俺は/私はその時を夢見ている



 穏やかな毎日。

 静かで、凪いだ時間。

 花宮カナミの自宅であるところのマンションの一室に監禁、いや軟禁された夜から既に三週間が経つ。


 ────逃走は警察病院から拘置所への移送の際、容疑者がトイレに行きたいと


 点けっぱなしのテレビに昼のワイドショーを垂れ流しにすると、この時間の無為を否応なく自覚させられた。

 ふと気付けば立ち尽くしている。居所を失くす。取り留めもなく目的もなく、ただ無為な、自由な、当て所ない静謐な空白を前にして思考は固着する。

 そんなものを持てる人生ではなかった。そんなものを許される人間ではなかった。


「……」


 ワンフロア全ての部屋の清掃は予想より遥かに少ない時間、少ない労力で完了した。

 最低限の家具を除いて余分な物がないからだろう。生活雑貨すら最低限を揃えるばかりで、子供の住まう家とは思えなかった。とはいえ、花宮の私室の様子までは知れないが。

 埃を払い、掃除機をかけ、布巾で拭う。まさか壁や天井を清掃業者よろしく手入れする訳にもいかない。

 掃除用具を片付けて、終了のブザーを鳴らす洗濯機に向かう。

 タオル類やシャツの他に、洗濯ネットには少女の下着も入っていた。


「……」


 当初洗濯は各人ですべきだろうと提案したが、花宮は特に気にしないと言った。


『カゲユキさんになら、よかったら、つっ、使いただいてもいいんですよ??』


 無頓着というか、信用されていると捉えるべきか。

 現状、徒に無聊をかこつ身だ。家事を半ば強引に引き受けた手前、なお注文を付けるのも気が引け、こうして唯々諾々と作業をこなしている。

 母の衣類を用意することも自分の役目だった。今更女性用下着に対して格別思うところなどない。


『それはそれで寂しい……』


 必要に駆られて行う家事雑事の類を別として、労働は己にとって、生活費と母の治療費、入院費、その他諸経費を賄う為の必要行動であると同時に、欠かすべからざる役務だった。

 俺が科され全うすべきだった懲役刑から自由刑を除かれた刑罰……笑える。俺は何を思った。刑罰? これが刑罰だと?

 アパートと職場を往復するだけの以前までの生活すら我が身の不徳を思えば微温湯であった。

 ましてやこんな、豪奢な部屋で惰眠と馳走を貪る餓鬼のような有り様が、どんな罰になりえるものか。

 刑事制度を愚弄している。人道というものを嘲弄している。


「……」


 白出汁のあっさりとした味噌汁が小鍋で煮える。沸騰させないよう火加減を見ながら、賽の目に切った豆腐をそっと沈めた。

 ほうれん草と胡麻の和え物を拵え、キャベツを千切りに刻む。

 三枚におろし塩コショウを振って置いたアジに衣を付けていく。

 熱した油に浸したアジが、白い泡を立てて爽やかな音色を奏でた。

 独り身が常の人生。人並程度に料理をするとはいえ、他人に自信たっぷり振る舞うような腕前では決してなかった。だからと、下手な遠慮で食事の用意だけ手を抜くのは如何にも無精。

 学業と並行して、あの歳にして仕事を、多数の企業経営に携わっているという花宮は当然ながら多忙だ。今まで己などに時間を割けていたことが不思議なほど。

 せめて、きちんとしたものを食べて欲しかった。十六、いや十七なんて、まだまだ育ち盛りなのだから。


「何様のつもりだ」


 子供の養育に、年長者ぶって思いを馳せる自分が穢らわしかった。

 あまり使われた形跡のない最新式のシステムキッチンに佇み、せっせと手料理など拵えている自分というものを俯瞰した時、その場違い、筋違いに、吐き気を催す。

 罪人は今なお生を謳歌しのさばり、その罪深さを知りながら償いを先延ばしている。

 俺はひとえに邪悪を栄えさせる質実な一柱だった。

 俺という邪悪は健在にして今この瞬間にも安穏を貪っている。

 布巾で拭った包丁の、銀色の刃先を見下ろして、これを喉に突き立てた場合の後始末の難儀さを想像した。

 シンクや調理台、床材は脂と水にも強いので、拭き上げればよいが。遺体の処理や死亡後手続き、なにより他人の自宅に死骸を放置することになる。

 到底、迷惑の一語に収まる話ではない。

 愚にも付かぬ、妄想である。

 その時、壁に据えられた固定電話が鳴った。携帯電話の普及によって近年設置数も減少傾向にあるが、ワンフロア分の広大な敷地面積と相応の部屋数を有するこうした環境では存外使い勝手が良い。特に内線や、直通の連絡手段としては。

 受話器を取る。


「もしもし」

『こんばんは、カゲユキさん』

「こんばんは」

『今帰り道です。あ、マンション見えてきました』

「それは、タイミングが良い。夕飯、丁度用意できています」

『やった! 揚げたてのアジフライだ! もう少し待っててくださいね。一緒に食べましょうね』

「はい」


 電話口に子供のようにはしゃいだ声が響く。きっと、華やぐような笑顔がこの向こうにはあるのだろう。

 不意に笑声が止み、静かな口調で少女は言った。


『包丁、そんな風に持ったら危ないですよ』


 振り返る。その視線に。無機質な眼球、虹彩を仰ぐ。

 天井に吊られた半球状のカメラ、そのレンズがじっと己を見下ろしていた。

 花宮の眼が俺を見下ろしていた。


「……不注意でした。すみません」

『いいんですよ。でも、料理とか、家事とか、負担ならすぐ言ってくださいね』

「自分が申し出たことですから、どうかお気になさらず。それに住まわせていただいている以上、なにもしないというのはあまりに気が引けます」

『一緒に住んでもらってるんです。私が、貴方に。自由を奪ってでも、一緒にいたかったんです。私が、貴方と』


 噛んで含めるように少女は言う。固く宣する。

 決して譲れぬ。譲らぬ、願望を。


『エレベーターに乗りました。もう着きますよ。切りますね?』


 そう言いながら、彼女から通話を切られたことは過去一度もなかった。いつもこちらが控えめに受話器を下ろすまで少女はじっと待っている。送話口越しにこちらの気配を窺っている。おそらく、時間が許すのなら何時間でも。

 ダイニングテーブルに食器を並べ終え、不意に明かり取りの窓を見やる。

 日が落ち、闇の下地に煌びやかな夜景を映えさせる長方形のガラス戸には、鉄格子が嵌っている。

 それは、軟禁における対象の脱出阻止が一つの目的なのだろう。しかしもう一つ、を邪推するなら────。

 玄関から扉を解錠する幾つもの音が鳴り、次いで廊下を小走りに弾むスリッパの足音が近付く。

 ブレザー姿の少女がダイニングに現れた。どうしてか息せき切らせ、額に汗すら滲ませて。


「ただいま!」

「おかえりなさい」

「っ……」


 幾度も繰り返したこの挨拶。

 であるのにその度、少女の反応はいつも新鮮だ。

 深く、感じ入って。喜びを噛み締めて。

 時に涙すら、その両瞳に滲ませて。

 子供のように、少女は笑う。


「ふふ、ふふふっ、美味しそう」

「……帰ったら、まず手を洗いましょう」

「はーい!」


 素直な返事に俺は曖昧な笑みを返す。それ以外にやり様を思い付かなかった。

 少女とどのように接するべきか、わからない。


「お湯あったか~。外、今日は昨日より寒かったです」

「暖房、少し上げますか」

「ううん、十分あったかいよ。ありがとう、カゲユキさん」

「いえ」

「そだ! ねぇ聞いてよカゲユキさん。今日学校でね、小テストがあったんです。それも抜き打ち。まあそれはいいんですけど先生がボケててね、三年次の範囲で出題してたんです。しかも採点するまで誰も気付かないし」

「時々ありますね。自分にも身に覚えが」

「えー、意外とあるあるネタ? でね、教師は平均点に文句付けるわ、授業時間は潰れるわでクラス中もう大顰蹙。ま、私は満点でしたけど」

「それは……すごいですね」

「ふふふー、これでも私ってば超優等生なんですから」

「ええ、なんとなくわかります。小さい頃から利発そうだ」

「はい、何を隠そうとっても良い子なのです。ということでどうですかお一つ。今なら諸々込みでカゲユキさんちの子になっちゃいますよ? 独占契約ですよ?」

「俺には勿体ない話です」

「ぶー」


 この少女が優秀で、優良な人間であることは疑いない。能力にせよ容姿にせよ、人より抜きん出たものを持ち合わせ、またそれを活かす術を心得ている。

 才能に恵まれる人間はいても、生まれた持ったそれを十全に発揮できる人間はさらに稀少である。

 己などが、間違ってもそれを腐らせたくはない。そんな真似を許してはならない。

 こんな先の無い男への固執を、如何にして捨てさせればよいのか。

 ふとした瞬間、気付いた時、折に触れて、呼吸するように。

 自殺。

 その方法と事後処理を常に頭の中で画策するような無責任な、卑劣な己から。

 この子を解放する為には。







 おかえりなさい


 その一言が、灯りの点いた家が、温かい夕ご飯の匂いが。

 私の心を救う。

 胸の中心に空いた虚穴に、暖かで、柔らかなものが満ちる。

 これを。

 この、こんな、ささやかなものを。

 一体どれくらい私が待ち侘びたか。乞い求めたか。こいねがっていたか。

 誰にもわからない。わかられたくない。

 でもどうか、貴方にだけはわかって欲しい。他の誰でもない貴方にだけは、どうしても。

 貴方に私が負担なのは知っている。ここでの生活が貴方の望みに反することも理解している。

 貴方がもう、とっくに限界だってこと。


「…………」


 カゲユキさんの為に用意した部屋。

 その扉の前に座り、膝を抱えた。

 施錠はされていない。されていたとして、マスターキーは自分が持っている。これを開け放ち、中に入るのは簡単だ。

 それができない。

 今は、できない。

 この時刻、彼は必ず一人になる。一人になって、あの人を見舞う。

 タブレット端末で、病室に繋がったカメラ越しに、お母様の様子を見守る。

 彼は夜通しそれを続けた。お母様の体調次第では昼間であろうと夜間であろうと関係ない。

 彼が私に、掛け値なしに感謝をくれる唯一がこれ。二十四時間のモニターは、彼に一つの安堵をもたらした。

 今まではまったくの不意に訪れるだろうその“報せ”に身構えていたところを、カメラの導入によって余暇が与えられた。覚悟を、より固める時間を。

 直接面会に行くことも彼は欠かさない。欠かさず毎日。私がどうしても時間を作れない日は藤堂に警護と足を任せて病院に通っている。

 目を開くことすら日に数回あるかないか。

 迫っていた。その日、その時が。

 明日か、明後日か、それとも今、この瞬間────


「……」


 自分の目から流れ出たものを乱暴に拭う。

 こんなものを、私が流していい訳がない。そんな資格はない。

 でも、涙は止まってくれなかった。

 怖くて怖くて、私は声も出さず泣き続けた。

 カゲユキさん。

 ねぇ、カゲユキさん。

 お母様の命と、緩やかな終わりをただ静かに、片時も目を逸らさずに見詰め続ける貴方は。

 貴方まで。


「いかないで……」


 終わってしまうつもりなんですね。

 お母様を見送った後、貴方も、貴方を終わらせてしまうんですね。


「いかないで……!」


 なら私も覚悟をします。

 貴方に、憎まれる覚悟。貴方の人権を侵し、冒涜し、支配する覚悟。

 きっと貴方の目に私は悪魔のように映るのだろう。これから、家畜のように人間を飼い殺そうというのだから。

 それでも、やめない。やめてなんてあげない。

 私の救い。私の夢想ゆめ

 ようやく私はお母さんを救える。貴方を、救える。


「いかせない」


 私を憎みながら、貴方は生き続けるんだ。







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