魔性
ドアスコープの先に佇む少女が俺に微笑んだ。
薄汚れた硝子の覗き穴を通してさえ瑞々しいその唇が、動く。
か げ ゆ き さん
吐息を溢すような囁きが、アルミ製の扉越しにも耳孔を擽った。
インターホンを聞き取って、扉の前に立ったものの俺はまだ返事をしていない。だのに少女は明らかにこちらを見ていた。こちらの存在を気取っていた。
足音か、衣擦れか、そういう気配を感じ取って。あるいはそう、ドアスコープに投射する光の陰りを見て取って。
常識的に考えればその辺り。
常識を当て嵌めることに躊躇を覚える。
この少女ならば第六感くらいとっくに開眼していそうだ。何の不思議もない。
俺は唾と共に、その愚昧な怖気を胃の腑へ落とし込んだ。
「……はい」
「こんばんは」
声を殺した控えめな挨拶は時刻に配慮してのことだろう。
なにせ今は深夜零時をやや過ぎた頃。都市部の繁華街ならいざ知らず、このような郊外の住宅地では徘徊する目当てもない。
ましてや、未成年の女の子が、何条を以て独身男性のアパートを訪ねる用が、いやさ
そんなものはこの世に存在しない。
日付を跨ぐ前に帰宅できたのは半月ぶり。まさかそれを見越して? いや、そうではないのだろう。
おそらく俺の帰宅を見届けて、彼女は訪問を決めたのだ。
今更、驚くことでもなかった。花宮カナミが自分に対してストーカー行為を働いているのは紛れもない事実なのだから。
“前提”はもはや諦めねばならない。
目下の疑問は、平素は密やかにこちらを監視している彼女が、今夜に限っては直接姿を見せたこと。
「何の用ですか」
「あの、できれば中に入れて欲しいです」
「それはできません」
法的にも、倫理的にも、心情的にも。
「もう遅いですから、家に帰ってください。なんでしたらタクシーを呼びますから」
「カゲユキさん、もしここで私が大声を出したら、どうなると思います?」
「……」
近隣住民が異変に気付き、その中に一般社会生活者としての自覚に富んだ人があれば、通報義務を疎かにはしないだろう。
未成年者を深夜に自宅へ呼びつけた、ないし連れ込もうとした一人の略取・誘拐犯がここに現れる。
「……脅しですか」
「半分は冗談ですけど」
四半分でも事は足りる。俺を社会的に抹殺するなど、彼女にとっては赤子の手を捻るに等しい。
三秒間、逡巡した後、俺はその重い重いサムターンを回した。最後の牙城を。
玄関先に制服姿の女子高生が立っている。目眩のような倒錯感を覚えた。それに倍する危機感も。
少女は上から紺のカーディガンを羽織っていた。なるほど、室内に流入する外気はやや肌寒い。
そんな寒空の下に少女を長々立たせていたのは、誰あろう自分だった。
これは罪悪感か? それこそ、筋違いだ。
「……どうぞ」
「ありがとうございます。お邪魔します」
華やぐように笑み。少女は綺麗なお辞儀をしてから部屋に入った。
ふと見れば、手にはスーパーの買い物袋を提げている。
「カゲユキさん晩ご飯まだでしょ? ふふ、こんな時間じゃもうお夜食だね」
確かに、帰宅してから何も口にしていない。それを当然とばかり見抜かれている。いや、見て、知っていたのだろう。
「お台所、借りますね」
鞄からクリップを取り出し、少女はそのミディアムヘアの後ろ髪を留める。
「わぁすごい。冷蔵庫空っぽだ。お醤油買っといてよかったぁ……カゲユキさーん。お鍋ってどこですかー?」
「戸棚の、左側に」
「んー? あーあったあった」
如才なく調理を開始した少女の背を、俺はしばらくその場で呆と眺めていた。手持ち無沙汰というか、あまりにも自然に台所を占領下にした少女の手際に呆れて。
「ふふっ、出来上がるまで座って待っててください」
「あ、はい」
己の無様を、少女はなんとも嬉しそうに笑った。
白米、豆腐とワカメの味噌汁、主菜は鯖の味噌煮、小鉢にほうれん草の煮浸し。シンプルな和食の膳といった風情の中、副菜はポテトサラダだった。
ちぐはぐと言えばそれまでだが、むしろそれは家庭料理らしい彩りに思える。
味噌の香りが湯気立つテーブル、向かいに座る少女がはにかみながらに。
「えっと、……召し上がれ。お口に合えばいいんですけど」
「あ、はい……いただき、ます」
両手を合わせ、箸を取る。両者おずおずと緊張感を醸し出しながら、奇妙な夕食が始まった。
味噌に箸を付け、そのまま一口啜る。
微かに意表を衝かれた。普段口にしているインスタントのものとはまた違う。優しい味がした。
鯖を割り裂く。きちんと煮込まれた魚肉は簡単に箸が通る。
よく沁みた味噌ダレの、味付けの塩梅が絶妙なのだろう。鯖の脂の甘みが際立っていた。白米が進む。
ポテトサラダの具材にはハムと卵と胡瓜と人参。この味付けにはマヨネーズと塩コショウだけ。シンプルだ。たったそれだけの筈なのに、どうしてこうも美味いのか。野菜の炊き方? それとも下拵えが丁寧だから?
「美味しいですか?」
「……美味いです。凄まじく」
「にへへ、すさまじく」
鸚鵡返しに言ってから、少女はにへらと笑った。両手で頬杖をつき、無際限に上がっていこうとする口角を押さえている。
妙な気分だった。料理の味を褒めることも、拙い褒め言葉にここまで喜ばれることも。
「誰かに料理を食べてもらうの、久しぶりです」
「ご家族にも?」
「母がいた頃は」
「……すみません」
「いえ」
こちらの謝罪に対する返答からも、勘違いではないようだ。
彼女の母親は既に亡い。
迂闊であり、俺はひとえに無思慮だった。
「カゲユキさんのお母様とお話しした時、不思議な気持ちになりました。お母様は私のお母さんとは全然似てないけど、すごく母親って感じがしたんです。あぁこの人も誰かのお母さんなんだなぁって……私、変なこと言ってますね」
「いや、変じゃない」
何もおかしなことはない。同じ立場なら俺も同じことを思ったかもしれない。
同じ印象を、誰かの中に探して。
「美味いです。繊細で、丁寧で、優しい味がする……本当に上手にできてる」
「…………」
なにか言葉を探して探して、盛大に選び損ねたような気がする。実に偉そうに、親が子供の家事手伝いを褒めるようなニュアンスだ。
花宮は掌で口許を覆い、目を逸らした。流石に気分を害したか。
「…………いひ」
食器の片付けはこちらがやると申し出たが、少女はやんわりとそれを拒んだ。
シンクに向かって洗い物をこなす背中を、家主たる男はただ所在なく眺めていた。
「あ、買った物そのままにしちゃってた。カゲユキさん、袋から出しといてもらえますか?」
「? わかりました」
背中越しに花宮は言った。
食料品の類は、余り物を含めて冷蔵庫に仕舞った筈だ。
他になにか。
部屋の隅に置かれた白いビニール袋。その口を開けて、中身を一つ取り出した。
それは紙製の薄い箱で、毒々しい赤いパッケージに、でかでかとコンマゼロ1などと表示がなされた。
「っ!?」
ドラッグストアでもコンビニエンスストアでも、必ず一つは陳列棚を設けられている。
それは12コ入りの
無論のこと、自分の持ち物ではない。独り身男にこれを買い置きする理由とてない。
そっと袋に戻す。今ならまだ、見なかったことにできると。
半ば期待した。
背後から影が差す。音もなく忍び寄り、室内灯を遮って立つ、細身の姿。
背中に体温。少女が覆い被さってくる。
「仕舞っちゃうんですか、それ。せっかくたくさん買ったのに」
袋の中には同じサイケな赤い箱が幾つも、幾つも。
「……冗談にしても質が悪い」
「本気ですよ」
「なお悪い」
「ふふ、そっか」
不出来な冗句を鼻で嗤うような声が耳を撫でた。至近、その熱い吐息が。
「カゲユキさんは、無い方が好き?」
滲み出したその淫蕩が背筋に粘る。
少女が、女の声音で囁いた。
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