第34話 観覧車
不意に意識が戻る。水面から引き揚げられるように。
身体の感覚が戻った途端、俺は激しく咳き込んだ。喉を抑えてももう何もない。けれど、何か、大きな塊が、呼吸を妨げている気がした。
咳をしすぎて腹筋と背中が痛い。しばらくして呼吸が落ち着いてくる。視界が少しずつ明瞭になっていく。
俺は固いものに座っている。カーブがかったガラス。目の痛くなるようなビビッドな黄色。
はめ殺された窓の向こうに、高くなっていく景色が見える。
「やあ。目が覚めたかい」
風音がして、視界がぐらりと揺れる。
――観覧車か。
慌てて扉に手をかけようとしたが、がたがたと遊ぶばかりで開かない。そうしている間にも、地面が遠くなっていく。物理的に出られない距離が、すでに開きつつあった。
密室。ゴンドラの中に、俺と、着ぐるみが二人。部屋を圧迫する大きな頭が、じっとこちらを見ている。
そうだ。俺はこいつに追いかけられて、何かに首を絞められて……変な夢を見た。夢、というにはあまりに生々しくて、明瞭だったけれど。
表情のない丸い目が、つるりと俺を映している。
「そう警戒しなくても、君に危害を加えたりはしないよ」
白々しい。
「……こっちは殺されかけたんだけど」
話すとまだ喉に違和感がある。座りなおした膝を、ぎゅっと握りこむ。
「少々手荒なことをしまったのは謝るよ。けど殺したりはしない。そうしてここに留まっても、恨みと苦しみを持っただけのモノになってしまうから……」
自販機から覗いた顔を、俺は思い出す。ではあれは、やはり……
見てごらん、と着ぐるみが窓の外を示す。
……高いところは苦手だ。特にこういう密室の中では。嫌でも自分が落ちていくところを想像してしまう。底が抜けていくような感覚に苛まれる。こうしている間にも、ぐわんぐわんと響く機械の振動が、高いところに上っているのだと否応なく知らせてくる。
忌避感を悟られないように、俺は目だけをそちらに向ける。
まず目に入ったのは、頭、だった。
たくさんの黒い頭。楽しそうに、無邪気に話す顔。踊るような足取り。列に並んだいくつもの人影。ひとつひとつが小さくなっていくほどに、その多さが嫌でも見て取れる。まるで、群をなした虫のようで――
まひろが言っていたのはこれだったのか、と腑に落ちる。
「あの子たちも君とよく似ていた」
地面はどんどん遠ざかる。目をそらしても、その感覚が抜けない。
身体は強張るのに、足から力が抜けていく。
べたついた汗が滲む。
「この世のどこにも逃げ場がない。子供の世界はほとんど学校と家だけ。どちらかが転んでも、もう片方が受け止めてくれればまだいいけれど、どちらも性質として機能不全に陥りやすい。大人が子供を支配する――そういう構図が正当化されるのが、あの場所だから」
帰りたくないんでしょう、と声が甘く囁いた。
「昔から、そういう子はわかるんだ」
ぬっ、と着ぐるみが近づいてくる。後ずさろうとしても、逃げ場がない。ごわついた手が、そっと、何かを手の甲に置いた。包装紙に包まれた棒付きの飴だった。透明のビニールが、半透明の紫色をぴっちりとパッキングしている。いかにもピエロか何かが遊園地で配っていそうな、棒の繊維が口に残りそうな平たい飴だ。
――帰らなくていいんだよ、って甘い声がする。男の人の声だ。
――飴を差し出される。
なるほど、文字通りの甘い誘惑だ。
「安心して、虫なんて入ってないから」
着ぐるみはくつくつと笑う。冗談のつもりだろうが、無性に癪に障る。
「……あんたはこうやって『観客』を増やしてきたのか」
「察しがいいね」
「何のために?」
着ぐるみは何も答えない。代わりに、「君はきっと、賢い子なんだろうね」と、はぐらかすように言われる。褒められている気はしない。何度となく聞いた皮肉めいたニュアンスが、確かにその中にある。
「……周りの大人は、君のことを理解してくれている?」
さあ、と俺は返事を濁す。
教師。親。
浮かぶ顔はどれも威圧するものばかりで。
答えはわかりきっているのに、見ないふりをする。
これは俺を誘うための罠だ。わかっていてかかる奴がどこにいる?
「家に帰りたい?」
濁すことは簡単だったはずなのに。無言を貫くことしか、俺はできなかった。
はは、と乾いた笑い声が耳をつく。
「どうしたの? 身体が強張っている」
ぎり、と奥歯が音を立てた。
大人だから。そうやって権力を振りかざしてくる奴も嫌いだけど、それは「あいつはバカだから」と笑い飛ばせる。心中で見下して嘲っていれば胸がすく。
一番嫌いなのは、こういう、理解者ぶったことを言ってくる奴だ。ずかずかとテリトリーに踏み込んでくる無神経さは同じだ。感謝や見返りを求めたり、一方的にマウントをとってきたり、下心がある分、こちらの方がずっと質が悪い。
君は早熟なんだね、と着ぐるみが言った。
「その辺りの大概の大人たちよりも、きっと。だから彼らが稚拙に見える」
ゴンドラはゆっくりと上っていく。
「周りの人間が馬鹿に見えて仕方ない――けれど君は、彼らに隷従するしかない。理不尽なことがあっても涙を呑むしかない。納得がいかなくても、彼らの方に分があり、従う方が賢いと教えられる。子供だから。生きる力がないから。大人に依存して生活するしかないから。結局は権力に服従するしかない。良心のある人たちも、結局は彼らの肩を持って、見て見ぬふりをする。縛られたまま、どこにも逃げられない……」
だけどね、と声はとうとうと告げる。
「僕なら、君を救ってあげられるよ」
透明なビニールの奥、透き通った色の飴の中に、ぷつぷつと気泡が見える。
これを口に放り込めば、あの場所からは解放される。
俺はゆっくりと棒を手に取った。
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