第12話 保健室
少しオチていたらしい。
あくつ、という声で意識が引き戻される。寄りかかっていた壁から身を離すと、細かい破片がぱらぱらと落ちた。鈍い痛みはあったが、服が守ってくれたのだろう、たいした怪我はなさそうだ。
「あくつ、大丈夫?」
ああ、という声に吐息が混じる。物音は止んで、不気味なほどの静けさが戻りつつある。
俺は頭や肩についたガラスを強引に手で払う。破片は大きいもので二センチほど。刺さるようなことは幸いなかったわけだが、目に見えないほど小さな破片の感触が気持ち悪い。落ち着いてくると、ちりちりとした熱さをあちこちで感じた。細かい切り傷ができているのかもしれない。眼鏡をかけていてよかった。
「手当、しなくていい?」まひろの唇に色がない。
「このくらい平気」
Yシャツを脱ぐ間にも、細かい破片が落ちる。背中のあたりに引っかかっていた小ぶりな欠片を払い落とそうとしたとき、す、と指の上を先端が滑った。痛痒い感触。嫌な予感がした。第一関節から三センチほど、斜めに線ができている。うっすら血がにじみ、遅れてずきんと痛みが脈打つ。
急いでシャツに袖を通した。ボタンをしめようとする度に、鋭い痛みが走った。片手でボタンをしながら確認すると、傷口からぷくりと盛り上がった血が、外に垂れていこうとしているところだった。傷はたぶん想像より深い。右手の人差し指。よりによって利き手の一番使う指だ。
「あーもう、怪我してんじゃん、バカ」
大げさな、と抵抗したものの、みっきーまでが連れ立って俺を保健室に連行した。妙にちゃきちゃきとした足取りは、何かから目を背けたがっているように見えた。
――さっき起こった、何か。
今までよりも明らかに強烈だった。子供の足音と笑い声は、悪戯でもしているように愉快そうだった。無邪気だけど、悪質だ。
まひろはてきぱきと救急箱を出し、俺の手に消毒をして、ガーゼを当てた。「しばらく抑えといて」と言って、ごそごそと中身を探る。じわりと血の染みる感覚がした。その間にみっきーが見よう見まねで顔の傷を消毒してくれた。消毒液のしみる痛みが、これは夢じゃないんだといちいち思い知らせてくる。
「……万一このままでも、寝れる場所はあるのか」
無人のベッドを見ていると、そんな言葉が口をついた。「やめてよお」まひろが渋い顔をして、箱から包帯を出す。
「ここ、なんか嫌ぁな感じがするじゃん」
「ずっとしてるけどな」
「それとこれとは違うの。校舎全体が変だけど、保健室は特に変なんだって」
「……ちょっとわかる」と言ったのは、みっきーだ。
「うまく言葉にできないけど。他の場所とは扱いが違う感じ。思い入れが強いのかな」
「誰の?」
「誰だろう……」
うーん、みっきーは考え込んでしまう。俺は首をひねるしかない。
こと手当になると、まひろはやけに手際がよかった。
あっという間に指がぐるぐる巻きにされた。「わー中二病っぽーい」と茶化される。
「まだ痛む?」
みっきーは自分が痛がっているみたいな顔をしている。
「いや……だいぶ落ち着いてきた」
頭に上っていた血も抜けたのだろうか。まだ胸がざわつく感じは残っているものの、どこか冷静さを取り戻せつつある――気がする。
にしても、薄暗い校舎、特に保健室というのは雰囲気がある。まひろたちが感化されるのもわからなくはない。人気がないと特に、影の落ちたカーテンやベッドは思わせぶりなものに見える。思えば保健室は、学校の怪談でも定番スポットだ。何番目のベッドに、いるはずのない先客がいる、とか。
とりあえず状況を整理した方がよさそうだ。話を切り出そうとすると、
びた、と音がした。
聞き覚えのある音だった。粘度の高い液体が重たげに落ちる音。
「ねえ、今……」
みっきーが何か言いかけるが、俺の背後を見つめたきり、呆然とする。俺はみっきーの視線を追いかけた。天井に黒々とついた染みから、重力に耐え切れなくなった雫が、糸を引いて落ちる。
風呂場で見たものとよく似ている。
遅れて、胸の悪くなるにおいがした。膿みたいなにおい、とまひろが鼻筋に皺を寄せる。
「……化け物」
ぼそり、とみっきーが呟く。抑揚のない声。
「来るな、化け物……って、叫びながら、逃げてる……必死に走って、何度も後ろを」
「みっきー?」
焦点が合っていない。口だけがひとりでに動いているように見える。
「怖いんだ、すごく。怯えてる。……暗い……地下? 足がもつれて、転んで、機材が床に……なんだろう、重そうな。カメラ? 足が、ねじれて……ひねった……違う、ひとりでに、」
「ちょ、勘弁してよお」
まひろが俺の腕に取りすがってくる。直後、上ずった声をあげた。「そこ、女の子いる」痛いほどに腕をつかまれる。え、と目を向けた視界の隅を、何かが横切る。影、としか言いようのない、捉えどころのない何か。目を凝らしてもベッドは無人だった。「本当にいたんだって」とまひろが泣きそうな顔をする。その間もみっきーはうわごとのように何かを口走っている。
「おい」
肩を揺すると、みっきーがびくりと身を震わせた。しん、と静かになる。俺をこわごわと見上げる目は、気弱そうで柔和そうな、いつものみっきーに戻っていた。
「何、見てた、今」
「わかんない……」
ひどい顔色だ。
「わかんないって……」
「流れ込んできたんだ。映像とも違う。もっと生々しい……不安、恐怖、焦り……そういう感情が一番強い。まだ残ってる……。心臓が、ドキドキして」
舌がもつれそうだ。混乱が抜けていないらしい。
「深呼吸」
言われるがまま、みっきーは不器用に息を吐く。呼気の端が震えているのがわかる。しばらくして呼吸は落ち着いたが、顔にはうっすら汗をかいていて、ひどく寒そうだった。
若い男の人だ、とみっきーは言った。たぶん二十代くらい。化け物、と言いながら、何かから死にものぐるいで逃げている。早く出たくてたまらないのに、走っても走っても入り口が近づかない。
同時に、まったく別の誰かの悲しみも、焼け付くように強かったという。
「悲しくてたまらないんだ。それと、寂しい。化け物、って言われて、何度もひどい目にあった。友達にもいじめられて……そうか、だから保健室なんだ」
みっきーは一人で合点する。
「駆け込み寺だったんだ、きっと。ここに来れば、先生は優しくしてくれるから……」
ふらり、とみっきーの身体が崩れそうになった。慌てて肩を支える。
「とにかくここを出よう。立てるか?」
みっきーは力なく頷く。車酔いでもしたみたいな、今にも吐きそうな様子。たたでさえここは空気が悪い。天井の染みの下にはいつの間にか血だまりができていて、床の継ぎ目に沿って線を作っていた。俺たちは足早にドアの外に向かった。保健室から出ても、生臭さは長いこと鼻腔に残り続けた。
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