第23話 幸と不幸
家が殺伐としている中で、みっきー宅への訪問はつかの間の休息だった。さながら砂漠のオアシスだ。ご両親ともに人当たりがよく、その上余計な干渉をする気配もない。変な茶々を入れられることも、聞えよがしな舌打ちや嫌味もない。部屋で冷房をつけても「電気代の無駄だ」と騒がれることもない。食事の時の気づまりの沈黙もなければ、「飯だけは一人前に食うのか」と難癖をつけられることもない。俺が「お客様」だというのもあるだろうが、快適なことこの上ない。涙が出そうだ。
課題を早々と片付けた後は、みっきーの部屋でゲームに興じた。格闘ゲームに縁がなかった俺はぼろくそに叩きのめされた。後半は半ば拗ねた気持ちで、「わたべさん」と戯れながらゲームを眺めた。
「わたべさん」は拍子抜けするほど普通の猫だった。年をとっているのか所作はおとなしく、けれど人見知りすることなく甘えてくる。これといって奇妙な点はない。『学校』で見た猫と似ているかと訊かれると、どっちともつかない微妙な感じだ。
夜が更けると恋バナが始まった。
まひろはやけにその手の話が好きだった。言いにくそうにするみっきーから、馴れ初めを聞き出そうと何度もせがんでいた。新聞部らしい野次馬根性だった。
みっきーは最終的には根負けして、照れながらもひそひそと教えてくれた。部活で低血糖になりかけた時に、先陣を切って対処をしたのがその子だったそうだ。自販機で甘いジュースを買ってきて、「少し休んでなよ」と頭上にタオルをかけてくれた。部活は片付けに入ろうとしていて、なおも立ち上がろうとしたみっきーに、極めつけの一言。「いつも準備とかしてくれてるでしょ。こんな時くらい休んでもいいと思うよ」
何でもないように言って、颯爽と走り去っていく姿があまりにも格好良かった。そうみっきーは語った。
あまりにも純な話は俺にはまぶしすぎた。人知れず行っていたことを見ていてくれた人がいた。なんて感動的。
さんざん冷やかされたのち、みっきーは不満そうにまひろに目を向ける。
「まひろくんだってユウ先輩好きでしょ」
みっきーが繰り出した反撃に、「はあーっ??」とまひろは露骨に狼狽える。
こうなることは必然だった。斬っていいのは斬られる覚悟がある奴だけだ。
「誰があんな少年趣味の変態」
「本当にそう思ってる?」
こうなったみっきーは強い。まひろは無言の抵抗を試みるが、あえなく敗北する。頭から湯気が出ていそうだった。「なんか怪しかったよな」と俺が言うと、まひろは「うるせえっ」と八つ当たりみたいに俺を睨んだ。
「……これは単なる愚痴なんですけど」
不貞腐れながらまひろは語る。
「……あの人帰国子女だから、みょーに距離が近いの。『何してんの?』ってスマホ覗き込まれるときとかさ、顔がすげー近くにあんの。身体も近いの」
「うん」みっきーの優しい返事。
「……その上ことあるごとに頭撫でまわしてくんの。でかい犬でも撫でるみたいに。わしゃわしゃーって」
「ラッキーじゃん」
まひろは「どこがっ」とテーブルを叩いた。
「『かわいいねえかわいいねえ』って犬みたいに扱われてみろよ。惨めんなるわっ。おれだけドキドキしてんのがバカみたいじゃんっ」
「してんだ?」
「しないとでも思ってんのかよ! こちとら年頃の男子なんだぞ! 毎度毎度心臓止まりそうだっての。くそう、身長がほしいよお……」
「まあまあ。これでもお飲み」
みっきーが注いだ麦茶を、まひろはぐびぐびと飲み干した。音を立ててグラスを置き、そのままだらんと突っ伏してしまう。
「せめて人間扱いされたかったよお……」
「へいポチ。お手」
「死ね」
一瞥もせず言われるとなかなかぐさりとくる。
「阿久津くんにはなんかないの?」
「そーだそーだ、さっさと吐け」
亡者どもが手ぐすね引いて俺を道連れにしようとしてくる。死なばもろとも、という奴か。差し出すものがない俺は無敵だ。悲しいことに。
「気になる人とかいないの?」
「いない」
「この子いいな、とかも?」
「まったく」
「誰かといい感じになったとかは?」
「あくつに限ってそれはない」
俺の代わりにまひろが言い捨てた。
叩いても叩いても埃が出ないことを知ると、二人は露骨に興のそがれた顔をした。
「ちえーっ、つまんねえの」
「悪かったな」
ちょっとトイレ、と言って座布団から立ち上がる。「あっ、逃げやがった」と声が追いかけてきたが、知らんぷりをして部屋を出た。
用を済ませた先でばったりみっきーの「母さん」と会った。(みっきーは実親を「お父さん」「お母さん」と呼び、育ての親を「父さん」「母さん」と呼ぶことで区別している)
「なんだか楽しそうね」
「……うるさくてすみません」
「いいの。なんだか賑やかでいいわ。お友達が泊まりに来るなんて初めてだから」
相変わらず菩薩みたいなことを言ってくれる。手には手作りのデザートが乗ったお盆を持っていた。牛乳とみかんを寒天で固めた奴だ。「お夜食作ったんだけど、食べる?」と訊かれたので、「ついでだし持っていきますよ」と手を差し出す。いいのよ、と恐縮がって手を離さないのがいかにもみっきーの母親っぽい。
「み……傑くんは、どんな子供だったんですか」
みっきー、と危うく口から出かけた。慣れない呼び方がどこか落ち着かない。
「おとなしい子だったわね。引っ込み思案で。一人遊びも多かったし……」
「一人遊び?」
「そう。何か楽しそうにおしゃべりしてると思ったら、一人で何もないところを見ていたり、居間で『わたべさん』と二人だったりね」
呼ばれたと勘違いしたのか、猫がふにゃあと鳴いた。
「『わたべさん』と名付けたのも傑くんですか?」
「ええ。お祖父さんが、気づいたらそう呼んで遊んでたんだって言っていたから、きっとそうなんじゃないかしら」
何か、と怪訝そうな顔をされる。それ以上の詮索はしない方がよさそうだった。適当に誤魔化して、そのままなんだかんだとお盆を受け取り、部屋に戻った。
寒天は甘さがやわらかくて美味しかった。スプーンを動かしながら、「一人遊びが多かったって?」と話を向けてみる。
「……そうみたいだね」
どうにも他人事な返事。本人に記憶はないらしい。
「それ、『りつ子』だったりしない?」
「なのかなあ……」
「でもさ」とまひろが口を挟む。「イマジナリーフレンド、ってよく聞く話ではあるじゃん? 『りつ子』とは限らないかもよ」
それもそうだ。ただ、引っかかる感じがするのは確かだった。
例えば、と俺は仮説を立ててみる。人形が怪談になりやすいのは、それが「空虚な器」だからだと聞いたことがある。心身二元論で言うところの「心」の欠けた肉体だ。「見えないお友達」たるイマジナリーフレンドもまた、本人にとってだけ存在する、いわばガワだけの空虚な存在だ。この「空」の部分に何かが入り込む、ということはないか。
とはいえ、これは仮説の域を出ない。証明をすることもできない。結論は出ないまま、話はどこかへと流れていった。
俺たちは明け方近くになってようやく眠った。夏用の布団は清潔で涼しく、「熱中症になったら怖いから」と冷房をつけっぱなしで寝ることも許されていた。天国みたいだと思った。
お前ひとりしか使わない部屋だろ。いつからそんな贅沢なことができる身分になったんだ。少しは家に金を入れてから生意気を言え。そんなものに頼ってるからお前は弱っちいままなんだ。俺はそんなものがなくても寝れる。あいつに投げつけられた言葉が嫌でも脳裏によぎった。あの男が築いたみすぼらしい城の中で、俺は何度も寝苦しい夜を過ごした。寝る前にタイマーで冷房をつけることだけは認められていたが、冷房が消えてしまうと、閉め切った部屋が暑すぎて目を覚ます。たびたび水を飲んだりトイレに行ったりして、あとは窓際のかすかな風を求めにいったり、布団のまだ冷たい場所を探して何度も寝返りをうつ。
二人が寝静まってしまったとたん、俺はひとりだ、と思った。すぐ近くでまひろが寝息を立てている。誰にも吐き出せないやるせなさを、俺はぐずぐずと持て余す。
俺の帰る場所は結局あの家しかない。
もうあの家に囚われるのはうんざりなのに。俺は、あそこに帰らなくてはならない。
どうして選ばれたのは俺ではなかったのだろう。
浅ましい願望だとはわかっていた。渦中にいるみっきーの苦悩だって重々わかっていたはずだった。それでも思わずにはいられなかった。
どうして俺は守られないのだろう。
あの子があいつを殺してくれればいいのに、と思った。
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