第2話 血

 高校生と言えど忙しいもので、日常は目まぐるしく過ぎていく。学校、塾、バイト。林間合宿とかいう学年行事の準備もある。タスクはこなした端から新しいものが湧いてくる。息のつく暇もないとはこのことだ。この上部活もやる気力は俺にはない。

 学校は人間がたくさんいて煩わしいが、煩わしさなら家も負けていない。だからこそ気の休まる瞬間は貴重だった。

 推してるバンドの新曲の初オンエア。イントロの二小節だけで、心が躍った。彼らはやっぱりセンスがいい。聞き入りながらシャーペンを動かしていた時。

 がやがやとした喧騒が耳をついた。心地よい音楽の間に割り込んでくる濁声。「お宅の息子はもう高校生だっけ?」「だめだめ、うちの倅は、しかできねんだから」「誰に似たかねえ」「まったくだ」

 がはは、と粗暴な笑い声。同時にがらがらと戸が開く音。俺は眉を顰める。

 親父だ。

 酒が入っているのは滑舌でわかる。商店街で流行らない店を抱えている親父どもは、時折こうして夕方から飲んだくれている。酒の肴は、若い頃の思い出話と、狭い商店街の中で起こったどうってことない噂話――誰と誰が浮気をしていただの、誰の子供が不登校らしいだの、悪ガキだった誰それがついに結婚するらしいだの、そういう話だ。その手の話に興味がない俺でも耳に入る程度には、この辺りの世界は狭い。

 地域のつながり、温かい人間関係。東京という街で希薄になったそれを、彼らはさもありがたそうに言うが、俺はそういうべたべたした馴れ合いが嫌いだ。

「あいつは」と親父。俺が下に降りてこないのが気に食わないのだろう。「今勉強中みたいだから……」と、奈帆さんは宥めようとするが、何か文句を言っているのが聞こえる。

 構わず無視していたら、のしのしと階段を上る足音がした。ノックもせずドアが開かれる。

「おい、おかえりなさいの一つも言えねえのか」

 いきなりお説教。酒を飲んで気が大きくなっている親父にはよくあることだ。

 俺はしぶしぶイヤホンを外す。つけたままでいると「それが人の話を聞く態度か」なんて難癖をつけられることになる。最悪手元のスマホを壊される。

「挨拶すらできなくて何が勉強だ」

 親父殿が求めているのはこうだ。おかえりなさい、お疲れ様、家族のために働いてくれていつもありがとう。

 あからさまな不機嫌を纏いながら、自分をねぎらえとの圧力。酔っぱらって帰ってきたくせに、どうしてこうも偉そうにできるのか。

 奈帆さんはいつも、やすやすとこの圧力に屈するけれど、あいにく俺はそこまで人が好くない。天邪鬼な性分なもので、ふてぶてしい態度をとられるほど、ほしい言葉なんか与えてやるものか、と思う。

「……聞こえてなかった」

 ふん、と親父は鼻を鳴らす。そのまま風呂掃除を仰せつかった。「今は手が離せない」と言うと、「んだそれ、ふざけてんのか」と一蹴される。

 ……ちょっとはこっちの事情も鑑みてほしいんですけどね。外したイヤホンの中で、音楽は鳴り続けている。漏れ聞こえる音が切ない。

 まあどうせ、曲はあとからでも聞けるけど。初オンエアという特別感は、せっかくならリアルタイムで浸りたかった。どうせ五分足らずなんだから待ってくれてもいいのに。

 そんな言い訳は胸の中に留めておく。相手には言葉が通じないのだから仕方ない。人間であると期待するから疲れるのであって、少し知能の高いゴリラぐらいに思っておけば、それほど感情を乱されずに済む。

「わかったって。やるよ」

 俺が椅子を立つと、何が気に障ったのか、背後から舌打ちが飛んできた。

「勘違いすんなよ。高校は義務教育じゃねえンだからよ。お前の学費なんていつでも止めれんだ。大好きなお勉強が無駄にならなきゃいいな」

 さいですか。もはや何も言うまい。

 せいぜい気にしていないふりをして風呂場に向かった。俺の無視がさらに気分を逆撫でたのか、親父の部屋のドアが勢いよく閉まる音がした。

しょうくん、ごめんね」

 風呂場に向かう道中、台所にいた奈帆さんから声をかけられた。手には泡をつけたまま。その向こうで、鍋が煮られている音と、炊飯器の音がしている。

「いいよ別に。大したことじゃないし」

 俺は短く答える。この人が非力なのは今に始まったことじゃない。

 奈帆さんは曖昧にはにかみ、洗い物の作業に戻った。

 奈帆さんは親父の再婚相手だ。実母と親父はとっくの昔に離婚している。この家に残っているのは、俺と奈帆さんと親父だけ。四つ上の姉は大学進学を機に、一足早くひとり暮らしを始めた。都内の大学に行ったくせして、「家から通えるだろ」と渋る親父を口八丁で言いくるめたのだ。親父も姉には甘いからなんだかんだ了承した。羨ましいことこの上ない。

 例にもよって親父と奈帆さんは、商店街の人間同士の結婚だ。いつまでも独り身じゃかわいそうだとか言って、おせっかいな隣人たちが強引に仲人をしたらしい。当時はいろいろな噂が近所の人間の口に上り、俺も姉も近所の悪ガキどもから囃し立てられた。どうして奈帆さんが何年もこの家に居続けるのか、俺には理解できない。

 風呂場の戸を開ける。空気は湿気をまとっていて生ぬるい。シャワーをざっと湯舟にかけて、スポンジに泡を吹きかける。湯舟に泡をばらまいては、洗剤を無駄遣いするなとまた怒られるはめになる。

 淡々と与えられたことを終わらせる。どうやら人生とはその連続にすぎないらしいと、この頃俺は気づき始めている。


 ルーティーンにひびを入れたのは、一滴の血液だった。


 湯舟の床をぞんざいになぞっていたら、目の前に、びた、と音を立てて赤黒いものが落ちた。とっさに額に手を当てたが、怪我をしたわけではなさそうだ。鼻血でもない。

 赤色と泡の混ざったものが排水溝に向けて流れていく。ではこの血はどこから落ちた? 

 びた、と再び重い音がする。おずおずと天井を見上げた。換気扇の蓋のあたりが、縁をなぞるようにべったりと汚れている。

 同時に、ものが腐ったような、胸が悪くなるにおいが鼻をかすめた。先ほどまでこんなにおいがあっただろうか。天井をシャワーで流すと、赤く薄まった雫がぼたぼたと落ちていく。

 ――なんだこれ。

 気は進まなかったが、とりあえず奈帆さんを呼びに行った。二人で風呂場に戻ると、先ほどまであれほどべったり付いていた血糊は、見る影もなく消えていた。

 疲れているのかもね、と奈帆さんは言った。妙なにおいだけはうっすらと感じるようで、排水溝が汚れているのかもしれないと、タスクを増やされる羽目になった。排水溝は確かにドブのような嫌なにおいがしたが、先ほどの腐敗臭とはまるで違う。

 それから掃除を終えるまで、正体不明の血が滴ってくることはなかった。

 俺は釈然としない気持ちで風呂場を出た。見間違いにしては妙に生々しい血の色が、頭から離れなかった。

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