病み男とストーカー少女
足洗
痴漢騒ぎ
気付くと、ホームの黄色い線を見詰めている。
猫背気味の背中、無意識にも項垂れる首。すっかり癖になった溜息を短く吐き捨てる。
背骨が蛇腹になった気分で上体を起こす。ホームの屋根の間から見えたどんよりとした曇り空に、そっと安堵した。どうも近頃、晴れた空を見るのが辛いのだ。自分と真逆の澄んだ綺麗なものを見てしまうと眼球が焼けるように痛む。いやもっと奥で、頭痛がする。
一日に確保できる睡眠時間が三時間を切った辺りから身体は度々不調を訴えたが、当の体の持ち主はそれを黙殺する。病院に足を運ぶ時間が惜しい。というか無い。無い袖は振れない。休日のない生活が続いて何ヶ月になるだろう。
案外、無休でも人間は死なない。市販の栄養剤やビタミン剤だけでも死ぬ寸前で持ち堪えるくらいはできる。
現代社会のトレンドである過労死も人によりけりらしい。相性、でもあるのか。
死。
死か。
死ねばきっと、今よりは楽だ。確実に。確信を以て言える。
それこそ、今。
ホームに滑り込んでくる電車。線路を殺ぐ金属の嘶きに、一歩近寄れば。
この黄色い凹凸を乗り越え、進み出れば。
「全部終わる」
くだらないぼやきはホームに響き渡る自動音声に掻き消された。
目前、前髪を突風が爪弾く。車両は何事もなくホームに到着した。
開いたドアにぞろぞろと人々が吸い込まれていく。己もまたその人波に飲まれ、押し流されていく。
電車への身投げは方法としてとても確実性に富むが、今この場の駅、このホームに佇む何百人、この後続々と続く何千人何万人の足を止めることになる。
迷惑の二字では済まないことだ。
この世を去ろうという人間がこの期に及んで他人様の迷惑どうこうを思い悩む方が滑稽な気もするが。
言い訳でしかないのかもしれないが。
せめてここでは止めておこう。
せめて、まだ少し、もう少し。
母が先に旅立つまでは────
半年間、そう脳裏に繰り返してきた。
戒めが呪いに思えるくらい。
しかし目的意識は俺に今一歩を踏み止まらせる力を与えた。母の入院費の為。一日一日、刻むように生きている。
しばらく見舞いに行けず、顔も見られていない。
転職すべきなのだろう。入院する母の身の回りの世話や現在恩恵に与っている各種社会保障等の手続き、それらをこなす時間、余暇の捻出には現在の職場環境や待遇が適したものであるとは、お世辞にも言えない。最も手早く、効率的で、なにより合理的な結論は、やはり転職なのだろう。
己にはある意味それをする義務がある。
ある筈だ。ない訳がない。
今の職場に執着する理由こそありはしない。
無論、転職活動をしたからといって即時採用される保証もないのだが。
自分が如何に不出来な人間であるかはよくよく心得ている。痛みを伴うまでに骨身に沁みて知っている。
己が如何に不出来で、不孝で、救い難いか。
「……」
一度、どうにかして一日休みを取ろう。母の様子を見に行こう。行かなければ。
でなければ、自分は、いったい、何の為に。
狭苦しい人と人の垣に圧し潰され、車窓を流れる灰色の街を眼球に流す。ここ数ヶ月間の繰り返し。
その時、ふと、過る。
車内、直近。ここは座席の端である。自分が掴まり立つ手摺、扉の壁際にはL字の空間がある訳だが。
そこに太い背中が立っている。でっぷり、という表現がなかなか似合いの。身長は自分とそう変わらないが、痩せぎすな自分とはその厚みが段違いだ。
太った会社員風の男……その男に、圧し潰される小さな人影。
水色のブラウスに青いリボン、青いチェック柄のプリーツスカート。烏の濡れ羽色、そういう吸い込まれそうなほど深い黒のミディアムヘアの少女。
女子生徒。高校生。制服の形で学校名がわかるほど俺は近辺の地域社会に明るくなかった。
隅に追いやられた女子高生が、追い詰めた男に覆い被さられて。
もぞもぞと。
男の太い手がチェックのスカートを捲っている。
つまり、痴漢か。
「……」
感慨は薄かった。見たのは初めてだが、珍しくもないのだろう。
身動ぎするのも難しい超満員の車中、こういった行為の本領と。
感慨は薄かったが、気分は悪かった。ひどく憂鬱になる。ついさっき感情の底値に居たものと思っていたが、さらにその下があったとは。
何故だろう。憂鬱なのだ。卑劣な行為に対する怒りではなく、嫌悪でもない。
何故、こんなことができるのだろう。
この男は何故、他人を害することを選んだのだろう。
当たり前のことではないのか。見も知らない男に体を弄られて女が、いや子供がどう感じるのかなど。
教えてもらわなければわからないのか? 考える頭が備わっていないのか。
そんなもの度外視してでも、自分の欲求を満たしたいのか。
理解不能。意味不明。
憂鬱だった。正義感など欠片も湧かない。
ただただ道義を靴底に敷くこの人間が、俺には理解できない。理解を示すだけの余剰がもはや、ない。
「なんでだ」
「は?」
気が付くと、俺は男の太い腕を掴んでそう問いを投げていた。
ぎょっとした男は俺を見て一瞬怯えた目をした。ひどく、人間らしい反応だった。
こんな真似をするのに、この男は人間的な感情を確かに持っている。
ますますわからない。
わからない。わからない。
「わからないんだよ」
「な、なんだあんた。私は、私は別になにも……手を離せ!」
────自分が今、ひどくおかしくなっていることに思い至った。
今すべきことはこの暗々とした思索ではない。
反応の鈍い俺の様に業を煮やして男が手を振り払う。隣のOLなのだろう女性の肩にぶつかった。すみません。
他にも数名、無理矢理に動いたことで玉突きのように衝突事故が起きた。
視線の渦中がここになる。衆人に環視され、太った男は額に脂汗を噴き出した。
居心地が悪いのは何も目の前の男だけではない。自分としてもこの場に留まりたいとは思わなかった。すべきことをしよう。それだけでいい。
「次の駅で降りましょう」
自分でも穏やかに、そう進言できた。
男とホームに降り立ってから、俺はようやく思い出した。
当の被害者、女子高生のことを。間の抜けた話だ。自分が間抜けなのは物心ついた時から承知の事実だが。
振り返ると、女の子はしっかりと付いて来ていた。背後に、まるで影のように。
「……」
虚を衝かれる。
その、高価な西洋人形めいて綺麗な顔に。長い睫毛の奥から、底無しに黒い瞳が俺を見上げた。静かな目。波の無い水面のような感情のない目だ。
虫でも観察しているかのような。
虫か。虫けら扱いならまあ、いいか。生き物には違いないのだし。
「駅員と、警察を」
「ああ、はい。もう連絡しましたよ」
あっさりと彼女は言った。見れば、つい今しがた通話を切ったと思しいスマホがその白い手に握られていた。
自分などよりよほど少女は状況への対処が迅速で、正しい。
自分の不甲斐なさに内心失笑する。もしかしなくとも、自分は至極余計な世話を焼いたようだ。
別にいい。職場での自分と同じ。手際が悪いのはいつものことだ。
ホームの向こうから駅員と鉄道警察が近付いてくるのが見えた。婦人警官の姿もある。
女の子の方へ振り返る。
「えぇっと、君、ああいえ、貴女の方からも説明を求められると思います……不快かもしれませんが、辛抱してください」
「あぁ、はい」
こちらの言葉に対する反応は緩慢というか、どうしてか咀嚼に時間を要したらしい。目を瞬いて少女が頷く。
すると突然、男が太い身体を翻した。足早に立ち去ろうとする。
咄嗟に腕を掴み。
再び、それを振り解かれた。そうして勢い、男の拳が顔を直撃した。
「っ」
「!?」
視界が暗む。目元がかっと熱を孕む。
「待ちなさい!」
駅員達が逃げる男の背中を追っていく。近くにいた通勤中の会社員も数名、興が乗ったのか捕り物に参加した。
ホームの床に大の男が取り押さえられる。それは随分非日常的な光景だった。しかし面白いとは思えない。
一人の人間の、社会的な死というやつを目の当たりにしているのだから。
「大丈夫ですか」
傍らからそんな声を聞いて俺は現実に立ち戻った。
被害者たる女子高生がそのただでさえ大きな目を見開く。
「血がっ」
息を詰めて、小さく彼女は叫んだ。人形のようだった綺麗な顔に血が通ったように見えた。焦り、痛ましげに翳る。感情が。
触れた手がぬるりと滑る。
血が赤く手を汚していた。思い返すに、男の腕時計で切ったらしい。
「これ」
「いいよ」
白いハンカチを取り出した少女を制して、ポケットから使い古した自前のものを出す。
「汚すのは申し訳ない」
「じゃあ、連絡先教えてください。治療費、お出ししますから」
「必要ありませんよ」
「そんな」
「いいんですよ」
「い、いいって……」
傷は浅い。血の量も大したことはない。当然骨も無事だ。
ならどうでもいい。
今はただこの場を収拾して、警察の聴取を受けて、できるだけ早く会社に行くことだけが気懸かりだった。
困惑する少女に不出来な愛想笑いを向ける。
「災難でしたね」
少女はひどく驚いた様子だった。
最後に、その黒い瞳に光が宿る。今まではなかった、殺していたものが、甦る。
細く華奢な手が、自分の節くれ立ったそれを握っていた。冷たく、柔らかな。
「なにかお礼させてください。ね? お願い、お兄さん」
上目遣いに、彼女はそんなこと言った。謝礼のような言い様だが、まるで何かを
純粋に黒い筈のその瞳に色が見えた気がした。色に、自分の眼球が吸い込まれる、そんな想像。
甘い香りがする。香水や化粧とも違う、石鹸に近い柔い甘みが。
蠱惑的、と言うのだろうか。こんな子供に、俺は女性を見ている。
「お気になさらず」
少女の手を逃れ、一歩退く。
腹の底にもう一つ、重く溜まる。石のように重く固い淀み。
憂鬱が。
先刻、そこに転がる痴漢の彼に抱いた虚しさと同じものを、自分自身に覚えていた。
今日も今日とて最低最悪の気分だ。
警官と歩き去っていく黒スーツの背中を見送る。
そして、振り払われた自分の手を見詰めた。
自分がああ言って見詰めれば、大抵の男は喜んだ。好色を目に浮かべて、ニヤケ面で食いついてくる。連絡先なんて自分から聞いたのも初めてのことだった。
その全部を、拒まれたことも。
あんな目も。
あんな、暗く、淀んだ────やさしい目は。
見付けた、そんな気がした。
探していた何かを見付けた気がした。
婦人警官に生返事をしながら、私は手にした紙片を見る。
別れ際どうしてもと縋って、半ば奪い取ったその名刺。
「
名前を呼んだだけなのに、どうしてか。
私はひどく嬉しくなった。
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