憎み合う女と女
非日常的な出会いと非常識的な仕業を目の当たりしてもなお、日々は穏やかに流れていった。あるいは、それは以前よりもよほど平らかに。
俺の勤める職場には全面的な労働環境の見直しが計られた。元々良好とは言い難い繁忙さと拘束時間、大いに戸惑いながらも社員達の間に喜びと安堵の空気が流れたのは無理からぬことだった。
そして時には。
「尾上さん……ありがとうございました」
その年の春に入社した新卒の彼ら、彼女ら。想像外の激務に疲弊し切りだった若手社員に、密やかに感謝を囁かれる。
大きな声を出す訳には行くまい。この部署を挙げた待遇改善施策は、全き私刑に伴った副効用。謂わば
尾上カゲユキは、会社重役のさらに上、さらにさらに上の重鎮の娘と恋仲、婚約者、忌憚なく言えば所有物である。寄るな触れるな。下手を打ち僅かでもご機嫌を損ねたなら、地獄を見るぞ。
子飼いの裏仕事の専門業者に捕まり、手足を折られ体中を切り刻まれる。悪くすれば、会社どころかこの世から始末される。警察にさえその息は掛かっていて、通報しようと出頭しようと無駄。絶対に助からない────とかなんとか。
そうやって噂話の尾鰭が孔雀のように生え揃った頃、少なくとも噂の一部を俺は否定できなくなった。
恋仲。そういう勘繰りを受けても仕様のない関係、なのかもしれない。
あれからほぼ毎日、彼女は足繫く俺の部屋に通った。手料理を振舞い、家事雑事を一手にこなし、朝夕の通勤通学を共にする。彼女が直接会社に出向き、帰り路を共にすることさえあった。
遠巻きにこちらを見る同僚達の目。それは畏れを含みながら、どこか生温かかったのを覚えている。
「ふふ、ちょっと照れますね」
彼女は、母の見舞いに行くことも欠かさなかった。業態が落ち着いたとはいえ会社員である俺などより、今やずっと頻繁に、熱心に、細やかに、病院を訪れては母の身の回りの世話を焼いてくれた。
「お母様のパジャマ、白とかピンク系ばっかりです。柄物とか、お母様お花が好きなんだからワンポイントでも。寒色のものだって季節感があっていいと思います。もっとバリエーション増やしましょう。その方がお母様だって楽しくなれるじゃないですか。あと! これが一番言いたかったんです髪のセット! 病院の理容師さんが悪いとは言いません。言いませんけどそれだけじゃあんまりです! 訪問サロン、来てもらいましょう。私、伝手があって、良くしてくれる美容師さん知ってますから、ね?」
不敏で粗忽な俺では見落としてしまうような母の変化、心の機微を覚って気を配り、なにくれとなくアドバイスをくれた。
ある日、俺が病室を訪れた時。彼女は既にそこにおり、ベッドテーブルに置いた鏡の前で母と二人笑い合っていた。テーブルの上には色とりどりの化粧道具が並べられ、母の顔に彼女が手ずからメイクを施す。
「尾上さん、見て。お母様、すっごく綺麗」
長らく化粧などする機会もなかったろう母に、その機会は得難く、思慮はどこまでも深かった。しかしどうか。そうやってはしゃぐ少女の無邪気な様にこそ、母は嬉しげに顔を綻ばせていたように思う。
穏やかだった。
日々は平穏に過ぎて行く。望外の、暖かさで。
当初彼女に対して燃やした怒り、懐疑が、筋違いなものに思えてくる。実際そうなのだろう。彼女は決して、母に無体な真似を働いたりはしなかった。最初から、今の今までもずっと。
俺が他人に信頼を覚える理由としてはそれで十分だ。彼女は俺以上の孝行で母に尽くしてくれている。
そして、どうしてか、俺に対しても情を掛けてくれる。
俺に価値はない。そんなものを受け取る資格がない。
けれどだからとて、それで彼女の誠意が価値を失うこともない。
誠意には、感謝を覚える。当たり前のことだ。
感謝している。花宮カナミに。そして、担当看護師である佐原アミにも。
不誠実というならそれこそ俺のこの様こそ最たるものだ。俺は独り善がりを自覚しながらその実なに一つ一人では為し得なかった。母に安堵一つ与えることも叶わなかった。
そうして、あちらこちらと助っ人を頼り、頼り切っている。
「なに言ってるんスか」
これもまたある日のこと。
病棟の廊下で偶然行き会った佐原さんは、俺の浮かない表情を看破するや、先の内心を巧みに聞き出した。
「尾上さんに頼られて、嬉しくなかったことなんてないッスよ」
柔らかに笑み。彼女は俺の手を両手で包み、そっと握る。
子供のようなその小さな手は、俺などより遥かに力強く、血の通いを、熱を感じられた。
情熱の篭った目が俺を見上げた。
看護師の職責か、使命感すら帯びた声音で。
「嬉しかったッス。今までずっと……これからもずっと、そうならよかった」
「?」
彼女の吐息するような囁きを、俺は汲み取れなかった。
ただ、一瞬伏せられたその大きな両瞳に、なにかを。いつかどこかで見た筈のなにかを。
やはり俺は機微に疎く思慮に欠けた。そうした人としての当然の情操が未熟で不出来で劣悪だった。所詮、言い訳に過ぎないが。
俺は何にも気付かず、何も知らぬ愚か者だった。
「サエコさんの容態について
「……はい」
「今の状態は、緩和ケアにおける本当の意味での
「はい……はい」
俺は、幾度も幾度もただ返事を口にした。それは決して応答とは言えなかった。
覚悟。それを求められているのだと、理解できる。その時が近いのだと。
今の俺が覚悟を固め切れているとは到底言えない。俺はただ精神を動揺させ、現実を咀嚼するだけで精一杯だった。
「……もし急変があったら、私が直接尾上さんに連絡します。それくらいさせてください」
「ありがとう……ありがとうございます、佐原さん。いつも、いつも気に掛けてくださって、本当に」
「いいんスよ。やりたくてやってることだもん。尾上さんとおんなじ、そうそう尾上さん風に言うと────私は、そういうものだから」
上目遣いが己を見上げる。そこにはやはり笑みがある。ひどく柔らかで、どこまでも柔らかで、どうしてか蕩けるような。
「どうしようもなくそうなんです。もう、どうしようもない」
「どういう、意味ですか……?」
「んー、秘密です。その内聞いてもらうッス」
「はあ……」
結局、煙に巻かれたような心地のまま彼女とはそこで別れた。
定時上がりの帰り道、近頃はようやくその違和感も薄れ始めた。
駅前でスマホにメッセージ通知。花宮からだった。
『お仕事お疲れ様です!
早速ですけどこれ見てください!
カゲユキさんの家の近くのスーパーで豚バラブロック特売です
カゲユキさん豚肉派でしたよね?
じゃあお夕飯は角煮でどうでしょう』
すっかり慣れた調子のメッセージ。こういった遣り取り自体がもはや日常になりつつある。
このままでいいのか。その疑念は未だ尽きない。しかしいい加減己のこの諦めの悪さこそ潔さに欠ける、そんな風に思えてきたのも事実だ。
学生である彼女の本分を、むしろ自分に言い聞かせる心持ちでメッセージとして返す。
自宅の最寄り駅で落ち合う約束をして、そのまま定期券で改札を抜けた。
直後のことだった。
「!」
つい今しがたポケットに仕舞ったスマホが震動した。着信である。花宮からまだ何か要件があったのだろうか。
改札から遠ざかり、柱の近くで画面を確認した。
佐原
心臓が一段、鼓動を速める。
覚悟せよ。覚悟せよ。覚悟せよ。
最悪の報せを思い、喉は干からびていく。スマホを握る指が震え、通話をタップするただ一挙動に全霊の力を要した。
だが聞かねばならない。実際、身体が硬直していたのは数秒のこと。そんな惰弱は許されない。俺はそれを聞き、責任を果たさねばならないのだから。絶対に、断じて。
通話状態のスマホを耳に当てがった。
「もしもし」
『サエコさんが急変です! 今ケアセンターから救急病院へ移送しました!』
「移送!? どういうことですか!?」
『病状に対応できる医師がいなかったんです。とにかく急いでセンター最寄りの駅に来てください。私が迎えに行きます。早く! 間に合わなくなる!』
「っ! わかりました。すぐに向かいます」
些末な疑問符など吹き払う剣幕が耳を突いた。なにより今の俺には、細事に思考を割くだけの余裕はなかった。
駅構内を走る。構内放送は冷徹に駆け込み乗車の制止を呼び掛けるが、聞く耳は持てなかった。
電車に乗る前に連絡を受けられたのが唯一の幸いだ。
俺は真っ直ぐ、自宅とは反対方向のホームへ、折よく滑り込んで来た快速電車に飛び乗った。
県立がんセンターの最寄り駅。見馴れた駅前のロータリーに人影は少ない。時間帯を思えば帰宅の途に着く会社員や学生が多く行き交っていそうなものだが。
繁華街は遠く、住宅地からも然程近いとは言えない。元々人通り自体が少ない地域だ。偶さか空隙にかち合ったのだろう。
どうでもいい疑念は早々に脳内から退去していく。
今は、ただ急ぐ。何を置いても急ぎ、行かなければ。
送迎車用の路上駐車スペースに一台、白い軽自動車が停まっていた。左側のウインドウが開き、運転席側から小柄な姿が身を乗り出す。
「尾上さん! こっちです!」
佐原さんに呼ばわれ、俺は即座に駆け寄った。
わざわざドアを開いてくれ、その誘導に従い自然に車中へ乗り込む。
「佐原さん、母は、移送されたとはどういうことです!?」
「はい、まずはですね」
ドアを閉めた直後にがちゃりと
「これを見てもらえますか?」
「は?」
彼女が上着のポケットを弄り、取り出したそれを俺に差し出し……そっと脇腹に押し当てた。
黒く武骨な機械。形状そのものは電気シェーバーによく似ていた。それが少し、間が抜けて見え。
真に間抜けであるのは自分だと、直後に覚る。
閃光、そして紙束を引き裂くような音、繊維の焦げ付く臭い。
全身を襲う痛みと痺れ、痙攣。
「がぁっ……!?」
スタンガン。
白化する視界、混濁する脳内に、浅い知識からそんな名称が過る。
しかしスタンガンとは本来、相手の動きを一瞬掣肘する程度が関の山だという。市販される護身用の製品はしっかりと電圧と電流が調整されており、ましてや気絶などできない。
できない筈だ。だのに今、俺はその間際にあった。
「改造したんです。電子機器って覚えてみると中身は結構みんな似たり寄ったりなんスよ」
「か、はっ、が……」
足掻き、もがき、ドアノブに手を掛ける。勿論手応えはない。施錠する様を今見たばかりなのだから。
「ごめんね、尾上さん。痛いッスよね。でもちょっとだけ我慢してください」
「さ、わら、さん」
言うや、手首には手錠が掛けられた。二つの輪の内、もう一方は自分が腰掛ける座席のフレームに固定されている。
佐原さんの動きに淀みはなかった。
そして、いつ取り出しのか。薄いゴム手袋を嵌めた手に、注射器が握られていた。
「ただの筋弛緩剤です。大丈夫。呼吸器に影響する量じゃないッス。ちょっとダルくなるだけ。ほんの少し、ほんの少しの間だけ、」
「っ……!」
首筋に針先が触れ、あっさりと刺しこまれた。その手付きは流石現役の看護師だなどと、明後日の称賛が過るほど。素早く、正確に。
彼女は迷いなく、そのままプランジャの尻を押し込ん────その時、運転席側の窓に。
人影が立った。影のように黒い姿。黒いスーツを着た男性だった。
その手に、ハンマーが握られている。一見、工作道具の拵えではない。あれはそう、確か、窓ガラス破砕用の。
振り落とされたヘッドが命中する。けたたましい音に反して実に脆く、窓が砕け散った。
「!」
今やただの穴と化した窓から腕が侵入し、それがドアロックボタンを解除する。
その瞬間、一斉に両側のドアが開かれた。弾けるようにして。
黒、黒、黒、一様に黒いスーツを纏った男達が、佐原さんを、そして手錠の鎖をチェーンカッターで断ち切って俺を、車外へと引き出す。
混乱は容易く極致へ昇ったが、青天井だった。
ロータリーの歩道脇に連行された俺達を出迎えたのは、一人の少女。花宮カナミだった。
「カゲユキさん、怪我は」
少女は即、俺に取り付き、尋ねながら返事を待たず全身を触診していった。
「花宮、さん。これは一体……!?」
「助けに来たんです。当たり前じゃないですか。遅くなって、ごめんなさい」
電撃を浴びた俺よりもむしろ痛みを堪えて、花宮は微笑を浮かべる。
それも一瞬のこと。
俺から外れたその視線は、佐原さんを捉えた途端、黒く棘のように凶く染まるのが見えた。
黒服二名に後ろ手を取られた佐原さんと相対する。
花宮と佐原さん、互いに互いを睨め付けて、その敵意はもはや明白。いや、殺意すら滲んでいた。
「佐原アミ、だっけ?」
「花宮カナミぃ」
片や凍て付き、片や燃え盛り、同質同量の怨嗟の声を交わす。
「お前の処理の仕方は正直どうでもいい。ただ、二度とカゲユキさんに近付けなくしてやる。軽々しく近付いたことを後悔させてやる」
「後からしゃしゃり出て来た泥棒猫が偉そうに勝ち誇ってんじゃねぇぞ。淫売、てめぇが尾上さんに無理矢理しゃぶり付こうとしたの知ってんだよ。誰の、だぁれぇの許しを得て! あぁ!? 欲情して濡らしてんじゃねぇよ勝手に一人で弄って逝ってろ糞女ァ!!」
「はっ、口が悪いな。私が猫ならお前はなんだ? 犬か? きゃんきゃん吼えるな。小うるさいんだよ」
天井知らずに激昂する佐原さんを、花宮は依然冷ややかに見下ろし。
「この人は私が支えていく。お前の出る幕なんて、もうどこにもない」
「ッッッ!!!」
それはおそらく、どんな罵詈雑言よりも佐原さんを刺激し、
膨れ上がる。それは紛れもない、殺気だった。
「ぐぁ!?」
佐原さんを取り押さえていた黒服の一人が、苦悶の声を上げてよろめく。空中に走る一線、一閃、そして飛沫。
どこから取り出したのか、どこに仕込まれていたのか。
佐原さんの手にはメスが握られていた。その刃先が、黒服の手首を切り裂いたのだ。
しかしだからといって彼女は未だ自由の身ではない。もう一人が佐原さんを掴んだままで、周囲は大勢の男達に取り囲まれている。
「ぎゃっ」
くぐもった悲鳴を上げて、そのもう一人の黒服がコンクリートの地面に倒れ込む。
焦げ付く繊維の臭い。
彼女の手には、黒い機械がある。それも先刻見たものより大きく、長く太い棒状をしたそれ。音叉のように先端が二股に分かれ、その合間を紫電が走る。家畜用のスタンロッドであると後に教えられた。
死ね
声はなかった。佐原さんの唇がそう形を変えたのだ。
ただ一人、花宮を見据えて。
空中を走る光を俺の目が捉えたのはまったくの偶然だった。彼女がメスを擲ったのだ。
花宮の顔目掛けて。
反射的に手が伸びていた。電撃から身体の自在性がある程度回復していたのはほとほと僥倖と言わざるを得ない。
掌が、到達する。射線へ。
メスの刃先が、丁度中指と薬指の骨の間に、入る。刺さり、止まる。
「ッ!! カゲユキさん!?」
「あっ……」
思ったより痛みはない。刃が鋭過ぎるからか。
とはいえ、傍らの少女にそれは届かなかった。その事実に瞬時、安堵する。
佐原さんは愕然とそれを見ていた。
なおも迫る黒服達に、逐一電撃を浴びせ掛けながら。
「────私が先なのに。私が最初に見付け、私が私が私が私が、私がぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁああああッッ!!!」
彼女は叫ぶ。ロータリーに、怒りと悲しみと絶望が木霊した。
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