エピローグ
最終話 家
がたん、という電車の揺れで、俺たちの意識は引き戻される。吊革を握る俺と、長椅子に座る二人。三人で目を見合わせて、ほっと安堵が流れ込むと同時に、俺の指は吊革から流れ落ちて行った。膝が崩れる。
気づいたら、どこかに寝かされていた。固いベッドだ。目を開けると、白い天井と点滴。横に誰かいると思ったら、薄闇の中に母親が座っていた。
「がんばったのね」
母親がかすかに――本当に少しだけれど――口角をあげた。穏やかな声と、俺の頭を撫でる手つきに、不意に、目の奥が熱くなった。喉が震えた。
「お友達から聞いた。あなたのしたことも、されたことも、全部」
母親が俺の頬を撫でた。痣があるのか、触られるとじくじくと痛んだ。
「母さん」
よどみなく出た言葉に、自分でも少し驚く。
「俺、あの家を出たい。助けてほしい」
熱でもあるんだろうか。助けてほしい、だなんて、今まで死んでも口に出せなかった。プライドが邪魔をした、というのもある。それ以上に、人に助けを求めることが恐ろしかった。
「わかった」と、母親は短く頷き、席を立った。
「これからのことは、伊東とも相談してみる。悪いようにはしない。約束する」
安心したと同時に、俺の意識は深いところに吸い込まれる。
放課後のチャイムが鳴ってから、しばらく。
「あくつー、いるー?」
威勢のいい声と同時に、保健室の扉がノックされる。俺以外に寝ている人はいない。まだふらふらする足で扉を開けに行くと、俺の荷物を分けて持っているまひろとみっきーがいた。
「ったく、無理すんなよなー。心配かけてさ」
「悪かったな。ご苦労さん」
荷物を受け取って、俺は苦笑する。
あれから目まぐるしかった。警察やら児相やら、まひろやらみっきーやらが立て続けに病室に来て、退院まで気の休まる暇がなかった。それからは、母親が親父に話をつけたらしく、俺はひとまず伊東の家から学校に通うことになった。気は進まなかったがあの家にいるよりはマシだ。荷物を運ぶのは、しぶしぶながら姉が手伝ってくれた。
しばらく経つと、母親の名義でアパートを借り、俺は一人で暮らし始めた。高校生での一人暮らしというのはなかなか前例がないらしく、小山あたりがまたぎゃーぎゃーと騒いだけれど、俺の家庭環境を知った担任がとりなして、どうにかそのまま学校に通えそうだった。
バイトは増やした。時折母親から仕送りはあったものの、できるだけ頼りたくなかった。料理もろくにしたことがないし、全てが手探りの生活だったけれど、俺はギリギリのところで生活を保った。担任は頻繁に俺の様子を聞きたがったり、スクールカウンセラーを斡旋してくれたりと、やけに世話を焼きたがった。そのおかげもあって、なんとか生きている。人に甘えることが、あれ以来、少しずつできるようになっていた。
それでも、無理が高じれば身体にガタが来る。体育の授業中、バスケをしている途中で足が動かなくなった。しばらく壁際で休んでいたものの体調が戻らず、大丈夫だと言い張る俺を、まひろとみっきーが無理やり保健室に連行したのだった。
家を出て、劇的に変わることもあるけれど。身体を蝕むものは、すぐに消えてくれるわけではないらしい。家という呪縛から逃れることは簡単じゃない。
保健室で横になっている時、何度も悪夢を見た。それは、あの日起こったことだったり、親父から受けた暴力の記憶だったりした。寝ているのもしんどくて、無駄にごろごろと時間を持て余していたら、やっと放課後のチャイムが鳴ってくれた、という次第。
「もう大丈夫なの?」
「へーき。みっきーこそ部活行かなくていいわけ?」
「今日は顧問の先生の用事で休みなんだ」
珍しいこともあるものだ。ここぞとばかりに俺は切り出した。
「じゃ、今日ちょっと遊んで帰ろうぜ。俺も今日バイトないし」
「まひろくんは? 部活」
「最近暇だからなー、別に行かなくていいっしょ」
「ユウ先輩、寂しがるんじゃねーの?」
まひろを冷やかすと、「うるさいなあ」と肩を強く叩かれた。おい、こっちは病み上がりだぞ、と俺は顔をしかめる。
そのまましばらく立ち話をしていたら、まひろが部屋の奥をのぞいて「おっ」と突然口に出した。
「身長測るやつあんじゃーん、さすが保健室」
まひろがずかずか保健室に入り込んでくる。それから何の流れか、かわるがわる身長を測ることになった。一センチ伸びて喜んでいたまひろだったが、俺が二センチ伸びていると知ると露骨に不機嫌になった。
最後に測ったのはみっきーだった。ごくり、と固唾をのみこんで、真剣そうな表情。
結果一六九.八。
「まだみっきーの呪いは健在だったか……」
「うわあん」と泣きまねをするみっきーを、よしよしとまひろがなだめていた時。
「あんたたち何やってんのっ」
叱責が聞こえ、見ると入り口に養護教諭が立っていた。
「元気ならさっさと帰った、帰った!」
追い立てられるがまま、ばたばたと保健室を出る。誰ともなく笑いだしながら昇降口に向かった。「帰りスタバよろーぜ、おれまだあくつにおごってもらってないもん」「えー、そんな余裕ねえよ」「じゃあ、おれがあくつのぶんおごるから」「なんだよそれ」
校門をくぐる足取りは、少しだけ軽くなった気がする。
二つの鎖 澄田ゆきこ @lakesnow
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