固化
『見ましたか。仏の顔』
『見たよ。見ないわけねぇだろ』
『俺初めてですよ。あんなの。気味悪いですね、ちょっと』
『たらふく呑んで食って、風呂に浸かって往生だ。そりゃあんな面にもなるだろう』
『ええ、本当、幸せそうに』
────笑ってましたね
吹かしていた煙草を放って刑事達が去っていく。
俺はアパートの階段の裏でじっとその遣り取りを聞いていた。
彼らは職務として最低限の実況見分を行い、一応検視に必要な手続きを母に要求した。だが司法解剖はされない。捜査に当たった誰一人としてその必要性を説かなかった上、なにより当の遺族がそれを望まなかった。
結果として、うらぶれたアパートで起こった変死事件は、拍子抜けするほど、ひどくあっさりと、ごく自然に、何の疑いも持たれることなく、事故死として処理された。
気付けば俺は完全犯罪を為し遂げたのだった。
また一啼き、鳥が囀ずった。
あれはなんという鳥なんだろうか。
目覚めれば白。相も変わらずひたすらの白。
眼球をどこへ巡らせようと白。白。白。
俺は白い正方形の中に在り、白い患者衣と白いシーツと布団に包まれ、手にはミトン型の手袋を嵌められている。
手首には唯一白くない革ベルトが巻かれ、ベッドの骨組みに固定された。
口内に布を丸めて詰められ、タオルの猿轡を噛んでいる。
拘束衣だった。
彼女が手ずから道具を揃え、丁寧に丁寧に己の身体に施していったものである。ベルトの留め具一つ締めるにも痛くはないか苦しくはないかと頻りに確認してくれた。
彼女の慮りの深さを感じた。彼女は看護師になるべくしてなったのだなと、沁々得心する。
身動きが取れないことに対する苦痛はあまりなかった。不自由ではあるのだが、不便とは感じない。
動く必要がないからだ。
生きている必要がないからだ。
生きる価値が、とうにないからだ。
現在、食事はおろか排泄さえ他人の手を借りて為されている。呼吸や拍動、血流等体内循環のみを指して生命活動と定義できるなら、俺は立派な生きた肉人形だ。
身体は比較的正常に稼働していると思う。左脇腹に空いた刺創も佐原さんが縫ってくれたと言う。
喪失分の血液の生産を終えれば、
問題は
腐った心が壊死を始めた。元々兆候はあったが、遂に自浄能力を汚染力が大幅に上回り、
なるほど、何も変わらない。
今までは義務があった。唯一の家族の世話と医療費の工面と看取りと遺品や公的手続きに契約類、身辺整理の諸々。
その為の費用、それを創出する労働、労役に耐える肉体維持の為の生活。
八割方それらを完遂したことで、まあ気が抜けたのだ。
そろそろいいか。
もう、終わろうか、と。
繁殖行動を終えた虫や植物が次世代に生育の場を明け渡す……そこまでの潔さや合理性はないにせよ。
虫や植物ほどの価値もない人類が存続する合理的必要性を論述できぬ。
いや、残り二割の義務がある。
母の遺体を病院に放置している。
あるいは花宮がその辺りを上手く計らってくれているのではないだろうか。
なんと浅ましく、図々しいのだろう。
彼女の厚意を……好意を撥ね付けておきながら、己はこの期に及んで彼女を
自己嫌悪は、不思議と生存の方に精神を傾けた。
義務感。罪悪感。己の小人ぶりが自身を現世に留める
あまりに情けなくて、嗤える。
「……意地悪な顔ッスよ」
丸椅子に腰掛けた佐原さんが俺の顔を覗き込んで言った。
彼女は実際にその
「うあぅ」
「取りませんよ、それ」
獣のように呻くことしかできない患者にも、看護師は安易な憐れみなど与えてはくれなかった。
「尾上さんの心が寛解するまでは絶対に取りません。必要なら一生でも」
一生……そう夢見るように、
顎を枕元に乗せ寄り添う。佐原さんの、今度はその視線が頬を撫でる。
「いいじゃないスか。尾上さんにとっても悪くない話じゃないっスか。何度でも言いますけど。ここで一生二人で暮らすの、めちゃ素敵じゃないっスか。そうしていずれ二人で終わるんです。静かに、穏やかに、ゆっくりと、最後まで」
見返した瞳の無垢な色が、透き通った光が、ひどく綺麗だった。不純物を一切含有しない眼差し。嘘のない目。
「一緒に」
彼女の本心は聞くだに救い難く、未来などというものがない。その願望は頽廃と虚無に終始している。健全な人間が抱いてよい望みでは断じてなかった。社会通念や倫理や道徳に照らして、決して正しくない。けれど。
けれど嘘だけは、どこにもなかった。
それは彼女の考え得る最大の、心からの希望なのだ。
彼女は今ここに真心を差し出しているのだ。凡そ社会では認められない、否定されるしかない、ひた隠し抱え続けるしかなかった脆く儚い想い。
そして、命すら。
嘘のない言葉。
俺はその一点でどうしても彼女に好感を覚えてしまう。
俺にはないものを、できないことを、できなかったことをして、のけている。
俺は少しだけ彼女を羨んだ。
「……」
生き人形のような有様にされても、誘拐略取監禁拘束というおそらくは理不尽な、そして確実な犯罪行為に曝されていたとしても。
俺は、少なくとも俺に対して為された事で彼女を忌避することはない。できない。
「お、うひ、え」
「ん……あ、そうだった。これ」
また無様に呻く己の姿に何やら思い至って、佐原さんは部屋の隅の鞄から何かを取り出す。
タブレットサイズのホワイトボードだった。包装フィルムを剥がし、ベッドに渡された卓上へ置く。
右手のミトン手袋と固定用のベルトも一つ外された。その手に水性のマーカーペンを握らされ、同時にベッドのリクライニングが起き上がる。
「面倒かもですけど、筆談で」
なかなかの徹底ぶりに呆れより感心が勝った。そしてもし、この自由になった手で猿轡を外そうとしたなら、彼女が拘束を解いてくれるなどという機会は今度こそ永遠になくなるのだろう。
白い盤面にペンを走らせる。
『どうして』
「こんなことをするのか? ですか。尾上さーん、それ、皆まで言わせるんスか。流石に野暮天極まってますって」
優しい呆れ、慈愛のような非難の声に、身の置き所を失いそうになる。誰かからの厚意が、好意が、後ろめたい。喜ばしい筈のそれらが火か毒のように心身を侵すのを感じる。
歪み切っている。我ながら。
とはいえ一旦それを脇に退けて、再度質問を書き込む。この疑問のニュアンスを正しく伝えるなら。
『どうしてあなたはここまでしてくれる?』
「だから、それは」
『あなたの願いが知りたい』
「願い、っスか」
『あなたのことが知りたい』
「…………」
『佐原さんのことを教えてほしい』
俺は何も知らない。
そして、知ろうともしてこなかった。
彼女はケア病棟に勤める、母を担当する看護師であり、長らく大きく世話になってきた。
郷里は? 趣味は? 住まいは? 今の仕事に就くまでの前歴は?
どういう
母に費やすだけの人生しかない男が、他者と深く関わり合う意義を見出せなかった。
返す返すも一身の都合ばかり。
母の為、母の為と、俺は他者の存在を無関心の枠組みに放り、愚弄し続けてきた。
社の同僚、上司達、病院の医師やスタッフの人々。
……花宮。
俺は社会人を標榜しながら、人間としてあまりにも怠慢だった。
佐原アミ。俺と母の恩人。
この人が一体どんな女性なのか。
知りたい。理解したい。
今更にそんな感情が擡げた。
花宮、彼女に対して抱いたあの後悔と同様の。
「ぁ……はは、なんスか。突然……そんなこと、なんで聞くんスか。聞いて、くれるんスか……?」
佐原さんはさめざめと涙を流していた。
驚き戸惑い、零れるような笑み。濡れ滲むような喜びが、そこにはある。
「自分の状況、わかってますか。頭イかれた女に監禁されてるんスよ? それを、それなのに、まだ……尾上さんはまだ、誰かの為、なんスね」
「……」
「わかってるっス。そういう生き方しかできない人だって……だから、そういう尾上さんだから、私も」
首に腕を絡め、彼女は縋り付いてくる。
子供が親に甘える所作で、求め、焦がれている。
この人も。
きっと、欠けているのだ。心に断じて埋まらない欠損を抱えながら今の今まで生きてきたのだろう。
同じなのか。俺も、彼女も。
類は友を呼ぶなどと軽んじたくはないけれど、縁を感じずにはいられない。ひどく悪辣に、どうしようもなく
絆。
「嬉しいなぁ……」
切ない。
こんな、人と人とのありふれた交流の入り口に立つまでに、随分時間が掛かってしまった。
素直に喜びに打ち震える彼女が、悲しくて切ない。
罪悪感で、口中には血の味が広がっていく。
胸の奥に際限なく汚穢が溜まる。
腐っている。俺は、邪悪だ。
俺はここから出ていかねばならない。
佐原さん、貴女をこの空間から、この邪悪から解放しなければならない。
その為にも、俺は貴女を学ぶ。
貴女の始まり、貴女の願望、貴女の行為の源泉を。
求められることに涙すら流して歓喜する、純な貴女を。
これより俺は篭絡し、懐柔し、操作しようと思う。
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