第3話 引き金

「素宮、ちょいといい?」


 仕事を終えた労働者の面々が三々五々に去っていく中、尾白に呼び止められたのは、アンジェライムの収穫もあと数日で終わろうかという頃である。

 報酬は既に受け取っている以上、日雇い労働者としての義務は既にない。だが、ここで無視をして雇い主の心証を悪化させる馬鹿は居ないだろう。

 どうせ自分が考えていたこの後など、いつも通り家に帰って繕い物やらをして寝るだけなのだ。天秤にかけるまでもないと尾白についていけば、樹園の片隅に立つ倉庫の裏手で彼女は唐突にこちらを振り返った。


「アンタ、まだあの子と話してないだろ?」


 唐突な詰問口調に対し、ありもしない眉を顰めたような感覚になる。

 尾白の言うあの子など思い当たる節は1人だけ。頭をよぎった特徴的な用紙に、俺は小さく肩を竦める。


「……問題でも?」


「これだよ。なんか思わないのかねぇ、毎日アンタみたいなのに寄ってって、きっちり挨拶するような子にサ」


「ほぉ、いつの間にアレの保護者になったんだ?」


「茶化すんじゃない。どんだけ妙ちくりんで鈍くても、あんだけ真面目に仕事続けてりゃ、普通気にもなるだろ」


 薔薇の模様を髑髏に描いた骸骨は、サロペットに両手を突っ込んでこちらを睨みつけてくる。

 こちらのあずかり知らぬところでまた、世話焼き好きが高じるような場面でもあったのだろう。また呆れたことを言い出したものだ。


「そっちの思想信条にケチをつけるつもりは無い。だが、俺は俺だ。違うか」


 仕事では持ちつ持たれつの関係であっても、行動の責任は全て己に降りかかる。身一つで生きる掃き溜めの労働者であればなおのこと。

 それくらいわかっているだろう、と言外に告げれば、尾白はこちらの反論を見透かしていたかのように、大きく大きくため息をついた。


「……アンタ、あの子が何のために働いてるか知ってるかい?」


「知らん、興味もない」


「素宮さんから時間を買う為に、だってサ」


 白い手の中でライターがカチンと音を立て、しわだらけの巻紙に赤が灯る。

 尾白の癖。骸骨がタバコなんぞ吸ったところで、煙は体のあらゆる隙間から抜けていき、残るものなど黄ばみだけだというのに、彼女はこれを手放さない。こと、真面目な話をする時は特に。

 僅かに生まれた灰が地面へ落ちていく。それを黙って見つめていれば、小屋の壁へもたれかかった女骸骨は、頭蓋に溜まっていたらしい白煙を薄く吐いた。


「昨日の夜中、路地裏で転がってるのを見つけてね。流石に驚いたよ。最低でも飯代と穴蔵代になる程度の報酬は渡してたのに、どう諭してもあの子は使わないって言って聞かないんだ」


 カラカラと鳴った顎の音に、俺が思い出したのは何日か前の会話である。

 時間の対価。そんなものを本気で考えていたとなると、あのガスマスクチビは俺の想像を超えた本物の阿呆なのだろう。おかげで、数日前と違って不快感を覚えることもなく、むしろ盛大な呆れが込み上げてきた。

 ガスマスクチビにだけではない。そんなことをわざわざ伝えに来た女骸骨にもだ。


「だから俺に同情してやれと? そう言いたいのか、尾白」


「いいや、アタシとアンタはあくまで契約に基づいた雇い主と労働者だ。踏み込める話じゃないことはわかってる」


「なら何のために」


 首を振った尾白に1歩詰め寄る。打算でも愛護精神でもないなら、俺にはこいつの狙いがわからない。わからないというのは不気味なことである。

 しかし、彼女はこちらを一瞥したかと思えば、フッとどこか自嘲的に息を吐き、そのまま茜空へ向かって薔薇模様の頭を傾けた。


「別に、理由なんて個人的で些末なモンさ。掃き溜めで酷く黄ばんじまった今の素宮より、流れ着いて間もない頃の、場違いな良心とか義憤に従ってた不器用なアンタの方が、アタシはカッコよく思えてたってだけ」


 吸うか、と。こちらを見ないまま差し出される短くなった燃えさしのタバコ。

 緩く立ち上がり続ける煙の向こうに立つ彼女は、俺が受け取ることを望んだのかもしれない。尾白の語った昔の俺なら、そうしただろう。

 だが、ゆっくりと伸びた軽い手は、先端に光る赤い火を静かに握り消しただけだった。


「……昔は昔、今は今だろ。それから、妄想と現実を重ねるのはオススメしない。落胆するだけだ」


「よく言うわ。誰が聞いたところで、現実なんて語ろうともしない癖に。ま、どうすんのかを決めるのは素宮自身サ。せめて後悔のないようにしなよ」


 カカカと笑うように顎を鳴らした尾白は、消えたタバコを砂の上へ投げ捨てると、こちらに背を向けて去っていく。

 ただ、最後に投げ渡されたのは捨て台詞という訳でもないのだろう。おかげで俺は黄色い砂が流れていく様を眺めながら、僅かに残る熱を確かめるようにザラつく指を小さく揉んだ。


 『素宮さんじゃなきゃダメなんだってば』


 そんな風に言う奴が運んでくるのが、厄介事でなくてなんなのか。

 だから話を聞かず拒むことは、これ以上無いほど合理的な判断。

 そう考えていたというのに。


「……あのお節介め」


 また明日になれば、問題の種はどこからともなく現れるのだろう。

 そう考えただけで、誰が聞いている訳でもない閑散とした農園の片隅で、俺は一人毒づいていた。



 ■



 重く膨らんだ布袋を持ち、私はふぅと息をつく。

 コインは何枚になっただろう。今日までに素宮さんが稼いだ量と比べれば、きっと大したことはない量に過ぎない。

 けれど、無駄では無いはず。ここへ至るために全ての宝石を使い切った自分にとって、これが今持てる精一杯の価値なのだ。


「後3日が限界、かな。それまでになんとか……」


 暗い路地裏の影で、小さな手袋へ視線を落とす。

 ここまで切り詰めてきた携帯食糧は、明日の夜を最後に尽きる。となると、完全に動けなくなるまでのタイムリミットはそれくらい。

 勿論、食べ物を別に調達すれば、伸ばせる限界ではある。しかし、自分が活動を続けられる分を買おうとすれば、今の稼ぎではマイナスだろう。そんな延命措置に意味は無い。

 賭けになるのは、最初からわかっていたこと。勝負は明日だと膝を抱える。

 話を聞いてもらえるだろうか。あまりにも突き放され、取り付け島もない空気に、今では全く希望を持てず、何もかも徒労だったのでは、という不安も日増しに強くなる。それでも、私には進む以外の選択肢が残っていないのだ。

 体を覆うマントの中、私は自身の支えとしてきた小さなロケットを握りしめて寝転がった。


「大丈夫、ウンおばさんが言ってた通りの人なら、きっと……きっと」


 路地裏の硬い地面も、鈍った感覚ではあまり苦にならない。

 それが全くいい事だとはとても言えないが、少しでも無駄な体力消費を避けたいこの状況では、安眠に役立つため素直に有難く思える。

 ただ、意識が微睡みへと落ちようかという時になって、唐突に感じた奇妙な気配に目が開いた。


 ――誰? また、尾白さん? それとももしかして、素宮さんが来てくれた?


 ぼんやり映る影に抱いた縋り付くような淡い希望。

 しかし、それもほんの一瞬。カタカタという気味の悪い笑い声と砂を引き摺る鉄の音に、湯気のような私の望みはあっという間に霧散した。


「な、何、あなたたち……」


「さぁ、何に見えたかな? おチビさん」


 僅かに半身を起こした所で、カァンと鳴った音と共に世界がぐるりと回った。

 起きたはずなのに、また視野の半分は地面。それもチカチカと光が瞬いて何もかもがぐにゃりと歪む。


「う、ぐぅ……!?」


 遅れてきた頭が割れそうな程の鈍痛に、低い呻き声が零れる。

 何が起こったのか確かめたくても、身体はほとんど言うことを聞かず、それどころか視界もあっという間にぼやけはじめた。


「……おい、なんだこりゃ? 大したことねぇぞ」


「マントの中はどうだ? 隠してないか?」


「か……ふ……っ!? やめ、て……!」


 冷たい感触がお腹に点でのしかかる。

 苦しくて、痛い。けれど、私にはもがくことすら難しく、どうすることも出来なかった。

 自分は何をされていたのだろう。どれくらいかそんな状態が続き、いよいよ意識がかすんで来た頃、お腹に強烈な衝撃が走った。


「うぅ……!?」


「こいつぁダメだ。ガラクタしか持ってねぇよ」


「チッ、なんだよ話と違うじゃねぇか。まぁいい、これだけでも今日明日の酒代くらいにはなんだろ。行くぞ」


 遠のいていく声の中、無慈悲にもハッキリと聞こえた最後の言葉。

 酒代くらい。

 もう呻き声を漏らすことすら出来ない私は、抗いようのない絶望感を抱えたまま、意識が途切れるその瞬間まで、ただただ繰り返し続けた。

 どうして、と。



 ■



 カランカランとベルが鳴る。


「はーい、お疲れさーん。明日もよろしくー」


 農園に響く快活な声が終業を告げれば、労働者たちはをゾロゾロと尾白の元へ吸い寄せられていく。

 そこで布袋を受け取れば、誰もがホッとした様子を醸し出しながら散っていく。底辺の連中がそうあれる職場など、この農園を除けば数える程しかない。

 だからこそ、掃き溜めの住民はどこより真面目に働くし、途中でメンバーが入れ替わることもほとんど無い。誰だって、まともな待遇の場所は明け渡したくないのだ。

 そう、普通なら。


「……阿呆はどっちだか」


 流れていく列を遠巻きに眺め、自分の思考にため息をつく。

 今朝、ガスマスクチビは農園に現れなかった。仕事が始まり昼になっても気配すらなく、結局終業のベルが鳴って至る現在。

 今日に限って、と思うのは当然だろう。単なる偶然なのか弄ばれているのか、こっちが挨拶くらいと思った矢先、今更になって消えるとは。


 ――まぁ、結果オーライか。


 厄介事の種が消えてくれた以上、敢えて蒸し返す必要は無い。多少の腹立たしさくらいは安いものだ。

 列も大半が消え去ってしまえば、最早眺めている理由もない。コキリと軽く肩を鳴らした俺は、ダラダラと歩いて最後尾を追いかけ、追いついた時には既に自分しか残っていなかった。


「お疲れ素宮。ほい、今日の分」


「ああ」


 いつも通り帳簿へ受け取りのサインを記し、ペンを置いて報酬の入った布袋を受け取る。

 雇用契約の時間は終わり。後は帰るだけと報酬を懐へしまい込んだところで、尾白がポツリと呟いた。


「……あの子、急にどうしたんだろう?」


「さぁな。日雇いじゃよくある事だろ」


「アンタ気にならない訳? ずっと宿無しなんだから、もし体調崩してたらー、とかサ」


 責めるような口調と視線に顔を向ける。

 何者が転がり込もうと、理由なく蒸発しようとも、掃き溜めでは単なる日常に過ぎない。最近見かけないと話題に上がれば優しい方で、誰も気にしないことがほとんどだ。

 ただ、普段ならすんなり出てくる切り捨てるための言葉は、どうしてかありもしない喉へと突っかかり、短い沈黙を挟まないとうまく吐き出すことができなかった。


「……誰かと違って、アレの保護者になった覚えはないんでな」


「こんのへそ曲がりがぁ。帰りに見かけたらせめて声くらいかけてやってよ!」


 踵を返した俺の背に、子を叱る母親のような声が飛んでくる。

 それを鼻で笑えないのは、自分の中に積もりくる不愉快さのせいだろうか。


 ――見かけたら、ね。寝床も知らない奴と、早々鉢合わせるものかよ。


 帰り道を歩きながら、ぼんやりと道行く同類を眺める。

 疲れた様子で歩く多くの影。汚れたネオンを吊るす屋台で、愚痴を言い合いながら食事をとるゾンビ。その裏でゴミを漁るミイラ。細い街路に消えていく背の曲がった骸骨。

 鬱屈として変わらない町の底。その景色が今日は何故だか癇に障り、俺は歩幅を広げて家路を急いだ。

 アイツはもう町から消えたのかもしれない。僅かな元手でも離れられる気力があるなら、その選択が正解だ。二度と会うことは無いだろうが、必要なら祝福だってくれてやる。

 あるいは、そうあって欲しいと何処かで思っていたのかもしれない。

 ただ、通りから外れたところで見えてくるバラックの影は、相変わらず望みを叶えてはくれなかったが。


「はぁ……なんでここに居やがるか。おいチビ」


 頭の片隅で思っていた可能性に、ため息を零しながら大股で歩み寄る。

 小さな我が家の前。窓明かりだけが照らす薄暗い街路にあったのは、砂地の上に蹲る見知ったマントだった。


「素宮、さん……」


 声に反応してか、球のようになっていた革包からゆっくりと頭が生える。

 苦情でも言ってやろうと思っていた。勝手に人の家の玄関先に居座るな、と。

 だが、その姿が黄色っぽく浮かび上がって見えた時、俺の足は前へ進めなくなった。


「お前、そのマスク――」


 凹んだ吸収缶に割れたレンズ。その奥に覗く青色の目が、赤黒い液体で汚れているように見えたのは、迫る夜闇のせいではないだろう。

 一体何が、とこちらが立ち尽くしていれば、チビは両手を砂につけて霞むような声を出した。


「ごめん、なさい……! 素宮さんへの対価、払えなくなって……私、迷惑かけるの分かってるのに、どうしても、どうしても諦められなくて……!」


 堰を切ったように溢れてくる鼻の詰まった言葉に、昨日まで感じていた快活さはない。あるのは失った者、あるいは奪われた者から感じる特有の悲痛さ。

 チビの行動が尾白が言っていた通りなら、大体の事情に想像はつく。無論、全てが言葉通りとは限らないが、それでも。

 知らず知らず詰まっていた息を、ゆっくりと吐いた。


「その対価とやら、どれくらい貯め込んだ?」


「……もう少しで、布袋が一杯になるくらい。けど、きっともう」


 ガスマスクを見下ろしながら、顎に自然と力が入る。

 あの報酬から本当にそれだけ貯めたのだとすれば、節制などという生易しいものでは無かっただろう。

 とはいえ、ここは掃き溜め。同情を誘って騙す手口など、珍しくもない。物がなければ信用に値せず、同情すれば馬鹿を見るだけ。 


「頭の傷、深いのか」


 歯の隙間から零れた声に、ガスマスクは小さく首を横に振る。


「わからない……痛いより、ただ悔しくて」


「そうか」


 砂を握り込む小さな手袋を見下ろしながら、俺は懐から我が家の鍵を取り出す。

 扉を閉めてしまえば、それきりで話は終わり。残された可哀想な被害者が絶望の淵に沈むか、あるいは泣き落としの詐欺師が舌打ちをするか。


 ――馬鹿馬鹿しい。


 冷たい感触が指の間をすりぬける。

 それは小さな音を立て、革手袋の前へと落ちて止まった。


「ソファは好きに使っていい。腹が減ってるなら戸棚を適当に漁れ」


 僅かな間を置いて、ガスマスクは驚いたようにこちらを見上げてくる。


「え……あの、私はもう、何も――」


 視界の片隅に映ったレンズの向こうで、青い瞳が揺れていたように思えた。ゾンビだとしても、随分と綺麗なものである。

 とはいえ、驚いているのはチビより俺自身の方だっただろう。それでも、この間抜けな賽は投げられた。

 他でもない、俺がこの手で投げたのだ。


「朝までには戻る。それまでに、その鬱陶しい鼻声を直しとけ」

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