第43話 ピアノ
あてどなく廊下を歩く。一階はおおかた歩いただろうか。何しろ虱潰しにやるしかないのだが、手ごたえはまるでなかった。
「四人家族のくせにこんなに部屋あってどうすんだろうねー」
「本当にな」
不満が滲んでしまうのは、進展もなく練り歩くことにどこか辟易しているからだ。足の裏は随分前から鈍く痛い。一方で、愚痴が口をついて出るのは、どこか余裕のある証拠でもあるのだろう。こんな場所なのに慣れつつあるのが悲しい。
「まあ、お手伝いの人もいたっていうし」
「にしたって多くない?」
ぶつくさ言いながら扉を開けた先は、楽器だけの部屋だった。玄関口にあったようなピアノが中心に鎮座していて、唖然とした。これって相当高いモノじゃなかったっけ。
「金持ちの考えることはわからんなー……」
壁にはずらりと楽器が並んでいる。洋楽器が主だが、中には琴も置いてある。
「バイオリンも二個もあるし」
「一個はビオラでしょ。大きさが違う」
まひろが呆れたように言う。
確かに、と思うも、俺にはどっちがどっちだかわからない。
「詳しいのな」
「中学ン時オケ部だったから」
「高校でもやればよかったのに」
「やだよー。ブラックだし、女所帯で肩身狭いし」
妙に苦々しげなまひろの傍らで、みっきーが小さく笑った。
「色々あったんだよね。ほら、まひろくん、負けん気強いから」
「へえ?」
まひろはむすっとしたまま、何も語りたがらない。代わりにみっきーが教えてくれる。
「中一の時だったかな、合唱コンの伴奏をめぐって同じ部活の女の子と小競り合いになって。『だってお前下手じゃん』って言って泣かせちゃったんだよね」
「うわ、ひでえの」
ていうか、ピアノなんて弾けたのか。色々初耳だ。
「ちょっと、その言い方は語弊があるんですけど」
「そう?」
「そうだよー、あいつが『男子なのにピアノなんて変』とか『私の方が長くやってる』とか言ってくるから」
それを聞くとどっちもどっち感があるが。
「任せりゃよかったのに」
「伴奏者特権が惜しかったんだもん」
「特権?」
「先生が怒ってるとき、一人だけ蚊帳の外でいられる」
これにはみっきーも苦笑。
ともかく、泣かせたことで女子たちからは不興を買ったらしい。一度悲劇のヒロインになると人はなかなか止まらない。裏からこそこそ言われることが常だったが、部内では表立って対立することも少なくなかった。面倒ごとに関わりたくない人間からも遠巻きにされるようになる。ぎくしゃくした関係は卒業まで続いたようだ。
「お前も大概不器用だな」
そんな状況だったから、みっきーと仲良くなったんだろうか。と邪推をする。
「あくつには言われたくないんだけど」
「ピアノ弾けんならなんか弾いて」
「出た、そういう無茶ぶり」
なんだかんだと言いながらも、「僕も聞いてみたいな」というみっきーの一押しに負け、「一曲だけね」とまひろがピアノの蓋を開ける。
真ん中の方の鍵盤を押すと、こぉん、と音がする。それを聞くなり、まひろが顔をしかめた。
「ひっどい音。もこもこしてる」
可哀想だな、という声は、いたわるようだった。
「何がいい?」
「なんでも」
「うわ、無責任……。なんか楽譜とかない?」
「このへんの本棚、楽譜みたいだよ」
まひろが一つ、その中から冊子を引き抜く。紙は茶色く劣化し、どことなく脆い。装丁も印字も古めかしいが、中身はまだ読めそうだ。ぱらぱらと冊子をめくっていたまひろは、あるページで手を止めた。
「このページ、書き込み多いなあ……癖もついてる」
作曲者はラヴェル。曲名は『亡き王女のためのパヴァーヌ』とある。俺は聞いたことがなかったが、まひろは弾いたことのある曲だという。
「あの子がよく弾いてたのかな」
「かもしれないね」
ピアノの足元に小さな足台があるのも、りつ子が弾いていた名残りなのかもしれない。
ここにはほかの場所のような陰惨な空気もない。あの子はピアノが好きだったのだろうか。そう思うと、どこか胸が痛かった。化け物と蔑まれても、凄惨な末路を辿っても、結局のところ、彼女はただの一人の人間だったのだと、思わされるような気がした。
まひろは天板を上げ、浅く椅子に腰かけた。ひとたび鍵盤に指を置いた彼は、どこか顔つきが変わって見えた。背筋がすっと伸び、目はまっすぐ楽譜を見ている。心なしか周囲が静かになった気がする。
始まりは静かな音だった。まひろの指が奏でる音は、想像していたよりずっと優しい。まひろが「もこもこしてる」といったように、聞きなれたものよりピアノの音色が籠っていたが、中心には澄んだ音の芯がある。
丁寧な指の所作の中で、白鍵と黒鍵が沈む。細やかな旋律の中に、時折力強く和音が鳴る。強弱の波は少しずつ大きくなるけれど、どこまでも穏やかで、静謐で、繊細で、どこか悲しげな曲だった。
切なげな和音が響く。それまでごちゃごちゃと頭の中を満たしていたものも、自分が今どこにいるのかということさえ、気づいたら頭から消えていた。呼吸すら忘れて演奏に聞き入る。最後にひときわ強く和音が鳴り、鍵盤からそっと手が離される。余韻が部屋の中に吸い込まれていく。
すっかり音もなくなった頃。「すごいね」と言ったみっきーの拍手につられて、俺もぱちぱちと手を合わせた。まひろは照れくさそうな顔をして、「はい、休憩終わり」と席を立つ。
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