少女の影





 事情聴取は十分ほどで終了した。

 思いの外拘束時間は短かったが、電車を数本乗り遅れることに変わりはない。結果として、俺は無事会社に遅刻する羽目になった。


 時間も守れないのか

 お前はクズで愚図だ


 上司に蹴られ、罵倒され、もう一撃蹴りをもらい、事なきを得た。

 日中に外回りの営業を済ませ、取引先でまた平身低頭に謝罪を繰り返す。

 会社に取って返しひたすら伝票整理と書類作成と資料収集に奔走する。

 手元の仕事が終わるのを待たず、追加は幾重にも積み上がっていく。俺は要領の悪い人間だが、定時を過ぎ日付を跨いでもなお仕事が終わらないのはおそらく物理的な量に問題があると思われる。

 自分のデスクに噛り付き、終了の目途が立ったのは午前二時頃。

 当然、終電などとうに車庫で眠りについている。

 仕方がないのでタクシーを呼んだ。懐に余裕がある訳ではないのだが。


 自宅アパートに辿り着いた頃には午前三時を回っていた。

 勿論明日も仕事だ。最低でも六時前には家を出なくてはならない。

 二時間も眠れれば良いところだろう。

 随分前から切れ切れの電灯の下を歩く。共益費は毎月欠かさず払っているが、これが取り換えられるのはいつになることやら。

 耳孔を虫の羽音が不快に叩く。古びた木造の二階、一番奥の204号室。鍵を差し込もうとした時、それに気付いた。


「?」


 郵便受けから白い便箋がはみ出している。表面には、細く綺麗な字で。


『尾上さんへ』


 保険の証書や請求書の封筒は見慣れているが、こんな手紙、のようなもの何年も受け取ったことがない。

 物珍しさも手伝って、その場で便箋を開く。

 中にはやはり当然に、折り畳まれた手紙が入っていた。


『今日はありがとうございました。

 助けていただいたのに、何のお礼もできずにごめんなさい。

 怪我の具合はどうですか? 改めて今度、お礼をさせていただきます。

 よければ連絡してください。


 花宮カナミ』


「花宮……?」


 名前の下に携帯の電話番号とメッセージアプリのIDが、やはり綺麗な筆致で記されている。

 差出人と思しきその名前には一向覚えがなかった。

 一瞬、文面の意味を判じかねた。今日一日の出来事に記憶を巡らせて、そうしてようやくこれが朝の痴漢騒ぎのことを指しているのだと気付く。己の記憶力が往年のゲーム機並に虚弱であることはさて置いても、即座に思い至れなかったのは無理からぬことと信じたい。

 今日の朝のことなのだ。

 朝、たまさか女の子を助けた。これはその時の旨を記した手紙なのだろう。が、それがその日の内に自宅の郵便受けに届けられていたのだ。

 早すぎる。幾らなんでも。

 なにより。


「住所、なんで……」


 俺が彼女に渡した名刺には、会社名と社用の携帯電話の番号、アドレスが記載されている。私用の電話番号はおろか住所などどこにも書いていない。自分が呆けて書き渡したなんてこともない筈だ。


「どうやって……あ?」


 便箋を見た。汚れ一つないそれを。

 表にも裏にも、切手も消印すら押されていない。

 それは直に、郵便受けに投函されていた。

 振り返る。アパートの二階の踊り場から、塀の向こうを。街灯の先の暗闇を見やる。

 その闇の狭間に、誰かの影が見えたような気がした。








 上司に蹴られ、罵倒され、殴られる。

 上司に蹴られ、罵倒され、詰られる。

 残業して残業して残業する。

 驚くほど変化のない、俺の日常風景というやつだった。

 そういえば今まで顔を打たれたことだけはなかったな。

 上司なりに気を遣ってのことなのだろう。それが決して慈悲でないにしろ、顔の傷を避けてくれるのは有り難い。

 母を動揺させたくはなかった。

 余計な心配など断じて掛けられなかった。

 その意味で言えば、先日の騒動、その最後を飾ったアクシデントは俺にとって最も痛手だった。文字通りに。

 目の下には今もくっきりと傷の線が走っている。数日程度では消えそうもない。自身の診断の目はとんだ節穴であった訳だが。

 どうにか誤魔化せないものか。

 三日後ようやく母の見舞いに行けるのだ。

 有給申請は通らなかった。しかし、半日だけ外回りに行くという体で時間を取ることが許された。自分の謝罪一回につき上司から十回罵詈雑言を賜ったが、その甲斐はあった。

 少なくない労苦で取り付けた許可を取り下げられることのないように、仕事を消化する。ひたすらに消化していく。

 不意に、デスクで社用の携帯に着信があった。

 今も現役の二つ折り携帯を開く。着信画面の番号を見て、俺はなんとか溜息を堪えた。


「……」


 花宮カナミの番号だった。

 手紙を受け取って数日。こうして彼女からの連絡を受けるようになった。数時間おきだったのは初日だけで、今ではきっかり十分置きに電話を掛けてくる。

 いくら愚鈍を自称する自分でも、これが少々異常であることくらいはわかる。

 着信履歴を埋め尽くすただ一種類の番号。今日などはうっかり取引先からの連絡を逃してしまった。そのことが伝わってしまった上司に二度背中を蹴られた。

 自分のミスだ。責任転嫁などしたくはない。だがどうしても思うところはある。

 なにより少女の意図がわからない。己のような冴えない男に今更なんの用があるというのか。

 意味不明。理解不能。これまで覚えたものとはまた違う、特異な不可解が胸にわだかまる。

 そしてまた、着信が入る。


「……」


 仕事に支障を来たしていた。ミスが重なり、それでもし三日後の半休を取り消されてしまっては元も子もない。

 今度こそ、俺は溜息を堪えなかった。

 デスクを離れトイレに入る。洗面所の大鏡に映る陰鬱な男の顔を見限り、私用のスマホを取り出す。

 俺は件の番号を打ち、通話をタップした。

 コールが三回。

 鈴を転がすような、それでいて絹を撫でるように上品な、少女の声が耳に響く。


『尾上さんですか』

「……はい。花宮さんの携帯でよろしいでしょうか?」

『はい、私カナミです。ふふ、嬉しい。尾上さんから電話してくれるなんて』


 電話口でころころと笑う。無邪気に喜ぶ少女の声に、俺はただ戸惑った。

 何度も何度も、非常識な頻度で連絡を寄越していた人間とは思えない。

 純な、幼さすら感じるほど。


「早速ですみません。お渡しした名刺の電話番号なんですが、あれは社用のもので。その……連絡を控えていただけませんか」

『あ……ごめんなさい。私、尾上さんと電話できるって思ったら、嬉しくってつい……仕事のお邪魔、してますよね。ごめんなさい。本当に、ごめんなさいっ』

「いえ……何か御用がありましたら、今掛けているこちらの番号に連絡してください」

『はい……』


 弱々しく萎む声色に、これ以上を言い募る気が失せてしまった。


「あの後、大丈夫でしたか」

『心配してくれるんですか……? 尾上さんこそ、怪我は? もう痛くないんですか?』

「ああ、はい、あの時も言いましたが、大した傷じゃありませんから……」

『ちゃんと病院、行かないとダメですよ』

「なにかと忙しなくて……」

『もぉ。尾上さん、無頓着すぎます。そういえばすごく痩せてますよね。ご飯食べてます? 体重とか、もしかして私と同じくらいだったりしません?』

「そんなことはない、と……思います」

『食べてないんでしょう。コンビニのお弁当、それともカップラーメンとか? 絶対よくない。時間が取れないのわかりますけど、いつか絶対体壊しますよ。体調悪くてもどうせ栄養ドリンクとかで誤魔化してるんでしょう。そういう無茶が効くの、若い内だけなんですからね』

「め、面目ないです」


 次第にそれは詰問のように変わっていった。それこそ昔、母に────まだ元気だった頃の母に散々言われたような。


『じゃあ何か作りに行きます。尾上さん、食べたいものがあったら教えてください』

「いえ、そこまでしていただかなくても……」


 自然と家に押し掛けようとする彼女に怯みを覚えた。

 そうして、俺は思い出す。この牧歌的な会話の違和。自分のあまりの暢気さに。


「……俺の自宅の住所を、どうやって知りましたか」

『え? 会社の事務の方に聞きました。名刺に社名が書いてあったので』

「なるほど」


 あっさりと白状する少女のあっけらかんとした態度に肩透かしを食らう。

 事務もそれならそうと報告してくれればいいものを。

 とはいえ、住所を調べわざわざ自宅に手紙を残しに来る行動力は、やはり普通とは言い難い。


「花宮さん、貴女の感謝は十分に伝わりました。こうしてわざわざ電話までくださって、ご丁寧にありがとうございます」

『そんな。私がしたくてしてるんです。お礼なんて言われたら、困っちゃいます』

「ですが、もうこれ以上は結構です。どうぞお気になさらず……嫌な思いをしたでしょう。俺のことなんて、とっとと忘れてくだ」

『嫌です』


 語尾を消し去るように、断ち切るように、少女は言った。認めない、そんな拒絶の意思が、スピーカーから刃物のように耳を抉る。

 固く、冷たく尖る声音。先程までの柔和さは微塵もなかった。

 糸を張り詰めるかの沈黙が流れる。トイレの外の騒めきが遠退くほど。


『また連絡しますね。コンビニで買い物とか、しないでくださいね』

「……花宮、さん」

『またね、尾上さん』


 弾み、踊るような声、楽しげな童女の声を最後に通話は切れた。









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