新生活
数日置きにあの男はアパートに現れた。四日と空けず酒代かギャンブルに消えた金銭の補充に来るのだ。そして、落伍者でも多少は気を遣うのか、薄汚れた身形を申し訳程度に整える為に必ず風呂に入っていく。
それはもはやルーティン化し、“実行”のタイミングを見計らうには実に都合が良かった。
母がパートに出掛け、あの男が一人部屋を訪れて箪笥の引出しを物色する。すぐに出て行く日もあれば、暫く居座って持ち込んだ酒でひたすら管を巻く日も多い。
男はどうしてか俺に酒を注がせたがった。他人が自身に隷属し、また他人を使うことそれ自体に征服感を得ようとしているのだろう。定職にも就かず敬われるべき何一つ身に帯びない人間の、せめてもの虚栄心。抵抗できない女子供相手にしか劣等感を満たせない卑しい人間なのだと。少なくとも当時の俺の目に男の横柄さはそのようにしか映らなかった。
我ながら歪んでいる。
────お前は俺に似なかった
男は酔いが回ると決まってそう言った。
可愛げの無さを詰られているのか、それともお前には欠片の愛着も持つことはないと暗に宣言されているのか。
酒臭い息を吐きながら薄ら笑って、男は繰り返す。
────お前は、俺に似なかった
酩酊の半ばほどがそのピークだ。男は幾度もそう口にする。幾度も、幾度も。
酔いがさらに泥沼化すればここから傍にいる俺や、在宅時であれば俺の身代わりとなった母を、殴り蹴り怒鳴り喚き始めるのだが。
その日、男は大人しかった。
────お前は俺みたいにはなるなよ
男はぽつりと呟いた。
それがどういう意味なのかはわからない。言われずともこんな人間になりたいなどと思うわけがないのだが。
その横顔に宿ったもの……今にしてみればあれは、自嘲、だったのだろうか。
とうに別れた妻と子供を執拗に追い回し、泥酔して暴力を振るい、強盗よろしく金銭を取り上げていくような、それを恥ずかしげもなく何年も繰り返してきた男が。
果てに、あんな。
母の孕み腹を踏み付けにして、命を踏み躙るような男が!
何を今更。真人間ぶりやがって。
変わらない。全ては決している。罪業はここに。今更なにを思い、なにをしようと、犯した罪は歴然と刻まれている。皮膚に、骨に、魂に。
許されない。償いの方法などない。
命を奪った者には、どのような弁解も意味を為さず、清算の術とてもはやない。
命は一つ。死は不可逆。
お前を許さない。お前の何一つとして許しはしない。
────お前は、俺みたいになるな
うるさい。説教のつもりか。父親の真似事を。お前なんかが、誰かの親であるかのように振舞うなど。
────ならなくていい
うるさい黙れ。黙れ。黙れ。
────お前は、いいんだ
お前は、死ぬべきなんだ。
男の目を盗み、俺は酒に薬を盛った。母がいつからか常飲するようになった睡眠導入剤を密かに盗み、少しずつ溜め込んでいたのだ。
細かく砕いたそれを焼酎に混ぜ込む。泥酔者一歩手前の男の味覚がまともに機能する筈もない。
男はそれを飲み干した。
折よく、それを飲んですぐ男は風呂に入ると言って脱衣所へ立った。
自分の思惑通りに。
……本当に、浅知恵だ。
求める悪辣さに比して、程度はただただ子供の空想レベル。まさに年齢相応の未熟な知性で。
実現性がない。現実的ではない。
この犯罪計画とも呼べない不出来な画策は、深酒をした男の行動がこちらの思い通りのタイミングで起こされて初めて成立する。
そんな筈がないのだ。
人間の行動を逐一正確に予測などできるものか。ルーティンといっても限度はある。
思惑通りになどなる筈がない。
なる筈が、成る筈が、なかったのに。
そうしてこの日、また一人。
許されざる罪人が生まれた。
「……」
飾り気の無い部屋だった。さながら、高級ホテルのスイートルームの寝室から家具や調度やアメニティ等を全て取り払ったようなモダンな内装。
唯一の日用品である寝台で俺は仰臥していた。
真新しく固さの残るベッドと洗いざらしたところの無いシーツ。枕が変わっても睡眠の質に然して変化は覚えなかった。身体はいつなりと会社からの呼び出しに応じられるように熟睡せず、常に微睡で浮遊している。意識してというより、いつの間にかそうなっていた。
習慣とはそう簡単に抜けないようだ。
起床しようと身動ぎした時、違和感。いや、異物感が。
掛け布団を払う。おおよそ予想通りの姿がそこにある。
「おはよ、カゲユキさん」
「……」
花宮カナミが、自身に寄り添って横たわっていた。
ゆったりとした紺のルームウェアは昨晩に見た時のまま。けれどどうしてか今、少女はズボンを穿いていなかった。
露な白く長い脚が、己のそれに絡んだ。その脹脛の柔らかさ。否応なく性差を思い知らされる。男の筋張った肉体に比して、女体のなんと柔和なことか。
抗いがたいそこから無理矢理に抗い、ベッドの反対側に足を下ろし腰掛けた。
背後でシーツを滑り、にじり寄ってくる気配。
寝汗の甘い匂いが漂ってきた。
「休むなら自分の部屋へ行ってもらえますか」
「ごめんなさい。でもカゲユキさんと一緒に寝るの、すごく安心するから……えへへ、一度覚えちゃうとダメですね」
「なら恋人なりを作って、思う存分そうしてもらうがよろしい。あんたなら選り取り見取りだ。男でも、女でも。俺以外の誰でも」
少女の手が肩に触れ、そうして掴む。その指のしなやかさからは想像外の握力で。
「カゲユキさん以外にこんなことするわけないでしょう? そんなの、想像したくもない」
「今よりは健全だ。恋人でもない男の寝床に潜り込むような真似より、そういう相手を見繕ってくる方がよほど」
「そんな悲しいこと言わないで」
「言わせているのは……!?」
激して振り返った先に、少女の顔がある。それを間近にする。
縋るような眼差し。叱られる子供のような、そんな表情。
それは卑怯だろうか。いや、17歳の少女は現代日本社会において子供と呼んで申し分ない。
それがたとえ、社会秩序に横車を押してしまえるような富豪、権力者であったとしても、一個人の権利と自由を制限し得る力を持っているとしても。
子供なのだ。
彼女は子供だった。
言動や振舞いには確かに、時に年齢不相応の智賢と老獪さが垣間見える。彼女がどのような過去を経て現在に至っているのか己の知る由もないことだが。
凡人なりの人生を辛うじて繕ってきた身には想像を絶する経験をしてきたのだろうということ、それは不敏な己にも理解できる。
しかし、一度情操的な面が表出すると、彼女は実年齢かそれ以下の幼さを見せた。
我儘であり、自身の要求が通らなければ駄々を捏ねる。話し合い、もとい言い聞かせた約束事を己の都合で破る。
寝床に忍び込むこと、使用中のバスルームに断りもなく入ってくること、肉体的スキンシップが過剰なこと。
こちらの声が険を帯び、あるいは叱責のような響きを持つと途端、少女はひどく怯えた目をした。
居た堪れなくなり、俺はそこから顔を背けた。
「……ここに居るの、嫌、ですか……?」
「住むことを了承してここに居るわけじゃない」
「ここに居ないとあの女にまた狙われる」
「なら警察に事情を説明し、警護を依頼するだけだ。本来は一週間前にそうすべきだった」
このマンションの最上階に連れ込まれてから早それだけ経とうとしている。
そしてこの問答は、さて何度繰り返したことだろう。解答もまた同様に。
「無理ですよ」
「警護はともかく、犯罪の捜査と検挙が警察の仕事だ。彼女が逮捕されれば。いや……佐原さんがきちんと出頭し、刑に服すればそれで」
「だから、それが無理なんだってば」
物分かりの悪い大人に、子供が得意げに知識を披露するような言い様だった。
「警察なんかに捕まえられるもんか。なにより、むざむざ自首なんてしないよ。あははっ、刑務所にカゲユキさんはいないからね。あの女は来る。絶対に来る。機会を待って、何年でも待って、カゲユキさんを奪いに来る」
「そんなことが」
「わかるよ」
背筋に少女がもたれ掛かってくる。額を押し当てて、両腕が腹に回される。
「イラつくけど、私にはわかるの。だって、私だってそうするだろうから」
「……」
「あんな女にカゲユキさんを奪われて、なにもしないでいられるわけがない。邪魔なものは排除するし、カゲユキさんに近付く奴は……殺す」
「っ!」
少女の腕を掴み、振り返る。
その一言だけは断じて看過できず。
必死の思いで見やった少女は、しかして今は穏やかに、ただ微笑んでいた。
「もう迷わないよ、私。大事な人を守る為だったらなんだってやるよ。なんだってしてあげる。だから……」
少女は己の胸に顔を埋め、体を掻き抱いて囁く。
「許して、ください」
それはまるで祈り拝するような。
俺ではない誰かに。ここにはない何か途方もなく尊いものに、捧げるような。
悲しい声だった。
軟禁と呼べるかどうか。
それは奇妙な生活だった。
基本的にこのタワーマンションの一室、一階層分の広大な住居の中で俺は自由に過ごすことを許された。
「私の部屋はここです! 自由に出入りしてくださいね! ホントご自由にいつでも!」
「ご厚意のみ頂戴します。用事があれば内線か、室外から声を掛けますのでそのように」
「(´・ω・`)」
住居としてのあらゆる質において以前のアパートと雲泥の差であることは言わずもがな。
しかしだからとて、それに甘んじられるほど俺の精神は泰然自若から程遠い。
なにより、仕事がある。収入を得なければ入院費用を賄えない。
そしてなにを置いても、病床の母を見舞い、身辺の世話をする。これが至上命題。
「カゲユキさんの職場には休職届を出しました。とりあえず一年。大丈夫ですよ。給与は満額で約束させました。今までの待遇を思えば当然ですね」
にべもなく花宮は言った。その手には会社から送付された正式な通知書があった。制度的に言っても決して当然とは言い難かった。またしても大いなる見えざる手を少女が動かしたのは自明だった。
「お母様の様子は……」
タブレット端末を取り出して、彼女はなにかしら操作する。
それはリモート会議等でも多用されるビデオ通話のアプリケーションだった。
そこに、母の病室が映し出されている。
「これ、は」
「カメラを置かせてもらいました。あ、ちゃんと病院から許可は取ってますよ。これでいつでもお母様のお顔を見られます」
「そういう問題じゃない! 俺は、母に」
「会いたい時はいつでも言ってください。警護を付けて私も一緒に行きます」
花宮は、母の見舞いであれば外出も許容した。その言の通り花宮の同行、そして花宮麾下の私設警備による監視付きで……ではあるが。
しかし、如何に見張りがいようと屋外に出歩く以上一人の人間の逃走を完璧に防ぐことなど不可能だ。現に、先達てそれを佐原アミがその暴挙によって証明している。
「……貴方は逃げたりしない」
「どうして、そんなことが言える」
「だって……貴方は自分のことなんて、どうでもいいと思ってる。お母様との面会と身の回りのお世話さえできれば、それでいいって、本気で考えてるじゃないですか」
「……」
返す言葉がなかった。
寂しげに笑う花宮に、俺を監禁し束縛する少女に、どうしてか俺は言い訳など探している。
「いいんです。カゲユキさんはそれで。でも、でもいつか……いつかは」
少女はそれ以上を口にはしなかった。
いつか。その先に、俺は何を期待されているのだろう。少女が俺に何を望むのか。
俺にはわからない。やはりどうして愚劣である。俺は、その“いつか”に少女の望みを叶えられるのか。
いやなにより、俺はいつになれば、相応の報いを賜ることができるのか。
────お前は、いいんだ
何故か、思い起こされるのは。
俺の罪。俺の犠牲者からの言葉だった。
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