第11話 校舎

 俺たちは荷物を背負って教室を出た。教室に残った荷物の主は、戻ってくる気配がない。いちいち気にして消耗しては元も子もない。ざわつく気持ちを宥めながら、廊下を歩く。教科書や筆記用具の入った鞄の重さが、いつもよりもずっしりと肩にのしかかる。

 どの教室を覗いても、人っ子一人いないのは変わらなかった。ついさっきまで人がいた様子はあるのに、どこにも生徒の姿がない。それどころか職員室まで無人だった。パソコンは開きっぱなしで、煌々と光っているものもある。飲みかけのマグカップもデスクに残ったまま。テスト直前だというのに、印刷機が使われる音はしない。

 ……ひょっとしてテスト問題見放題なのでは?

 邪念が頭をよぎった矢先、「阿久津くん、へんなこと考えちゃだめだよ」とみっきーに釘を刺される。

「考えてねーわ」

 ぶすっと言い返しながら、いつもの軽口に、わずかに空気がゆるむ。

 とはいえ、どこか異質な感覚は、ずっと身体から抜けなかった。何かがおかしいのに、わかるのは「おかしい」ということだけ。見慣れたはずの景色が、全部どこかしら嘘くさい。疑ってかかろうとするとすべてが怪しく見える。こんなに薄暗かったっけ、とか、こんなところに染みなんてあったっけ、とか。

「ドラえもんの道具にさ」

 三人分の足音だけが響き渡る中。まひろが口火を切った。

「こういうの、あったよね。なんもない世界に入り込むやつ」

 あったような、なかったような。首をひねる俺に、まひろはやけに丁寧に説明してくれる。しゃべっていないと不安なのかもしれない。

 なんとか鏡。鏡写しにそっくりな世界に入ることができる。鏡写しなだけに文字や景色は反転しているが、それ以外は現実世界と一緒。そこには人も動物もいない。

「確かに、そんな感じだなあ……」

 みっきーがしみじみと周囲を見渡した。「なんというか、いつもの世界じゃないみたいだ」

 そう言うとどこか幻想的だが、実態はもっとまがまがしくて嫌な感じだ。どこも薄暗いし、空気が重苦しい。俺が連想したのはドラえもんのそれより、テレビか何かで見た都市伝説だった。村丸ごとが、つい先ほどまで人がいた気配を残しながら、突然無人になった。食卓には食べかけの料理まで残っていた、という。

 昇降口までの道のりがやけに長く感じた。すれ違う人影も、誰かの気配も、何一つ残っていなかった。玄関はぴったりと閉ざされている。本当に施錠された後みたいだ。上靴のまま扉に近づき、手をかける。

 扉はぴくりともしない。

 鍵がかかっている、というのとも違う。施錠されていたとしても、鍵穴と錠の隙間があるから、がたがた、という程度には扉は動くはずだ。その程度の遊びすら、扉にはない。まるで壁になってしまったような。

「どう……?」とみっきー。

「開かない。……というか動かない」

 職員玄関も同じだった。いつもは開いている場所がきっちりと締め切られている。扉も動かない。なのに靴箱を確認すると、まだ外履き用の靴はちゃんと入っていたり。業者の運んできた教材と台車が、まだそのままになっていたり。

 時間感覚を計れるものがない。けど外は少しずつ暗くなっている。赤い西日の色が少しずつ濃くなっていく。いつもは綺麗だと思うその色が、今ばかりは毒々しく、不吉だった。

 焦りがじりじりと俺たちを焼く。

「もーなんだよこれえ」

 まひろがへたりと座り込んだ。

「おれたち帰れないの?」

「さあな」

 常識じゃ測れないことは、少なくとも起こっている。

 薄暗さはどんどん静寂を重くする。

「大丈夫だよ、きっと」

 みっきーがまひろの隣に座る。寄り添うみたいに。

 そのまま会話の種火が消える。

 扉は何度手をかけてもびくともしなかった。ダメもとで蹴り飛ばしてみたが、派手な音こそすれ、扉は無傷。窓も鍵すら開けられない始末だった。手近なものを投げて割ろうとしても、余韻だけが虚しく校舎に反響する。

 二人とも顔色が芳しくなかった。かくいう俺も、窓ガラスに反射した顔がぐったりしていた。汗が冷えたような寒さがずっと続いている。喉渇いたな、とふと自覚すると、それも頭を離れてくれなくなる。緊張のせいだろうか、口の中がいつの間にか渇ききっている。

 薄く、意識がのばされていく。

 その時。

 どっ、と突然の縦揺れが、思考を遮った。俺は咄嗟に壁に手をつく。

「地震……?」

 唸るような、かすかな振動が続く。大きな地震の前触れに似ている。初期微動、だっけ。本震めいたものは訪れず、細かい揺れが続くのが気持ち悪い。目の前のガラス棚が、中の盾や賞状ごとかたかた揺れる。

 途端、天井からばたばたと足音がした。まひろがみっきーにしがみつく。子供の足音みたいな軽い音。一つじゃない。どん、とガラスや壁を叩く音。ひそひそ、くすくすと笑う声が、耳の際を薄く撫でる。意味ないよ。女の子のさえずるような声。す、と首筋が冷たくなる。

 みしり、と何かがきしむ音がした。

 なんだ?

 ――ガラス?

 視線を向けた時には、無色透明なガラスの上に、白色の線が浮かんでいた。今にもはじけそうに。

 え、

 これ

「阿久津くん!」

 みっきーの悲鳴と同時に、ガラスの砕け散る音がした。


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