第5話 焼死体

 その日の夜も寝入りばなに子供の泣き声がした。ただ泣いている、という感じではない。ひきつけるような、悲鳴のような、とにかく耳が裂けそうになるほどの甲高い声には、明らかに悲痛が滲んでいる。

 夢なのかもしれない、と思う。俺以外にこの声を聞いていない。時間はいつも寝る頃になってから。ならそう結論づけるのが一番合理的だ。その他のあれこれも、例えば疲れからくる幻視だとか、白昼夢だとか。それ以外に説明のしようがない。

 耳を塞ぐように寝返りをうつ。絶叫に近い声が、直後、聞こえる。合間に、ひっ、ひっ、と喘ぐような息遣い。一つじゃない。呼吸もままならない誰かの声に、声が、重なる。

 昔読んだ怪談話を思い出した。鐘の鋳造時に男の子が落ちてしまう事故が起き、その鐘を突くと、必ず子供の泣き声が聞こえる――

 耳は目と違って塞げないのが厄介だった。イヤホンを耳につけても、その奥に確かに聞こえるだけに、余計に神経が逆立つ。

 半ばうんざりした気持ちで布団にもぐり、声をシャットアウトしようと孤軍奮闘しているうちに、気づくと寝入っていた。夜更かしを取り返さんとするばかりに、深く、深く。

 そして俺はいつも通りの時間に起きる。これがただの平日ならば、何の問題もない。だが今回ばかりは違った。

 林間合宿。朝はいつもよりも、三十分近く早い。

 血の気の引く音がした。寝ぼけていた頭が一瞬で覚めた。教師たちからは遅刻をしないようさんざん念を押されていた。バス出発の時間までにいなかったら置いてくからなー、と冗談交じりに言っていたのを思い出す。俺はいつもと別人のようにてきぱきと準備をし、でかい荷物を乱暴に背負って、家を飛び出した。

 学校についたのはギリギリだった。バスにはもうほとんどの生徒が乗り込んでいた。教師からここぞとばかりに嫌味を言われる。トランクに荷物を預け、座席に身体を預けると、はーっ、と嘘みたいな溜息が出た。

「ばーか、怒られてやんの」

 横からまひろが肘でつついてくる。

「るせー」

 ここのバスの担当が、数学の小山だったのが災いだった。この頃寝不足が続いていたから授業でよく寝ていた。内容は塾でやったものを後追いしているだけだったので、寝ていても別段問題はない。小山は俺の授業態度が(そんでもって俺の成績がそれほど悪くないのが)気に食わないらしく、躍起になって問題を当てていたが、俺も半ば張り合う気持ちで、涼しい顔で解いて見せた。その度に顔が紅潮するのは小気味よかった。今回のことはその当てつけなのだろう。遅刻してきた俺を見る小山は、まるで水を得た魚だった。

「あいつの性格マジでどーしようもないな」

「小山もあくつにだけは言われたくないと思うよ」

 自業自得、と口が動く。返せる言葉はない。普段から生意気やっていたツケだ。

「とりあえず、阿久津くんが間に合ってよかったよね」

 通路を挟んで隣のみっきーが、助け船を出した。こいつは本当にいい奴だ。大事にしよう。

 そうこうしているうちにバスが走り出す。しばらくはおしゃべりに興じていたが、山道に入ってからは口が重くなった。酔い止めを飲んでくるのを忘れたことを思い出した。カーブに容赦なく揺さぶられるたびに、臓腑が存在感を増していく。バスの中も心なしか静かになっている。

「あくつ、酔ったー?」

 まひろは心なしか楽しげだ。

「酔ってない」

「そっかあ、酔ってんなら飴あげようと思ったんだけどなあ」

 こいつも大概いい性格だ。

 林間合宿。自然と触れ合いながら、同輩たちとの親睦を深める、という触れ込み。面倒だとは思いつつ、曲がりなりにも楽しみにしていた気持ちは、バスの揺れでごりごりとそぎ落とされた。到着までの時間は果てしなく長く感じた。

 うんざりする気持ちが五周はした頃、ようやくバスが止まる。社外は空気が爽やかで、心地よかった。初夏の木漏れ日の下、深く呼吸をすると、それだけで気分は少しマシになった。班ごとに鍵を受け取り、指定された部屋へ。「青年の家」の建物は古く、隅にところどころ埃が溜まっている。日中ではあるが、蛍光灯を付けていてもどこか薄暗い。雰囲気がそうさせるのか、昔、過去にここに泊った生徒が怪しげなお札を見つけたなんて噂話もある。

「うわーぼろっちい」

 同じ班の田中が、室内を見るなり呟く。割り当てられた部屋は六畳ほどの和室だ。班の人数は五人。すし詰めになって寝ることになりそうだ。

「とりあえず荷物入れようぜ」

 ボストンバッグを片手に、俺は探索がてら押入れを開けた。

 と同時に、誰かに背中を押される。俺は咄嗟に木枠に手をつく。

 つんのめった鼻先に、何かが触れそうになった。

 何かがうずくまっている。黒焦げの、人、らしきもの。

 ひゅ、と呼吸がのどの内側で止まる。

 黒い人影は手足をぎゅっと握り、縮こまっている。焼死体はこうなることがあるのだと、どこかで聞いたことがある。

 バイトの時に見たものを思い出した。焼け爛れた手が、ガラスを叩く。

「あくつ?」

 田中の怪訝そうな声で、我に返る。誰かに押されたような気がしたけれど、俺の真後ろには誰もいない。なんでもない、と取り繕おうとした時。

「今そこ、何かいなかった?」

 真っ青な顔で言ったのは、まひろだった。

 思わずまひろと目が合う。普段は強気な瞳に、明らかに怯えの色がある。

 部屋の中が、しん、と静かになる。

「なんだよお、なんもねーじゃん」

 田中の声が静寂を破った。押入れに視線を戻すと、人など入る余地のないくらい、真っ白な布団だけが詰められていた。

 途端、寺西が「おわっ」と飛びのく。寺西の足元にはゴキブリがいた。長い触角を余裕そうに揺らしている。半径一メートルから全員がざっと離れる。動揺して何もできない俺たちを前に、みっきーが「任せて」と「合宿のしおり」を手に取った。素早くゴキブリを掬いあげ、窓の外に放つ。

 おお、すげー、と小さく歓声が上がった。

「昔、山に住んでたことあるから」

 みっきーは恥ずかしそうに頭を掻く。なんでも小さい頃は祖父さんの家にいたらしい。ムカデやら蜘蛛やら蜂やら、虫には毎日のように対峙していたという。

「つーかゴキブリかよおビビらせんなよお」

 田中が大げさに溜息をついた。その流れで、俺はゴキブリを見て固まった、ということになったらしかった。面倒だから訂正はしなかった。「虫くらいいるだろぉボロ屋なんだからさー」「寺西が一番ビビってたじゃん」「げっ、カーテンにもカメムシいるんだけど」「自然と触れ合うってそういうこと?」空気が平静を取り戻していくのがわかる。

 あくつ、とまひろが袖を引っ張った。まひろは無言で俺を見上げていたが、目で何を言いたいのかはわかった。

 それから夕飯の間は何事もなかったが、身体から緊張は抜けなかった。なんだかんだと自由時間になり、クラスごとに順番に風呂に入る。着替えを入れたビニール袋を持ちながら、俺たちは廊下を歩く。

「なあ、俺今変なにおいする?」

「変なにおい?」

 みっきーが不思議そうな顔をする。「しないと思うよ」

「どうしたの?」

「この間姉貴に言われたんだよな」

「気にする人は気にするよねえ」口をはさんだのは、まひろだ。「女子とかよく言ってんじゃん? 男子が着替えたあとの教室クサいって」

 まあ確かに、否定できなくもない。が、女子の方こそ、制汗剤のシトラスのにおいがきついこともある。

「つーか女子だけ更衣室あんのずりいよなー」

 そのまま話はなあなあに流れる。ひとまず俺が異臭を放っていないことにほっとする。

 脱衣所はすでに人でいっぱいだった。湯気と汗のにおい。むっとするような人間のにおい。女子がクサいと言いたくなる気持ちは、多少わかる気がする。

 だらだらと荷物を置き、服を脱ぐ。あばらの浮いた胸元を晒すことに少し抵抗を覚えるが、恥じらっていたって仕方ない。ばっと頭を抜いた時。

「阿久津くん、背中、どうしたの?」

 みっきーの上ずった声。続いてまひろが、うわ、と声を上げた。

「背中?」

「赤くなってる。手の形に」

 つんのめる前、誰かに押されたような感触があったことを、俺は思い出す。


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