第47話 開錠

「寒いっ」

 と言って、まひろがひとつくしゃみをした。

 二階の奥に近づくほどに、空気が重く冷えていく。寒さは皮膚からじわじわと染み入り、表面から徐々に凍らせていくかのようだった。

 手の先がかじかんできた。薄着にこの寒さは堪える。徐々に口も重くなり、気づけば言葉もなくただ歩いていた。

「荷が重いよなあ……」

 声は白く凍る。「ん?」とまひろがこちらを仰いでくる。

「いや、救えって、そんな大仰なことできんのかなと思って」

 りつ子は不憫だとは思う。どうにかしなければいけないのもわかっている。だけどこっちはたかだか一介の高校生だ。複数人の命運を背負うには、あまりにも非力だ。

「うーん。見方を変えればいいんじゃないかな。僕らは一緒にここを出るんだ」

 りつ子も一緒に、と言うことだろうか。目から鱗が落ちた。

 ――そうだな。

 救ってやろう、なんて上から目線じゃだめだ。上手くいくものも上手くいかない。

 俺はそれから、みっきーに向かって語った。これから予見されること。それから、俺がしようとしていること。



 ドアノブに手をかけた途端、掌が張り付く感触がした。鍵穴から漏れ出る風すら針のように冷たい。一つ息を吸って、手に力を込める。

 ドアの隙間からは、冷凍庫の内側になってしまったような部屋が見えた。絨毯にも壁にも霜が降りている。ベッドの上に一つ、いびつな影が鎮座していた。

 歩を進めるたびに、さくさくと音がする。空気の冷たさは、寒いどころじゃない。痛い。

 影は白いもやで覆われていて、輪郭がつかめない。

「りつ子だ……」

 歯をがちがち言わせながら、まひろが言う。

「……惨いね」

 みっきーの吐いた溜息も、白い靄となって霧散した。

 影の周りには二つの鎖が螺旋状にとぐろを巻いていた。……これを、解くのか。

 緊張に、臓腑がぎゅっと冷たくなる。

 そっと、手の中に石を握りこめる。

 刺すような突風に襲われ、俺は壁に叩きつけられる。がっ、と声にならない声が出た。遠くで聞こえる二人の悲鳴。首をしたたかに押さえつけられ、身動きが取れない。

 手の中の石に必死にすがって、俺はなんとか意識を保つ。おぼつかない仕草で印を組んだ。深く息をすって、吐く。凍てつく空気に、肺が痛む。

「先生を、どこにやったの」

 ぎり、と身体の締め付けられる感触がした。ごき。関節が音を立てる。指がほどけ、手首がねじれる。

「あなたでしょう。あなたが先生をどこかへやったんでしょう?」

 違う、とは言えなかった。痛みに脂汗が浮かんだ。声は声にならず、呻き声だけが喉を掠める。

「先生はどこ!? 晴子は、晴子はどこにいるの!? どうしてみんな、私の前からいなくなってしまうの!?」

 おあぁぁ、と赤ん坊の声がこだまする。ガラスの嵌められた棚がびりびりと音を立て、振動する。天井を叩く音。地震のような地鳴りと振動。霜がいくつも降りてきて、俺の額に落ちる。

「先生は……」

「どうしてみんな、私をひとりにするの!? どうしてこんなひどい目にばかり遭わせるの!?」

 だめだ。俺の言葉は、彼女には届かない。

 まずは彼女を落ち着かせなければ。

 氷の破片が頬を切って、生温かい血が流れた。

 瞼に力が入らない。細い視界の中でみっきーと目が合った。凛とした、覚悟を決めた目をしていた。

「あの子は?」

 みっきーがまひろに尋ねる。

「ベッドの上。泣いてるみたいだ」

 声の端は震えていたが、まひろはしっかりと答えた。

 みっきーが絨毯に膝をつき、ベッドに手を置いた。突風の吹きすさぶ中で、彼がひとつ深呼吸をした。

「りっちゃん」

 彼が優しく呼び掛ける声と同時に、嵐が、にわかに静かになった。

 身体に加わっていた力がほどける。俺は浅い呼吸を繰り返す。手首と肘が熱を持っている。鼓動に合わせて、どくん、と痛んだ。

「……りっちゃんなんだよね。僕、ちゃんと覚えてるよ。忘れてないよ」

 霜が溶ける。ぼた、と雫がベッドに落ちて、灰色の染みになる。

「昔、一緒に遊んだよね。僕のことを助けてくれたよね」

 息をするたびに、背骨が軋む。焦点が合わなくなる。あくつ、と声がして、俺はまひろに抱き起される。

「今度は、僕が助ける番だ。僕ら、助けに来たんだよ。ひどいことをしに来たんじゃない」

 冷え冷えとした沈黙。「先生は……」と、うわごとのようにりつ子が呟く。

 不安なのだろう、と思った。今まで自分を支配していたものが居なくなった。それは解放と同時に、アイデンティティの喪失でもある。

「……先生は、私を見捨てたの? あの時みたいに?」

「それは、違う」

 みっきーが、はっきりとした声色で言った。

「先生は、君が救われることを願ってる。僕たちを、君に会わせるために、あの人は先に行ったんだよ。先生だけじゃない」

 俺は印を組もうとした。無理に動かした手首が痛む。肘から先がうまく動かせない。

 空気がかすかに温度を取り戻した。深く吸った息も、今度はあまり痛くはなかった。

「つらかったよね。こんな場所に、ずっとひとりで閉じ込められて」

 宥めるような声の中に、確かに悲しみがあった。

 この場所に囚われていたのは、何も俺たちだけではない。自分を殺そうとする父親の影におびえながら、彼女はずっとひとりでここにいた。

 いくら渇いても、満たされない。彼女が求めていたものは、ここにはいないのだから。

「だけどもう、こんなところにいる必要はないんだ」

 石が、熱を持っているのが分かる。体温と共鳴するように。

「一緒に家の外に出よう」

 強固な扉を開くイメージ。俺は自分に言い聞かせる。この家の、頑丈そうな、立派な設えの扉。真鍮のノブ。でも、だめだ。動かない。

 その前に、今繋がれている鎖をほどかなければ、彼女は動けない。

「外に、お父様がいるの……」

「うん」

 みっきーが優しく頷く。

「私を、殺そうとする……」

「大丈夫。僕たちが一緒だから」

 彼女はなかなか頷かない。影の中に、逡巡が見える。

「一歩、外に踏み出すだけ。それだけなんだ。それで君は解放される」

「でも、晴子は、晴子はどこにいったの。私、あの子を置いていけない」

「あの子はずっと、僕らのそばにいた。今もここにいる。ここまで案内してくれたんだよ」

 みっきーが優しく微笑んだ。それと同時だった。

 しゃらん。

 聞き慣れた音が響いた。静かで落ち着く、鈴の音。

「わたべさん……!」と、まひろが声を上げ、慌てて押し殺した。

 黒猫はふわりと舞って、次第に影が崩れ、膨らんで、光をまとった人の姿になった。幼い女の子の形に。

「晴、ちゃん……?」

 りつ子の影が、恐る恐る、晴子に手を伸ばす。

「ねえさま」

 晴子がりつ子の背中に手を伸ばし、鎖をそっと解いた。じゃら、と重たい音を立てた二本の鎖が、一瞬、眩しく輝いたあと、消えた。

「晴ちゃん! 今までどこにいたの? 私、わたし、」

「ひとりにしてごめんね」

 晴子がぎゅっとりつ子を抱きしめる。

「もう大丈夫。晴子が一緒だよ」

 わたべさん。異形の世界の中で見た、あの黒猫。いつも俺たちを導くように歩いていた。

 未成熟な霊は動物の形になることがある。伊東から聞いた話を思い出す。

 鎖は解けた。あとは俺がどうにかする番だ。目を閉じ、印を組む。

 家の外に出るのだ。

 自分を縛るものを振りほどいて。

「まずはベッドから降りよう。もうそこに座り込む必要はない。身体からは自由になったんだから」

 怖がるりつ子の手を、みっきーと、晴子が取った。おずおずと地面に足が触れた。

「手を伸ばして。光はもう、すぐそこにある」

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