好きで好きでどうしようもない
トイレに行ってくる。
そう言い置いて病室から出た。逸る足を抑え付けながら病棟のエントランスまで降りて周囲を見回す。
入院患者やその介助に付き添う家族ら、医師や看護師が行き交う待合所。目当ての姿は見えない。人ごみに紛れてしまったのか、それとももう病院を後にしたのか。
不意に、背後に足音が立った。
「あれー、尾上さん? どしたんスかこんなとこで」
「! 佐原さん、どうも……」
それはつい先ごろ受付で見たばかりの顔だった。
看護師の佐原アミ。母の病棟付きの職員であり、彼女には日頃から世話になっている。
自分の一つ下とのことだが、背の低さも相まってあまりそうは見えない。ショートに切り揃えられた髪の下、ふにゃりと仔犬のように人懐こい笑みが浮かぶ。その砕けた敬語もまた彼女なりの親しみなのだろう。
……などと、人物観察に時間を蕩尽するのは、追い付くことを諦めたからだった。それに今更彼女を捕まえられたとして、何を言えばいい。何を、訊けばいいのか。
「なーんかキョロキョロしてたッスね。誰か探してるんスか? あっ、可愛い子でも見付けたとか~?」
「いえ……」
見目良いという意味でなら花宮カナミは極上の部類だろう。しかし今、己の胸奥に湧くのは好意とは程遠い感情だった。苛立ち、無力感。
不可解。ひたすらにわからない。あの少女が、その行動が、俺には理解できないのだ。
「……」
「……顔色悪いッスよ。やっぱり体調良くないんでしょ。ねぇ尾上さん、あんな糞ブラックなとこ早く辞めた方がいいッスよ……もっと、お母さんに付いててあげなきゃ」
「ええ、はい、本当に……本当に申し訳ありません」
俺は鉛のように重みを増した頭を垂れた。深く、腰が折れる。蛇腹の背骨は今日も惰弱だった。
「ちょちょっ、私に頭下げてどうすんスか!」
「いつもいつも、母がお世話になっています。本来なら俺がやるべき身の回りのことまで、佐原さんにはご負担を強いてしまって……」
「患者さんの身の回りのお世話するのが看護師の仕事なんスよ」
それでも、限度はあった。
着替えの洗濯や、消耗品・日用雑貨の買い足し、時には入院中の各種更新手続きまで。本来家族が率先してすべきこと、義務すらも、俺は佐原さんを頼り切っていた。
「ありがとうございます……申し訳ありません。本当に、申し訳ない」
「あ、謝らないでくださいよぅ……」
言葉は幾ら吐こうが
言い訳だ。恰好ばかりの誤魔化しだ。俺は、彼女の行為に、厚意に甘えている。甘え切っている。
そんなだから、あの少女に付け込まれるのだ。
「もぅ! 尾上さん! ほら、顔あーげーてー!」
「んぷ」
両頬をむんずと包まれ、俺の顔は正面を、佐原さんの小さな顔と向かい合った。
「私がしたくてしてるんです。尾上さんのお母さん、好きでスから」
「……」
「それに……そのぉ、し、下心がまったくない訳ではないんで」
「?」
視線を明後日に流して、佐原さんは実に胡乱なことを宣った。そうして時折ちらちらとこちらを盗み見る。
その言い分を勘案するならばつまり、母の介護を贔屓することで彼女に何かしらのメリットが発生するという、ことに。
「賄賂、ですか……?」
「なんでやねん!」
左右から思い切り頬を潰される。彼女の出身は関東圏だと聞いていたが。
「そういうんじゃなくってですね。もっとこう、あるでしょ? 即物的なのじゃなくて、その……人肌な感じで……ご飯とか食べに────え」
「? どうかしましたか」
「……今、誰かがこっちを見てて……あれ、睨んでた? なんていうかすごく」
佐原さんは自身の両腕を抱いた。まるで寒さを堪えるような所作で。
「すごく……黒い目? 女の子が……」
「!」
振り返る。人混みの先。待合所を越えて。
正面玄関。扉から出ていくその姿を捉えた。
「失礼します」
「え、お、尾上さん!?」
前庭の遊歩道を行く制服の背中が見えた。
早足に自動ドアを潜る。
無意識にも肩は怒り、足取りは鋭くなった。自分が憤っているのだという事実を再び自覚する。
「花宮さん!」
「はぁい、なんですか? カゲユキさん」
青い蕾が割れ、艶やかに花が開く。その美しい微笑の振り撒く色香の象形はまさにそれだった。
ただの花ではない。かの少女に俺が見た印象は、甘い蜜で獲物を呼び寄せ、溶かし食らう肉食の植物である。
虫なのだ。自分などは虫けらに過ぎない。羽虫にも劣る。だが同時にそれは、この少女が食い物にするだけの価値もない持たないということ。
目の前には若く、美しく、果てしない前途を歩む少女がある。
片や俺は、とっくに
だから、こんなにも不可解だった。わからなかった。
そんなものに何故。
何故だ。
何故だ。
「あんたは、何故こんなところに来た。何故、なんで俺に、俺なんかに拘る!?」
「好きだから」
「…………は?」
歪み走った形で硬直した俺の顔を、少女は見上げた。この、こんな。なんだこの顔は。この表情は。
光を嫌う淵のように黒いその瞳に熱が宿っていた。眼球が沸騰しそうなほど、熱く。熱く。
紅潮した頬、震える桜色の唇。あっさりと言い放っておきながら、細い肩身は強張り、はっきりと少女は羞恥に身を焼いている。
そして、ひどく怯えるのだ。
「好きだから、知りたいんです。好きだから、見ていたいんです」
自身の差し出した告白の脆さ。相手の返答次第では、硝子細工のように砕けてしまうだろう、心を剥き出しにするこの行為に。
ふと気付いてみれば、目の前に立っているのはただの女の子だった。
「その暗くて、疲れ切って淀んでしまった目……やさしい目が好きです」
「な……」
細い指先が頬を、目元の絆創膏をなぞった。未だ微熱を孕む傷痕に、冷えた少女の指は心地よく。官能的なまでに、抗い難く。
「初めて見た時、この人だって思いました。調べて調べて調べ尽くして知っていく内にこの人
「なに、を。なんのことですか」
「同類なんです。私達」
「意味が、わからない」
少女が笑む。慈母のような顔で、彼女は何か口にする。
何かを知って。俺の何を知って。俺の……“これ”を知って。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が乱れる。息が吸えない。肺に石が詰まったように。浅く不出来な風鳴りを喉笛で吹く。
「ど、同類、なもの、か。お、俺、俺は、俺はただ、母さんを見なきゃ、最後まで……さい、最期、まで……」
「好きです。カゲユキさん。そんな貴方が好きです。好きで、好きで堪らないんです」
「ち、違う。そんな筈がない。俺を? こんな男を? は、ははっ、あ、頭おかしいんじゃねぇのか」
「ふふ、そうかもです。でもそれでいいんです」
一歩、一歩と身体は無意識の内に後退っていた。遊歩道、縁石に躓きながら人工芝の広場へ。
逃げる。
ゆっくりと歩み寄って来るその美しい少女から俺は、逃げる。逃げなければ。
でないと、全部、暴かれてしまう。
「カゲユキさん」
「!」
足をもたつかせる俺に少女は容易く追い付き、この首に両腕を絡めた。
身体に押し付けられる肉の柔らかさ。彼女の身体は思いの外熱を持っていた。子供のような体温が、俺の乾いたそれを塗り潰す。
途端、ふわりと香る。石鹸の匂いだ。それは、けれど、艶然とした色香を孕むこの少女にはひどく不釣り合いな、素朴な匂いだった。
「私、カゲユキさんが欲しいです。声が、言葉が、この体が、その目が……傷も、ここに仕舞った“過去”だって」
彼女は俺の左腕を撫で回しながら、吐息する。
「っ!」
「代わりに私の全部をあげます。全部、全部です」
ひしと縋る。少女の容をした女が全身を擦り付けてくる。左手はそのまま少女の股座へと導かれた。
色欲の発露を感じた。自身ではなく、少女の皮膚の内側に。どろりと垂れて、今も
頷けば、俺はこの極上の肉を貪る権利を得られるのだろう。その理由も、少女の思惑も、煩わしい物事全てを忘れ去ってしまうような快楽が、己に絡み付いて唇を開けているのだ。
俺は。
「いら、ない」
「……」
「そんなものを、俺が、よりによって俺が受け取ったところで、何の意味もない。ないんだよ」
俺の意味は一つ。この病棟の、305号室にある。今も病床で俺を待っている人、ただ一人。
あの人を最期まで見守る。それだけが俺に許された権利。それだけが、俺が生存する理由。他にはない。もう、あってはならないのだ。
少女を突き飛ばす。
惑乱する身体には大して力が入らず、蹈鞴を踏んだのはむしろこちらの方だったが。
反吐を垂れるようにして俺はなんとか声を発した。
「帰ってくれ」
「……わかりました。今日は帰ります。無理させて……ごめんなさい」
弱々しく少女は呟く。
俺はそれがひどく卑怯に思えて来た。嘘にせよ真にせよ芸術品のように美しい、その健気が。
「カゲユキさん、これだけは信じてください。私、カゲユキさんのお母様のこと、好きです。初対面の私にもすごく、すごく親切で、優しくしてくれました。話をしてくれたんです。カゲユキさんのこと……心配されてました」
「……」
「お願いです。虫のいい話だってわかってます。でも、私にもなにかお手伝いさせてください。お母様のこと。入院生活のいろいろ。なんでもします。だから……お願いします」
少女が頭を垂れた。それは深く、直角を越えて、仕舞いには額が膝頭を打つのではないかというくらいに。
心情は無論のこと、拒絶に傾いている。赤の他人の家族の見舞いを、家族側の断りもなくやるような人間。非常識の謗りを堪え切れない。
だが。
母の顔を思い出す。久しぶりに見た楽しそうに笑う様を。心からの安堵に息を吐く姿を。
今の俺にあんなことができるか。俺の疑心暗鬼など、塵屑ほどの役にも立つまい。
逡巡が、二度三度と脳内をのたうつ。それでも、結局は。
「……病院に行く際は、必ず俺に連絡を寄越してください。できる限り同行するようにはします」
「! ありがとうございます!」
「……」
ぱっと日が差すように表情を明るくする。
俺は晴れ間に佇む少女から目を逸らした。眼球の奥底に痛みを覚える。それは自己嫌悪と同義の反応だった。
「じゃあ、あの女いらないね」
「え……?」
冷え切った
感情の一切合切を脱き去られた声、言葉、ただただ無機。それはまるで、ナイフの切先に指を滑らせたような感触だった。
無機質の視線の刃が刺す方には、病棟の正面玄関、そこに佇む小柄な。
「また連絡します。カゲユキさん……」
はっとして顔を向けた俺に、そっと近寄った少女が、頬に口付ける。
はにかんだ上目遣いで花宮カナミが笑う。少女の貌で、無邪気に笑う。
「誰にも渡さないから」
無邪気に、所有権の印を残して彼女は去って行った。
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