斯く壊れり




 お母さんは父親の話をあまりしたがらなかった。

 それもその筈で、私の父を自称するそいつは私を身籠ったと知った途端に母を捨てた最低の屑野郎だった。

 私を慮って事実を胸に仕舞ってくれたのだろう。けれど……おそらく父親の存在をひた隠しにしていた一番の理由は、彼女がそれでもあの屑を……それだけは、私には理解できない。

 でも、捨てられてもなお愚かな女の性を捨てられない、そんな人でも。

 私はお母さんが好きだった。

 優しいお母さんが。

 私の為に昼も夜もなく働いて、それでも休日には一緒に遊んでくれた。公園や図書館や水族館に連れていってくれた。

 どんなに疲れていても私の話を聞いてくれた。いろんなお話を聞かせてくれた。

 お母さんが、大好きだった。

 お母さんの為になんでもしてあげたかった。大きくなったら働いて、楽をさせてあげるんだって。

 家事を覚えて、勉強だって頑張った。将来の為に、母の未来の為に。

 そうして私が中学に上がってすぐの頃。


 ある朝、トイレでお母さんが倒れていた。

 過労による脳梗塞だと医師は言った。


 右側が動かない。目を覚ました母は悲鳴のようにそう言った。

 右半身の不随。働くことは勿論、一人では日常生活を送ることさえ困難になった。

 食事、トイレ、風呂の世話なんかは当たり前で。身動ぎできないくらい調子の悪い夜など寝返りを打たせる為に夜が明けるまで見守った。

 転倒した時、腰を強く打った所為なのだろう。神経には障害が残り、便の制御ができなくなった母は紙オムツを使わなければならなくなった。もともと胃腸が弱い人で、使い始めたばかりの頃はよくオムツから緩い糞便を溢すことが多かった。放っておくと皮膚がかぶれてしまうので、母が眠る間も私は一晩中傍で様子を窺うようになった。

 中学一年から、自分の時間のほぼ全てを母の介護に当てた。当然、登校頻度は日に日に減っていき、秋口にはほとんど不登校になっていた。

 私のように家族の介護に忙殺される未成年をヤングケアラーとかいうらしい。なんだか大袈裟な横文字だと思った。社会問題として定義付けする為に海外のそれらしいものを引っ張ってきたのだろうな、なんて皮肉が浮かぶ。

 私にとっては至極どうでもいいことだった。

 学校に行けないことも、友達と遊べないことも、自分の時間がなくなることも。

 お母さんの為なら、そんなことは全部どうでもよかった。

 お母さんの為ならなにもかも苦ではなかった。


 ごめんね


 申し訳なさそうに謝罪を繰り返すお母さんに私はいつもちょっと困ったように微笑む。

 謝ることなんてないのに。私にとってこれは当然の使命で、この上ない喜びだった。

 お母さんの役に立てるのが嬉しかった。

 ようやく恩返しができる。ただそれだけが嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。

 私の家事が上手くなるほど、オシメの交換の手際が良くなるほど、お母さんは悲しそうな顔をする。そしてその目に不思議な色が宿るのだ。

 そんな必要ないのに、私は好きでやってるの。

 遠慮してばかりのお母さんが私は可笑しかった。

 私はただ無邪気に、この充実した日々に喜びを覚えた。

 ただ、ただ、愚かなまでに。





 その日の出来事はよく覚えていない。大部分が欠落したパズルのピースのように、一つ、二つ、三つ、半端な像だけが目蓋の裏にこびり付いている。

 週一回の買い出しで、たしか隣町のスーパーまで遠征したのだ。特売でもやっていたのだろう。

 その行き帰りの道も、何を買ったかも、もう忘れた。


 一番覚えているのは、糞便の臭い。

 そして部屋の隅から私を見上げるお母さん。

 お母さんの目。

 お母さんの濁った目。暗く、淀んで、時と共に煮崩れていく眼球。


 木造アパートの六畳一間、私とお母さんの家。二人きりの故郷。思い出の香に満ちた部屋。

 洋服箪笥にもたれて────お母さんが死んでいた。

 箪笥の取っ手に紐を掛け、首を吊って死んでいた。

 お母さんが、死んでいた。

 お母さんは死んでいた。

 お母さんはもう死んでいた。


 死んでしまっても、お母さんの目は変わらない。いつも通り。いつも見る通りの。

 暗く、淀み、やさしい目。

 私にお礼を言う時、私に謝る時、いつもいつも、お母さんはこの目をしていた。


 どうして


 からからの喉から老婆のような声が漏れ出る。私は尋ねた。いつも私のどんな質問にも答えてくれたお母さんは、何も言ってくれない。

 点けっぱなしのテレビから大勢のわざとらしい笑い声が響く。

 それは、金持ちの自宅を訪問して、その金銭感覚に庶民が一喜一憂するという、よくある下品な番組だった。

 大企業グループの社長だか総帥だかの豪邸で、楽しげに笑う家族の風景。絵に描いたような、円満で幸福な家庭。その主。


 それが私の父親だった。

 妾だった母を塵のように捨てた男が、子供と妻と共にきらびやかな画面の向こうにいた。


 その時初めて私は知った。お母さんのやさしい目の正体を知った。

 あれは、絶望だったのだ。

 人としての自由を剥奪された絶望。人としての尊厳を失っていく絶望。

 自分の子供を手足として使い続けながら生きねばならないという、絶望。

 何もできない不甲斐なさ。娘にオムツを換えられる惨めさ。

 お母さんは、そういう自分を許せなかったのだ。自分を許さない代わりに、自分以外のあらゆるものになった。ならなければ、いけなかった

 そして彼女は見てしまった。こことは違う別世界で、自分ではない誰かと笑うあの男を。

 自分の世界とのあまりの隔たりを。

 見て、知って、味わってしまった。




 私はお母さんに寄り添っていた。泣くことも叫ぶこともせず、お母さんと同じように箪笥にもたれて、ただ一緒に座っていた。

 白濁していく母の目をずっと見上げていた。見守っていた。

 垂れ流れる糞便と腐臭に包まれながら、私はそれでもじっと母を見ていた。


 どこにもいかないよ


 ずっと一緒にいるから。独りになんてしないから。


 お母さん


 辛かったね。苦しかったよね。

 私は、何も知らなかった。何にも気付かず、ただ愚かに母との日々を享受した。


 お母さん


 母を追い詰めたのは誰でもない、私だった。











 五日後、異臭に気付いた他の住人の通報によって私と母は発見された。

 私は極度の栄養失調状態で病院に運ばれたそうだ。

 病室のベッド、消毒液の臭い、引っ切り無しに訪問してくる大人達。

 全てがどうでもよかった。

 そこからひたすらに空虚な二年間を施設で過ごした。



 黒塗りの高級車が私を迎えに来た時すら、私は何も思わなかった。

 大病院の個室に呼び出され、病床の老人と対面させられた。半年前に脳梗塞で倒れ認知症が悪化し、今では何一つとして自力では行えない。

 惨めで醜い人型をしたそれが、私の父親だというのだ。










「お車を回します」

「要らない」

「ですが」

「二度言わせる気?」


 家付きの運転手はそれで押し黙った。二度どころか、週に一度はこんなやり取りをしている。

 学校に車で送迎? そんな薄気味の悪いことをされてたまるか。

 春から編入した私立高校へは、普段から電車通学だった。

 それが普通である。自家用車なんてものがそもそも異常なのだ。金の無駄だ。運転手の解雇を含めて、処分を検討しなければならない。

 こんなことに脳のリソースを割かなければならない。心底嫌気が差す

 心底、憂鬱だ。

 惨めでさえある。

 私は何故、生き永らえてしまったのだろう。

 電車の車窓から灰色の街並を見下ろして、何万回目かの自問自答を繰り返す。

 一緒に。

 あの時、ついていけばよかったのに。

 お母さんと一緒に。

 意気地無し。

 お前は不孝な娘だ。

 硝子に写るすかすかの自分を詰る。独り善がりの自己嫌悪は、無闇に私を虚しくさせた。

 その時、背後に違和感。不自然にもぞもぞと身動ぐ気配。


「……」


 でっぷりと太った男が自分の真後ろに立っている。

 そしてその手は自身の尻に触れている。手の甲が触れ、それが掌に返り、程なくスカートを持ち上げる。

 慣れた手付きだった。常習犯なのだろう。

 感慨は、皆無だった。

 背を向けたままでも、男の指を折り、かつ手首を捻り上げる程度は造作もない。そういった技術は手慰みに幾らか習得してきた。

 小飼の私兵を使うまでもなく、人間一人くらい自分だけでも解体できる。

 ただ、ひたすら面倒だった。このデブにその労力を割くだけの価値はなかった。

 怒りはない。何もない。ただ、疲労感ばかりが胸に蟠る。

 この男は何が楽しくて生きているんだろう。電車で女の体をまさぐることに、まさか身命を費やしている筈もない。

 道義、倫理、理性、そんなものを踏み付けにして、社会的制裁のリスクを冒してでも、こんな真似を働く意味。

 わからなかった。

 理解不能だった。

 どうして。

 人の嫌がることはしない。少しだけでいい。相手を思いやってあげなさい、と。

 親に習わなかったのか。そんな常識さえ学べないのか。

 お母さんに、教えてもらえなかったのか。

 どうして。

 ねぇ。


「なんでだ」

「へ……?」


 重なる。問いと、問いが。

 それを発したのは、デブのさらに後ろ。黒いスーツを着たサラリーマン風の男だった。

 男はデブの腕を掴みながら、さらに何か不明瞭なことを口にした。

 デブが苛立ちと怯えの混じり合った声で食って掛かっても、黒スーツの男は応じない。ただ一方的に、事務的な決定事項を提示するように。


「次の駅で降りましょう」






 血を流す彼を見て、流石に驚く。血を見慣れていない訳ではないが、自分ではなく他人にそれを強いたことが私を動揺させた。

 だのに、彼は。


「災難でしたね」


 笑うのだ。決して良い出来映えとは言いにくい笑みを、精一杯に貼り付けて。

 ────暗む。淀む。その目が。

 それは、まるで。

 自分以外のあらゆる全てを許して。自分のあらゆる全てを許さない。


「ぁ……」


 絶望的なまでに目。

 お母さんと、おんなじ目。



 尾上カゲユキ



 貴方を調べれば調べるほどに、知り得たそれらは私の抱いた印象を強烈に補完する。

 正しかった。私が貴方の底に見た闇は、確かに私の求めるそれだった。

 タブレットに表示された人物調査の報告書。隠し撮りされた顔写真に指を這わせる。

 私はなんだかひどく嬉しくなって、笑った。嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

 貴方が嬉しくて。


「あはっ、あははは、お母さん、はははははお母さんはははははははははははははお母さんははははははははは」


 貴方だったんだ。

 貴方の闇は、そのやさしい闇色の瞳こそは。


「私の、お母さんだぁ……!」






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