第33話 少女

 気づくと俺は固いベッドの上にいる。

 昼間の視界に目がくらむ。木枠の窓。乳白色のカーテン。つんと鼻をつく薬のにおい。目を閉じようとすると、大丈夫だよ、と声がした。聞いたことのある声だ。

 目の前に、覆いかぶさるように、男がいる。

 顔を見ようとしても、逆光で人相が伺えない。身をよじろうとした途端、身体の中心を疼痛が貫く。内臓がせりあがりそうな圧迫感。押しあがってきた声を殺す。杭が打ち込まれているみたいに、ひときわ鋭い痛みが、足の間にある。

 ――これって

 俺は吐きそうになる。痛みを伴いながら、どろ、と尻に何かが流れる。生々しいほどの血の感触だ。ず、と内臓が摩擦に引っ張られる。引きちぎられそうな痛みが走る。胸に酸素が入っていかない。苦しくてたまらないのに、手が、首が、押さえつけられて動けない。う、と嗚咽が漏れた。その声に、違和感がある。自分の声じゃない。

 力で適わないことはとうに悟っていた。首に当てられた手が、親指ですっと喉の真ん中を撫でた。男はみつあみを(――みつあみ?)指でするりと解く。ボタンが外される。

 いや、と喉から出た声は、か細い女の子の声だ。

「すぐに、よくなる。大丈夫。人間はそういう風にできてるんだから」

 声が上気しているのがことさら気持ち悪い。

 いや、先生。目に涙をためながら、身体が首をふるふると振る。男の体に手を伸ばす。折れそうな細い腕が、襟にすがる。許しを請うように。すべすべとした小さな手。見慣れた自分の身体とは、やはり、何もかも違う。

 これは初めてではないことを、俺は知っている。阿久津尚としての自分の記憶ではない。けれど確かに、身体の主は覚えている。優しく話を聞いてくれた、唯一の味方だった彼が、人気のない場所でこの身体に何をしたのか。最初は身体を触られるだけだった。膨らみかけた胸を。用を足す以外には外で絶対に露わにすることのない場所を。それから、手を導かれて、まがまがしく変形した男の身体の一部を、触らされるだけだった。

 これがどんな意味を持つ行為なのか、この子はちゃんと知らない。けれどそれが、ひどく恐ろしいことだというのは、本能的にわかっている。大人に怒られる。折檻される。そういう類の不道徳なものだと。清らかさに、己の尊厳に、普段自分に言い聞かせられる善に泥を塗るものだと。

 ――殺せ。

 ――嫌だ。殺せない。

 衝動に躊躇うのは、それでもなお、少女にこの男を好いていたい気持ちがあるからだ。精神の唯一の安寧だった人を、壊すことなどできない。だから彼女は断れなかった。殺せなかった。もしそうすれば、彼女の味方はどこにもいなくなってしまうから。

 自分の内側で、自分ではない何かが脈打つ。そのたびに侵食されていくようで、自分を戒めていた道徳に、少女はひどく怯える。自分の世界を拒否するように、強く、目を閉じて、



「馬鹿野郎!」

 強く頬を打たれて、俺は床に倒れこむ。古いじゅうたんの感触。テーブルの脚に頭をぶつけそうになる。

 古めかしい柱時計。そのガラスに顔が映る。幸の薄そうな、泣きそうな顔。乱れた長い髪が顔にかかっている。

「どこで引っ掛けてきやがった、この淫売が!」

 ドスの利いた、濁声。旦那様、と誰かが制止する声も意味をなさず、固い靴底が腹を蹴る。ぎゃっ、と思わず腹を抑えた。何かを守るように。

 ――何か。婚前の少女にとって、犯罪よりもずっと罪深いものだったものの象徴。

 腹の固い感触の向こう、何よりもやわらかく儚い何かを、少女はぐっと手で包む。

「犬畜生以下だ! お前なんて、人間じゃねえ!」

 猛り狂う勢いは止まらない。憤りはそのまま暴力に変わる。それでもなお、身体は腹を守ろうとする。手を当てながら。

「あなた、やめてください! お願い!」

 守ろうとした女は簡単に跳ね飛ばされた。――母親、だろうか。

 みつあみを掴まれて、こっちに来い、と引きずられた。身体はろくに動かないのに、強引に引っ張られる。頭皮がちぎれそうに痛い。嫌、あそこは嫌、と喚くのに、「旦那様」と呼ばれた男は急に静かになって、口もきいてくれない。

 ごめんなさいお父様許してごめんなさい

 口は勝手に許しを請い続ける。


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