

 せめて、貴方の望みが叶うまでは見守っていようと。この欲望を鎮めて、待ち続けていた。




 あの女が現れるまで。




 尾上さんに近付き、尾上さんの聖域を穢し、あまつさえ、よりにもよって。

 触れたな。貪ったな。その指で、口で。

 売女。淫売。糞女。

 てめぇ許さねぇ誰の許しを得て何様のつもりでなにをとち狂ってこの女この糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞。

 よくも。

 よくも。


「花宮カナミぃ」


 あの人を求めたのは、最初に見付けたのは。

 私なんだよ。

















 ビルの合間に浮かぶ茜の陽。眩い夕焼けが駅のホームに注がれる。

 帰宅の途につく人々の喧騒を尻目に、私は夢中でスマホをタップする。


『お仕事お疲れ様です!

 早速ですけどこれ見てください!

 カゲユキさんの家の近くのスーパーで豚バラブロック特売です

 カゲユキさん豚肉派でしたよね?

 じゃあお夕飯は角煮でどうでしょう』


 地域密着のスーパーマーケットらしい粗い印刷のチラシ。その画像をメッセージアプリのトーク覧にアップロードする。

 カゲユキさんにこうして献立の伺いを立てるのも、すっかり日課になった。

 程なく、返信が入る。


『お疲れ様です。

 もう授業は終えられたのでしょうか?

 再三申し上げていますが、どうか学業に支障を来さない程度にお願いします。お世話になっておいて偉そうに言えた筋ではないですが……。

 本当にご無理のない範囲で。

 

 豚肉は好物です。

 ありがとうございます』


 それはいつも通りの、ひどく気遣わしげな文面だった。私が自分の部屋を訪れることを彼は相変わらず渋ってるし、なんなら未だに折に触れてこの習慣自体を取り止めるよう説得してくる。

 もちろん、聞いてなんてあげない。当たり前じゃないですか。

 せっかくここまで漕ぎ着けた。ここまで近付けたのに。ここまで、許してくれた。

 最後のたった二行の文章。そこに宿った人間性。自分の好みはおろか、願望の類を一切口にしない人が、それでもほんの少し、微かだけどそれを垣間見せてくれた。

 私は笑みを堪えられなかった。

 出会い方も、その後の交流にしても、普通とは言えない。私には普通の恋愛なんてわからない。

 きっと、踏み込み過ぎたのだと思う。

 身辺調査、遠い系列会社に対する横暴な監査、自宅への押し掛け。なによりも。

 お母様のこと。あの時、彼は本気で怒りを露にした。初めて生身の人間の感情を見せた。

 理不尽に殴られ、時によっては血を流しても苦笑一つで済ませる人が、鋼鉄のようなその理性の堰に罅を入れた。

 罪悪感と羞恥に身が縮む。自分が大それたことをしたのだと理解する。彼の怒る目が、私に思い知らせる。

 けれど、同時に。

 私は、嬉しかった。

 怒ってくれたことが、それ以上に許してくれたことが。

 そして、なによりも、心を見せてくれたことが。

 少しだけ。ほんの少しだけでも、その苦悩の捌け口になれたのかもしれない。僅か一粒の救いであったとしても。いや、そうであってくれたら。

 それが私の幸福だった。

 あの人からのメッセージを眺める。自然、顔が綻ぶのがわかる。

 どうやら自分が思うよりずっと長い間そうしていたらしい。

 唐突に、その至福の一時に邪魔が入った。

 着信だった。もちろん、カゲユキさんからではない。

 画面に表示された名前を私は無感動に見下ろす。


 藤堂


 “私兵”の一人。私が保有する指示系統の直下、中間管理者であり、各部門を統括する長でもある。

 通話をタップ。


「なにか」

『尾上様の周囲に“耳”の形跡があります』

「……それは集団? それとも個人?」

『個人のようです。市販された機器と自作のものが幾つか。業者の仕事ではありませんが、かなり手慣れています』

「特定しろ。処理はその後に決める」

『承知いたしました』


 通話を切る。

 冷えていた。冬を間近に控えた乾いた空気。

 声も、体も、心も。暖かなものは一旦、胸の奥底に仕舞って。

 私はこの、冷たい刃のような殺意を研ぐ。









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