第46話 女中の回想②
晴子はりつ子の腕の中でぐったりとうなだれていた。りつ子はベッドに座ったまま――それが彼女の可動域の限界だった――晴子の背を懸命に撫でていた。その間にも、時折、小さな手足がかすかに痙攣していた。晴子の吐き戻したものがりつ子の寝巻を汚していた。
「お菓子を食べていて、急に具合が悪くなったの……!」
青ざめ、泣きそうな顔は、いつもの表情のない顔ではなかった。
騒ぎを聞きつけて、屋敷の者たちがぞろぞろと部屋に集まってきていた。その中にはりつ子の両親の姿もあった。
「晴子!」
母親は真っ先に晴子のもとに駆け寄り、りつ子からひったくるように、晴子の身体を抱く。
小さな身体はもう動いていなかった。だらりと垂れた手足が、「晴子ぉ!」と慟哭する母親の腕の中で、力なく揺れていた。
父親の目が女中をぎろりと睨んだ。身体が強張ってしまって声が出なかった。
「あとはこちらでなんとかするから、下がっていなさい。医者を呼んでくる。……お前も、晴子から離れなさい。無理に動かしては障りがあるだろう」
泣き崩れていた母親は、父親に引き剥がされ、しぶしぶ立ち上がった。
退散する刹那、父親が物陰で女中を呼び止める。こちらに来なさい、と別の部屋に連れ込まれ、ドアを閉じた瞬間、張り手が彼女の頬を打った。
「なぜ晴子が倒れた!」
「台所に来て、自分で運びたい、とおっしゃって……一緒に食べたいからと……」
「お前は女中の仕事を晴子にやらせたのか! それで給金を貰って、心が痛まないか? 意地汚い」
「違うのです、晴子様が、」
「罪まで晴子に擦り付けるか! あんな目に遭わせておきながら! もういい、お前を信用した私が馬鹿だった」
役立たずが、と吐き捨てる声を、女中は黙って耐える。心無いことを言われるのには慣れている。仕事に慣れない頃は何度も罵られた。それでも涙は眼のふちまでこみ上げた。
申し訳ありません、と頭を下げる。彼女をもっとも凍りつかせたのは、去り際に吐かれた言葉だった。
「そんなに働くのが嫌なら、荷物をまとめて故郷に帰りなさい」
「いいえ、旦那様! それだけは、どうか!」
縋りつく女中を蹴り払い、父親は部屋を後にする。
仕事を馘(くび)にされる。そうすれば家族全員が路頭に迷う。これ以上怖いことはないだろうと思ったのに、想像をはるかに絶する恐ろしい景色が、その後の彼女を待っていた。
女中はしばらくその場から動けなかった。今になって、とんでもないことをした、という罪の意識が芽生えてきていた。動悸で立ち上がることができなかった。どうかこれ以上、恐ろしいことが起きませんように。祈るような気持ちで座り込んでいた時、遠くの方から、足音がした。勇むような足音は父親のものに違いなかった。
女中は扉の影から恐る恐る廊下を覗いた。手に持っている斧が見えた瞬間、女中は思わず声を上げそうになった。最初は自分が折檻をされるのかと思った。次に、あれでりつ子を殺すつもりだと思い至った。自分が手を下し損なったから、自ら手を汚すつもりなのだと。
歯の根が合わない。震えを押し殺そうと噛みしめようとしても、がちがちと音が鳴ってしまう。それがたまらなく怖かった。手で口元を抑えながら、女中は影が通り過ぎるのをじっと待つ。幸い、父親は女中に気づいた様子はなかった。
少しでもその場から離れたかった。反対側の扉から出て、女中は自分の持ち場である台所へと駆け足で戻った。
「お父様!」
いつかとよく似た、けれどもっと切実な悲鳴が、背後で聞こえた。
悲しみと後悔がどっと喉元まで押し寄せる。
何か、怒鳴る声がする。ひときわ大きな悲鳴のあとに、がきん、と金属同士のぶつかる音がした。
女中は足を速めた。急いで台所に駆け込み、たまらずしゃがみ込んだ。涙はひとりでに溢れてきた。遠くで聞こえていた物音や声にじっと耳を塞ぐ。どのくらいそうしていただろう。足音が近づいてきて、台所の扉が開いた。旦那様、と顔を上げたが、目に飛び込んだのは、血で真っ赤に染まったりつ子の姿だった。
「お嬢様……」
口をついて出たのは、晴子が生まれるより前の、慣れ親しんだ呼び方だった。ひどい怪我だ、と最初は思った。近づいてくるりつ子の足取りは、ふらふらと覚束なかったから。
けれど、違う、と気づく。りつ子は血まみれだが、刃物で切られた跡がない。細い首に吊り下がる、断ち切られた鎖。斧の痕跡を思わせるものは、それしかなかった。
――なぜ、旦那様はこちらに来ないのだろう。なぜ、りつ子様がこちらにいるのだろう。
どうして屋敷は、こんなに静かなのだろう。
「お父様は私を殺そうとしたの?」
「いえ、決して、そんなことは……」
取り繕う言葉が咄嗟に出る。震えが再び呼び覚まされていた。
りつ子の目からは、再び表情が消えていた。
「ならどうして、斧をもって私のところに来たの? どうして晴子は、私のお菓子に手を付けて、死んでしまったの?」
静かに問いかける声。首を横に振ることしかできない。
同時に、その声はひどく懐かしかった。王女さまはどうして亡くなってしまったのかしら。王女さまはどんな子だったのかしら。ピアノの前に腰かけながらそう問いかけるときの、穏やかで物憂げな声音と、それは似ていた。「なんでこんな暗い曲を。もっと楽しい曲を弾けばいいのに」と母親から諫められたときに、「少し悲しくて静かなところが好きなの」と言った時の切なげな微笑に似ていた。平和だった頃にはよく見た光景。平穏の象徴。
平和はもう、遠くに奪い去られてしまったのに。
「ねえ、私のことが好き?」
「もちろんですとも……!」
必死におもねってしまうのは、ひとえに恐怖から逃れたいからだった。こうすることでしか、彼女は生きていけなかった。少女に対する好感も、かつては、決して嘘ではなかった。
「でも、毒を盛ったのは、あなたなのでしょう?」
りつ子の目は虚ろで、どこまでも冷たい。
「あれは、旦那様が……」
「そう。やっぱり、嘘をついていたのね」
どうしてかしら、と少女は問う。
「あの人も、お父様も、お母様も。私のことを愛していると言ってくれた人は、みんな嘘をつくの」
声は冴え冴えとしていて、まるで抑揚がなかった。責める色すら感じさせないことが、ひどく不気味だった。
身体の内側で、骨の砕ける音がした。許しを請う言葉は、悲鳴に呑み込まれて、声にならなかった。電流のような痛みが、絶えず身体を貫き、頭を掻きまわす。視界が乱れる。吐き気がする。こらえきれなくなった途端、口からどばっと鮮血が溢れた。
身体が床にぶつかる。麻袋を倒したような、鈍い音がする。
「……どうして、晴子は死ななければならなかったの」
最期に聞いた声だけが、わずかに、悲しみを帯びていた。
「りつ子様はその日、屋敷の者すべてを殺してしまわれたのだと思います」
すべてを悟ったのは、女中がこの屋敷で目を覚ましてからだった。最初はひどい恐怖と錯乱だけがあった。痛みを思い出すだけで我を失い、出しそこなった悲鳴が喉をついて止まなかった。出すものを出して落ち着いてしまうと、まず目に入ったのは、無残な肉塊になった自分の姿だった。屋敷の中に生きている人間の姿は残っていなかった。――りつ子も含めて。
りつ子は自室で、晴子が残したクッキーのかけらを飲み込んで死んでいた。
苦しい最期だったのだろう。周りには吐物が散り、カーペットには強く抉られたひっかき傷が残っていた。りつ子様、と女中が抱き上げようとした時、首筋のあたりに刺さる視線があった。
禍々しく姿を変えた黒い影。華奢な体躯と長い髪の輪郭から、かろうじてりつ子であるとわかった。
女中はその時、息ができなかった、という。息をする肉体などなくても、文字通りに凍り付いた感覚があった。ここに居てはいけない、取り込まれる。女中は逃げ出し、台所の奥で息を潜めた。
そして数えきれないほどの月日が経った。
「お願いです」女中は懇願する。「どうかりつ子様をお救いくださいまし。それしかもう、私たちが救われる道はないのです」
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