第35話 飴
「っざけんな」
飴は着ぐるみの顔に当たり、小さな音を立てて床に落ちる。
「あそこから解放されたとして――今度はお前に支配されるだけだろうが」
ほう、と目が細まった気がした。貼り付けられた表情は変わらないはずなのに。
「じゃあこうしよう。君がそれを食べたら、あの子たちを解放してあげる」
「は?」
「あの子たちが君を必死に探していたのは本当だよ。怖いだろうに、ミラーハウスの中まで足を延ばして――それも本当。君の見たあれは、真実も確かに混ざっている。あの時彼らはあの場所にいたんだ。生首、にはなっていないけれど」
「……ちゃんと生きてる?」
一瞬、胸を撫でおろす。
「ええ。いい友達だね。彼らは善良で純粋だ。――君と違って、帰るべき家にも、ちゃんと居場所がある」
「……だからって、俺が犠牲になる道理はない」
「そうだろうか?」
予想外の言葉を投げかけられて、思考が止まる。
「君たちがここに来たのは、君のせいでもあるのに?」
「……なんだよそれ」
「学校でも、電車でも……どうしてあのタイミングだったのか、考えたことはなかった? 君は賢いんだろう? なら考えればすぐにわかるはずだ」
あからさまな挑発。簡単に腹が立つのだから俺も単純だ。
学校。三人で馬鹿話をしながらテスト勉強をしていた。話していたのはどうってことない話題ばかりだ。テストへの不満とか、いつも通りの親の愚痴とか。
電車。オープンキャンパスの帰りだ。……今日のはずなのに、思い返すと遠いことのように思える。家を出るときに親父に殴られたばかりだった。みっきーとまひろがいたく俺を心配していた。帰路をまっすぐ進む電車の中で、帰らなくてはならないことが、たまらなく憂鬱だった。
「君の友達はとても優しいようだから」
一度目も、二度目も、俺の家は荒れっぱなしで、あんな暴君じみた親父とうまくやりあえるわけがなくて、出口の見えない不安にイライラして、
「他の人の感情も、自分のことのように汲み取ってしまうんだろうね」
家に帰るのが億劫で、けれど帰る場所が他にないことも分かっていて、やるせなくて、
「人の負の感情には大きな隙がある……」
今日はいったい何が親父の機嫌を損ねるのか、あの家に帰って何が待っているのか、表面化しないようにしながらも、奥底でそんなことばかりを考えて、無意識の底で怯えて――
「……なるほど」
つまりこれは、俺の感情に引っ張られたせいなのか?
俺があんなことを言わなければ、思っていても口に出さなければ、こんなことは起こらなかった?
「わかったんだろう? 隙を作ったのは君だ」
「……ああ。よーくわかったよ」
そう、と優しい声が頷く。
俺は足先で飴を弄ぶ。
飴は案外脆く、少し力をこめるだけで、足の下で砕ける。
「最初は救済を装って、それに乗らなければ罪悪感を煽って脅す――それがあんたのやり口なんだな、先生」
答えない。
これはイエスなのか、ノーなのか。
「りつ子もそうやって誑かしたのか?」
ふっ、と笑い声が弾けた。
それは呼び水だった。火をつけた鼠花火が、一つの火花を皮切りに、暴れまわりながら爆ぜるように。凶暴でヒステリックな笑い声が、狭いゴンドラの中に反響した。
狂人の笑いだ。
思い出したのは、親父の獣じみた叫び声だった。
着ぐるみはひとしきり笑って、急に静かになる。不穏な沈黙。それから、虚脱したように溜息をつく。
雰囲気がいっそう険悪なものに変わった。
逃げ場なんてどこにもない。出口は閉ざされ、地上からは隔離されている。
なら俺の選択肢は一つだ。いささか賭けではあるが。
――出口をこじ開ける。
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