第四章 遊園地
第26話 オープンキャンパス
待ち合わせには結局遅れた。俺の姿を見るなり、二人の顔が心なしかこわばった。
頬の内側がぼんやりと熱かった。
「悪い、遅れた」
たったそれだけの言葉をしぼり出すのに、長い時間がかかった。
「カツアゲでもされた?」
冗談めかしてはいるが、まひろの表情は固い。
心配されているのだろうな、と思う。それがひどく情けないことのような気がしてくる。
別に。なんでもない。言葉にするのは簡単なはずなのに、声にできない。適当にはぐらかせばいいと思っていても、けだるい毒が体中に充満していて、口が重かった。
「何かあったんだよね?」
みっきーのまっすぐな目が痛い。
「まあな」
「お父さん?」
「そんなとこ」
みっきーは俺よりずっと心痛そうな顔をしている。それはどこか、彼の純粋さの体現みたいに見えた。俺には持ちえなかったものだ。まともに愛された奴の特権。
「とりあえず大丈夫だから。行こうぜ」
話を強引に断ち切る。
二人はどこか納得いかない様子だったが、俺が改札に向かって歩き出すと、何も言わずに後をついてきた。
ICカードにチャージをして、改札を抜ける。一日はまだ始まったばかりなのに、帰りたくない気持ちは破裂しそうなほど膨らんでいる。
出口が見えないとはこういうことか。自分の感覚のうちに、初めてちゃんと理解できた気がした。それはたぶん、深海に沈むのに似ている。痛いほど苦しいのに、足掻いても足掻いても、どこにも手が届かない。この状況からどうすれば脱せるのかわからない。どこにも光が差さない。息ができない。
そこにあるのは深い絶望だけだ。
「あのね、阿久津くん」
電車をホームで待っている時。横にいるみっきーが、遠くを眺めたまま言った。
「阿久津くんは、僕のことを真剣に考えて、助けようとしてくれたよね」
快速の電車が通り過ぎていく。吹き抜けた風に、みっきーの柔らかな髪が揺れる。
そんなにきれいな気持ちだったわけじゃない、と思う。そう弁解しようとする前に、みっきーは言葉を続けた。
「僕も同じように、阿久津くんがつらい状況にあるなら、力になりたいと思ってるんだよ」
かといって、彼に何ができるのか。
俺は甘い期待を必死に打ち消そうとする。そうしないと怖かったのかもしれない。
「吐けるならちゃっちゃと吐き出しちゃえば? 少しは楽になるかもよ」
まひろまでらしくないことを言う。
二人にこんなことを言わせるほどに、俺は辛気くさい顔をしていたのか。
平気なふりだけは得意だと思っていたけれど、どうやらそれも過大評価だったらしい。参ったな、と思う。甘えてる、甘えるなという批判的な刷り込みのおかげで、人にどうやって寄りかかったらいいのか、まるでわからなかった。
ひとつ深呼吸をする。電車が駅に滑り込んでくる。吐き出される人の群れ。のろのろと電車に乗り込んで、窓際の吊革にぶら下がりながら、俺は言葉を探す。
話はひとりでに笑い話の体を取った。こんなことがあってさ、やってらんないよな。へらへら笑って、意図的に深刻さを取り除いて、おどけて、やっと俺は平常心を保っていられた。話している間も緊張は身体から抜けなかった。吊革を握る手の中に、冷えた汗がまとわりついていた。
リアクションはおおむね予想通りだった。みっきーは相変わらず自分が傷つけられているみたいな顔をしていた。まひろは「は? マジありえねー」「うっわカスじゃん」と大袈裟なほどいちいち腹を立てていた。言葉の過激さが今は痛快で、ほんの少しだけ救われるような気がした。同時に、俺への否定の言葉がないことに、自分でも驚くほど安堵していた。
「わけわかんねーよなあ」
吊革にもたれると、ぎし、と皮の軋む音がした。
「本当に。災難だったね」
やけに優しい声にどこか揺らぎそうになる。まあ慣れてるけど、と俺はまたかっこつけようとする。平静を繕うだけでキャパがあふれそうになっている。
「つーか普通に警察案件じゃないの? 首絞められたとかシャレになんないでしょ」
「かもな」
「なんだよそんな他人事みたいにさあ」
まひろが俺にまで腹を立てる。白々しく流してはいたが、俺もそれは薄々自覚していた。自分事にとして正面から捉えてしまうと、俺はきっと立っていられなくなる。
車窓越しにいくつも家が近づいて、遠ざかる。いったいこの中のどのくらいが、安心して眠れる場所なのだろう。どのくらいの人が、ひとりで涙を流しているのだろう。
家は視界を流れていく。その全部に人の生活があるというのが、どこか不思議な気がする。
「あくつ、頑張ってると思うよ」
ん、と応えるのがやっとだった。少しでも油断をしたら、タガが外れてしまいそうだった。
まひろの手が肩にかかる。軽い力で何度か叩かれる。反対側からみっきーの手が重なった。
優しさがしみるほど痛かった。
「やめろよマジで、泣きそー」
「やーい泣け泣け」
「てめー」
じゃれあっているうちに電車が揺れ、俺たちはそろって転びそうになる。体勢を立て直す所作に紛れて、気づかれないように眼鏡の下を拭った。
「オーキャン終わったらパーッと遊び行こ。ね」
「……いく」
今日のまひろはやけに気を遣ってきて、なんだか調子が狂う。
「なー、今度富士急行かね」
「……俺高いとこ無理なんだけど」
「じゃあなおさら引っ張ってこーぜ」
「僕も協力するよ」
「みつきくん?」
ふふ、と悪戯めいたレアな笑み。「阿久津くんが怖がるとこ、見てみたいよねー」「ねー」頷きあう二人を見て、俺は小さく苦笑する。
講堂で眠たい話を聞いて、炎天下の中キャンパスを歩き回って、学食で昼飯を食べた。カツカレーは三百円もしないのにやたら量が多かった。帰りがけにゲームセンターと本屋に寄って、疲れたころに、まひろのごり押しで、パフェが有名な高いファミレスに入って。何枚も写真を撮っていたまひろは、メロンパフェの豪華さとおいしさに、頬にクリームをつけたまま感動していた。外は暑いのに店内はやけに涼しかった。三人で一皿ぶんのポテトをつまみながら、俺はぼんやり外を見やっていた。
嘘みたいに穏やかな休日だった。
今が満たされているほど、帰る足は重くなる。
さんざん遊んで歩き疲れて、帰りの電車では会話も少なくなっていた。目の前の景色は無慈悲なほど流れ続ける。家に近づいていくのだと意識するたびに、胃がぐっと重くなるような気がする。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
ひとり座っているまひろが、こちらをじっと仰いでいる。
「代わろうか? 座った方がよくね?」
平気だと言いたいのに、言葉ではないものが喉から出てきてしまいそうだった。
電車の揺れに、足元がかすかにぐらつく。みっきーの手が俺の肩を支えた。隣の客とぶつかりそうになって、すいません、と小声で謝罪する。
「次の駅で降りて休憩しよう」
「……悪い」
「謝ることじゃないよ。……怖いんだよね」
――親父の血走った目。息の温度。首元の苦しさ。拳が目の周りの骨に当たる音。
全部を身体が覚えている。
頷くことはできなかった。
頭ではわかっていても、認めることには抵抗があった。
「――やっぱり、警察は行った方がよくね?」
ほらこれ、とまひろがスマホを示す。HPのトップに児童虐待という文字が見えていた。
虐待、という言葉はあまりにも仰々しすぎて、自分の身に起きたことと、どうしてもうまく結びつかない。
「もう児童なんて歳じゃないだろ」
背丈だけならゆうに親父を越えている。「クソガキ」と罵られながら、あの家じゃとっくに「大人」の頭数に入れられていた。手前で稼げる身分で親にたかるのか。中坊のガキじゃあるまいに。進学先じゃバイトが禁止だと聞いた時、最初に親父はそう言った。大人になりなさい。もう子供じゃないんだから。奈帆さんも、近所の人間も、そうやって俺を諭した。
「児童の定義は十八歳以下だよ。ちゃんと保護してもらえる」
「保護、ね……」
どれだけ図体がでかくなっても、大人として突き放されても、それでも結局、俺は無力な子供なのか。
「こんな時まで意地張んなよ。助けてもらえるなら助けてもらえばいいじゃん」
「そんなんじゃ――」
そこから先の言葉は、まひろのスマホの画面と一緒に消えた。
妙な消え方だった。一瞬でぱっと暗くなるのではなく、すぅ、とどこかに吸い込まれるように、中心から黒くなる。辺りの照明も一緒に。
ぶわり、と膜が通り抜ける感触。蜘蛛の巣でもくぐったような。遅れて怖気がした。身体が凍って、瞬き一つできない。
金属音じみた甲高い耳鳴りが、両耳を貫いて止まない。
がたん、とひとつ電車が揺れて、ようやく息ができるようになる。
咄嗟に周囲を見渡した。乗客は俺たち以外に誰もいない。
――人が、消えている。
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