第30話 自販機

 誰ともなく走り出して、気づくと、随分奥まったところに来ていた。廃ホテルが近い。鼻腔にかすかに煤のにおいを感じる。ずっと見てるよ。大勢で。嫌でもその言葉を思い出す。

 辺りにはちょっとしたスナックコーナーと休憩所がある。テーブルと椅子は、長いこと風雨と日光にさらされ、プラスチックの部分が白っぽく劣化している。傍には自販機もいくつか。例によって風化した佇まいだが、看板は煌々と光っている。電気など通っているはずもないのに。当たり前のことに気がついて、戦慄を強引にのみ込む。

 白い看板に羽虫が何匹もたかって、黒い影を作っている。

「なんでみっきーは、あれが平気なのっ」

「僕だって気分がいいわけじゃないけど……ちょっと慣れてるだけだよ。山で動物の死骸があると、よくいたから」

 死骸、という言葉に、まひろがますます酸っぱそうな顔をする。

「ちょ、タンマ、もう無理」

 まひろが一目散にトイレのマークに向かって走る。しばらくすると、えずく音がかすかに聞こえてきた。こちらまで吐き気を誘われそうになる。

 このまま戻ってこなかったら。一瞬だけそんなことを考えた。

 ……いや、まさか。

 俺の心配は幸い、杞憂に終わった。頼りない足取りで戻ってきたまひろは、心なしか頬がげっそりとして見えた。

「もうやだよお……トイレにも変な虫いっぱいいるし……水流れないし……むり……」

 俺たちの傍に来るなり、まひろは座り込んで、膝に顔を埋める。

「水飲みたい……せめて口ゆすぎたい……うえ……」

「自販機で水買ってこようか?」

 みっきーはまひろの肩に手を置く。錆色の自販機がちょうど近くにある。水だけで二百円もするテーマパーク価格だ。渡りに船とでも言いたいところだが、中身が新しい保証はどこにもない。俺が止めようとする前に、まひろがふるふると首を振る。

「飲んだら戻れなくなりそうだからやだ」

 すん、としゃくりあげる声が混ざる。

 ああ、そっか。「よもつへぐい」だ。

「うがいくらいなら、大目に見てもらえないかな……」

「やめといた方がいいだろ。……あれ、例の自販機じゃないの。『飲み水に髪の毛が混ざる』」

 ――なんか、ありえない量らしいですよ。ちょっと混じってたってレベルじゃなくて、底から飲み口までぎっしりなんですって――

「さいあくっ、バカ」まひろに脛を叩かれる。

 ごとん、と突然音がした。

 鈍い音だった。重たいものが下に落ちるような。

 ――自販機からだ。

「……まひろ、顔上げない方がいい」

「え……?」

「たぶん、いる」

 取り出し口には半透明のカバーがかかっている。何かが落ちているようなシルエットは見えない。が、さっき、確かに音がした。それに、さっきまでは感じなかった不吉な気配がある。もぞ、と何かが動く気配。

 雰囲気にやられているだけだ。音がしたのだって、気のせいかもしれない。別の物音を勘違いしたのかもしれない。頭ではそう言い聞かせるが、気持ちはざわざわと落ち着かない。

「話してたから、呼ばれたのかな……」

「……見てくる」

「危ないよ」

 みっきーの制止を振り切って、俺は自販機に近づく。何かがいるかもしれないことに怯えるより、何もないことを確かめたかった。

 度胸試しだ。息を止めながら、一気に蓋を開けた。……何もない。取り出し口には深い闇があるだけだ。

 気は進まないが、中に手を入れて探ってみる。指に触れるのは、埃のざらついた感触だけ。

 なんだ、何も落ちてないじゃないか。拍子抜けしかけたとき――

 がっ、と手首を掴まれた。細い息が喉から漏れる。

 青白い腕、だった。皮膚は見るからに生気がない色をしていた。子供のものに見えるのに、力が強い。引き剥がそうとして、もう一度取り出し口を見やって、

 目が、合う。

 真っ赤に充血して、見開かれた目。黒目が小さい。爬虫類か獣みたいに。

 白くて丸い、顔、のようなものが、こちらを凝視している。

 俺は半ばもがきながら、自販機を蹴った。俺を繋ぎとめていた強い力は、嘘みたいにすっと消えた。

 腰を抜かしたまま、呼吸が整うまで、しばらく動けなかった。

 遠くから呼ばれて、俺はよろよろと立ち上がる。腰をぶつけたのか、拍動に合わせて鈍く痛んだ。

「大丈夫?」

「いちおう。……やべーな、ここ」

 手を掴まれたと言うと、二人の顔が見るからに硬直した。

 手首にはまだ、掴まれた時の生々しい感触が残っている。じっとりと焼けつくような眼差しも、しばらくは忘れられそうになかった。邪悪だ、と一目でわかるような目だった。恨みか、殺意か、無念か……とにかく大きな負の感情を抱いていた、ように見えた。

 プールで死んだという子供だろうか。

 あの子は本当に事故だったんだろうか? 例えば、あんな風に水中で手か足を掴まれて、引きずり込まれたのだとしたら。苦しみながら、呼吸がしたくてもがくのに、水面が遠のいていく。水を飲んで、咳き込んで、泡が目の前を上っていく。苦しい。助けてほしい。なのに誰も、助けてくれない。……それはきっと、すごく辛い。

「だから、嫌だって言ったんじゃん」

 まひろはなおも恨みがましくこちらを睨む。

「またそれかよ」

「そうやってまともに取りあってくれなかったからこうなってんじゃないの? おれたちこのまま『お客さん』になるかもよ」

 落ち着いて、というみっきーの声も、まひろの耳には入らない。

「そもそもあくつが無理に行こうとするから」

 乾いた笑いが口からこぼれた。まるで子供の癇癪じゃないか。

「全部俺のせいかよ」

「どう考えたってそうでしょ!」

「違うって、まひろくん、僕が――」

 けんか?

 けんか?

 どこからともなく聞こえた声が、耳をくすぐる。

「いっつもそうやって自分だけが正しいみたいな顔して」

「じゃあ飢え死にするまであそこにいればよかった? それこそ『観客』の仲間入りだろ」

 みっきーまで泣きそうな顔でこちらを見ている。

「お前こそ、ビビってる自分を正当化したいだけじゃん」

「はあ?」

 衝動に押されて、禁句は簡単に口から転がり出る。

 滑り始めると、拍車はかかって止まらなかった。

「そうやってずっと、子供みたいに泣いて、みっきーに慰められとけよ」

 言ってしまった、と思う。

 謝らなければ、と思うのに、言葉は口から出てこない。どす黒い感情がぐちゃぐちゃに混ざっていく。

「俺は勝手にやるから」

 阿久津くん、と声が呼び止めたが、俺は振り返らなかった。強引に引き留められるようなこともなかった。それにどこかで傷ついている自分も滑稽だった。あれほどのことを言っておいて、引き留められることを期待していたのか。浅ましい。

 清々しさの何倍も後悔が勝る。思い切り感情をぶつけておいて、気が晴れないのはどうしてなのだろう。

 ――子供なのはどっちだよ。

 自己嫌悪で吐きそうだ。八つ当たりみたいに足を進めた。

 振り返れなかった。戻ろうと何度も思うのに、どうしてもそれができなかった。腹をくくって、どうにか振り返った時には、二人の姿はもう見えなかった。

 ミラーハウス。観覧車。コーヒーカップ。作り物じみた、玩具箱みたいな華やぎの中に、人間は俺しか見当たらない。

 乗客をなくしたカラフルなカップが、虚ろに回っている。

 湿った風が、冷たい汗をますます冷やした。

 一人だ、と急に自覚する。こんな場所で一人になるのは自殺行為だ。頭が冷えた途端に、焦りが喉元まで押し寄せる。これすら彼らの掌の上で踊らされているとしたら。こうして仲間割れを起こすことすら、彼らの思惑通りだったとしたら。自分の馬鹿さに泣きそうだった。

 一人になると俺はこんなに不安なのか。

 強がることでしか強くなれなかった、自分の弱さを思い知る。横に俺以上に怖がる彼らがいたから、俺はたぶん、動揺に振り回されずに済んだのだ。

 小走りで休憩所まで戻ったが、すでに人影はなかった。走ったせいで腹の左側が痛い。二人の名前を呼んでも、返事はない。

 二人とも、どこに行ってしまったのだろう。後悔と焦燥感が容赦なく身体を蝕んでいく。このままではだめだと思うのに、どこにも糸口がない。二人がいた痕跡も、気配すらどこにも見つからない。

 時計台の鐘が重々しく鳴って、突然の大きな音に、筋肉がぎゅっと収縮した。時計の針はめちゃくちゃなまま、前にも後ろにも不規則に動き続けている。

 ぐるぐる走り回るほどに、焦りは煮えついてこびりつく。場内を一回りしている時は長く感じた時間が、同じ場所に戻ってくると、あっけないほど短く感じた。何度呼びかけても返事はなかった。それほど広くはないはずなのに、どうしてどこにも姿がないのだろう。心細さに胸がぎりぎりと締め付けられた。

 場内の音だけはがちゃがちゃと賑やかで、それが余計に、お前は一人だと囁いてくるような気がした。

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