第20話 意識の器
澄まし顔が驚愕に小さく揺らぐ。
「貸す、とは……まさか、貴女の体を?」
「うん。肉体に戻ることで回復できるなら、少しでも力になれるかなって」
ハッキリと言い切ったイアルに、穂芒の表情はさらに強く困惑を滲ませる。
あれだけの啖呵を切ったのだから、俺は身体探しを手伝うよ、とでも言い出すつもりだろうと考えていた。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。その内容は穂芒どころか、俺もバンハルドもポカンと口を開けてしまうレベルの突き抜けた物だった。
「2つの意思を1つの器に入れるなど、聞いたこともありませんが……バンハルド?」
明確な答えを求める視線に、青い死体はすぐに言葉を発さない。
だが、否定のない沈黙は肯定に等しく、バンハルドは難しい表情のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「極めて僅かではありますが、噂程度に聞き及んだことがございます。しかし……」
顔に巻かれている包帯の隙間から、レヴナントの細い目線がイアルを捉える。
複雑な感情は、穂芒が奪うことはまかりならぬと告げているからか、あるいは自ら拉致した相手が主を気遣っていることに恐縮してのことか。
理由がなんであれ、彼は重々しく言葉を紡いだ。
「閉じられた意思を開くというのは、魂を霊体相手に曝け出すということ。並の自我では呑み込まれ消えてしまう恐れもございましょう。それも、お嬢様は霊体種の上位にあらせられますれば、猶更に」
「う……そ、そう、なの?」
イアルの腰が僅かに退ける。
当然だろう。たとえ肉体が残ったとて、意識が消えてしまえばそれは灰に還るのと変わらない。その上、彼女には至らねばならぬ場所があるのだから。
「尻込みするくらいならやめとけ。誰も責めはしない、そうだな?」
「元より私は受け身の立場。イアルの選択に口を挟めるものではございません」
俺が髑髏を巡らせれば、穂芒は抑揚のない声でハッキリとそう告げる。
この礼儀正しいレイスの娘を見捨てることに、一切の躊躇いがないとは俺にも言えない。同情もする。それでも、事故的な寄り道の先で、リスクを冒す必要などどこにもないはずだ。
しかし、イアルは手袋に包まれた拳をきつく握ると、動物の耳のように跳ねた髪をプルプル振って顔を上げた。
「う、ううん、やるよ! 自分で言い出した事だし、それでこだまが元気になれるなら!」
全く、大した頑固娘であろう。盛大に呆れはするし、穂芒からは止めないのかという視線も突き刺さってはいたが、俺も自分の発言には責任を持たねばならない。
雇い主が右だと指させば、労働者にとってはその方向が右であり、北だと言われればそちらが北となる。金を貰う気がないならばともかくとして、だ。
善良さを枕にして消える覚悟が決まっているのなら、最早俺がどうのこうのと言う段階は終わっている。後はイアルが踏み出すだけのこと。
そう思っていたというのに、何故か彼女は小刻みに振動しながらこちらを振り返った。
「ただそのぉ……やっぱり怖くないって言ったら、嘘になる、かも」
まるで壊れたモニターが映しているかのような、落ち着きのない下手くそな笑い顔。
どうやら腹を括るには至れなかったらしい。根性があるのかヘタレなのか、俺にはもうよくわからなくなってきた。
「だったらなんだ。手でも握ってて欲しいのか?」
アンデッドに臆病な奴は居ても、子どもという概念はない。
だからこそ、お前は自立することもできないのか、という発破ついでの冗談のつもりだった。
しかし。
「……お願い、してもいい?」
僅かな間を置いて、おずおずと差し出される小さな手。
俺は危うく、はぁ? と出かかった言葉をギリギリで頭蓋の奥へ押し戻さねばならなかった。
――本気かコイツ。
冗談はお互いが理解してこそ意味を持つ。切羽詰まった場面では特にそうだ。加えて、唾など出ようはずもない乾いた骨でも、吐いた言葉を飲み込む手段は存在しない。
縋るような目を向けられて、本気にするなよ、などと誰が言えるだろう。少なくとも、俺にはできそうもない。
無言のまま、ぶっきらぼうに骨の手を突き出せば、革の手袋に包まれた細い指が握ってくる。温度のないヒヤリとした感覚と、微かな震えが指骨から伝わってきた。
そこまで怖いならば、やめておけばいいものを。言っても聞かないだろうが。
ニコリと彼女は弱々しく、けれどどこか安心したように笑う。ただの黄ばんだ骨に向かって。
「ほほ。これはこれは、惚れた弱みと言うやつですかな?」
「……おい青カビ野郎。次に余計なこと抜かしたら、その舌引っこ抜くぞ」
言外に、さっきの続きがしたいならそう言え、と黒い孔でバンハルドを睨みつける。
男だ女だ? 惚れた腫れた? 馬鹿馬鹿しい。動く死体が生物の真似事などした所で何も生み出すことはないのだから。
ただ、俺の中に何の感情もないのかと問われると、それは嘘になる。そうでなければ、利のない旅に手を貸そうなどと思いはしない。
――惚れた弱み、か。実際、大して変わらんのだろうな。ウン・モーソレムに見た夢の続きを、俺はまだこいつに。
ハイコープスならあるいは、アンデッドという存在そのものをひっくり返せるかもしれない。人間が見続けた再生の未来を、イアルならば。
「貴女の勇気と優しさに敬意を表します、イアル。しかし、何か異変を感じた時は、決して堪えることのないよう、どうか」
「うん、約束」
穂芒は試みることを決心したらしい。触れ合うことのできない影は、念力を持ってイアルの腕をゆっくりと持ち上げ、互いの掌を静かに合わせる。
閉じられた意思を開くとはどんな感覚なのか。否、何の練習もなしにできるものなのか。俺には全く想像もつかないが、イアルは特に動揺した様子もなく静かに目を閉じていた。
「参ります」
穂芒の宣言に、イアルの手を静かに握り返す。意味があるかなどわからない。ただ、そうするしかなかったというだけで。
少女の形を成していた影は、まるで墨が滲むかのようにゆっくりと、触れ合った掌を通してイアルの中へと溶け込んでいく。
小さな掌から緊張はずっと伝わっていた。しかし、彼女の身体から痛みや苦しさに震えるようなことはなく、やがて穂芒の影は完全に消滅した。
残されたのは1つの体。果たしてどうなったのだろうかと、俺とバンハルドが顔を覗き込もうとした時である。
細い膝がガクンと、まるで糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
「イアル!」
咄嗟に握っていた手を引いたことで、頭から床に叩きつけられるような事態は避けられた。
だが、ゆっくりと寝かせた身体は完全に力が抜けきっており、肩を揺すっても全く反応がない。
これは不味いのではないか、とバンハルドへ視線を流す。何せ俺は、霊体型という存在を知ってこそいても、憑依の瞬間など見たことはなく、これが正常かどうかなど判断ができないのだから。
しかし、レヴナントの使用人はジッとイアルを見つめたまま何も語ろうとはしなかった。おかげで、いよいよ焦れてきた俺が、何とか言えよ、と声を上げようとした時である。
「……世界とは、鮮やかなものですね」
その目覚めは唐突だった。
イアルの声ながら、明らかに異なる口調。何より、どこか射抜くような瞳が、腕の中でこちらへと向けられていた。
「お前、穂芒、なのか?」
「はい。この意識は間違いなく、私自身のものです」
背中を支えてやれば、彼女はゆっくりと体を起こす。手を握り開き、首を回し、息を吸って吐いてと、その様子はまるで、新しい服を試しているかのように見えなくもない。。
やがて、一通り体を動かせることが確認できたのだろう。穂芒は服の裾を整えながら、俺の真正面で居住まいを正した。
「イアルは、どうなったんだ?」
「どうかご安心ください。身体の中にあの子の息吹を感じます。私が混ざりあった衝撃で、眠ってしまっているようですが」
違和感の塊とでも言うべきか。元々囁くようなイアルの声に、どこか張り詰めたような凛々しさが混ざり合って、腹話術でも見せられているかのように思えてくる。
「今は、それを信じろと?」
「彼女が目覚める他に、証明する術があるのなら別ですが」
「……だろうな。立てるか?」
「ありがとう存じます」
穂芒は俺の差し伸べた手に掴まって立ち上がるも、久々の肉体だからか、その動きはどこか覚束無い。
少なくとも、彼女の憑依が成功したのは間違いないだろう。逆に言えば、それは数秒前のイアルに戻ることができなくなった証左でもある。
時が経てば元のように目覚めるのかは、当事者でない俺に知りようもない。加えて、仮に穂芒の言に嘘があったとして、今更何ができようか。
結局のところ、俺には信じる他にないのだ。
一方、勤めを果たせた青い死体は、乾いた身体を打ち震わせて跪いた。
「おお……! お嬢様、再び貴女様が物質と触れられる日をお目にかかれ、このバンハルド感激でございます……!」
「ありがとう、バンハルド。ただ、此度の件の過失については、後ほど罰を与えますのでそのつもりで」
「ははぁっ! 全てはこの身の勝手による罪、甘んじて受けさせていただきます!」
追加の折檻が決定してもなお、バンハルドは妙に嬉しそうな様子で畏まる。麗しのお嬢様が、少なくともすぐに消えてしまうような事態を避けられたことが嬉しいのだろう。
罰と聞いて一層鼻息が荒くなったように見えるのは、俺の気のせいだと思いたい。
お付きのレヴナントがそんな調子でも、穂芒は気にした様子もなかった。
否、視界に入っていないのではないようにも思える。何せ彼女は、借り物の小さな手を握って開いてと数度繰り返してから、怪訝そうな表情をこちらへ向けてきたのだから。
「素宮、この身体は――」
「悪いが、話なら今度にしてくれ。こちとら、夜通しの面倒事に巻き込まれてるんだ。宿代含めて割に合わん」
被せるようにして言葉を遮る。
長く防腐死体を宿主として過ごしてきたレイスならば、イアルの違和感に気が付くのも不思議はないだろう。
だが、何を聞かれた所で、伝えるかどうかを判断するのは体の持ち主だ。雇われの骨が口を挟むべきではない。
こちらの意図に気付いたかどうかはともかく、穂芒は短い沈黙を挟んだのち、続く言葉を飲み込んだ。
「……失礼致しました。バンハルド」
「ハッ」
「私の服を持ちなさい。今宵の事態を収拾します」
■
流石に元支配者層と言うべきか。
穂芒は黒を基調としたドレスに身を包むと、広間で待たされていた雇われアンデッドたちの前に姿を見せた。
彼らからすれば、自分たちの攫った相手がいきなり大上段に現れたことで、揃って間抜け面を晒すしかなかったのは言うまでもない。
しかし、良く努めましたという労いの言葉もそこそこに、バンハルドから報酬の入った布袋が手渡されるや、困惑していた空気が一転する。
「れ、れ、霊石ぃ!?」
ハンチングを被ったリーダー格らしい骸骨が声を上げるや、アウトローたちはこぞって彼の手元を覗こうと団子になった。
市民階級が嗜むような品を前に、彼らが興奮するのは当然のこと。事実と分かった途端、大きな歓声のうねりが広間を支配した。
まるでパーティのような光景。その中には頭蓋骨を小脇に抱えたスケルトンや、札の破れたキョンシー、凹んだ兜のゾンビなどと言った、どこかしらで見覚えのある連中も混ざっている。
最早彼らは、今宵の苦労などどうでもよかったのだろう。ワイワイガチャガチャ言いながら、慌ただしく引き上げていき、夜中の珍騒動は終わりを告げた。
至る現在。
空は白むどころか青く透き通り、陽光が燦燦と降り注ぐような頃合いに、俺は刺々しいオートバイのエンジンをようやく止められた。
「結局朝までかかったか……大損もいいところだな」
後ろからついてきた車を一瞥し、癖のようにため息のフリを1つ。
群れを成すコンテナハウスの中、俺はその中心に置かれた銀の扉を押し開いた。
昨晩と違い、ダイナーの中に客の影はない。ただ、大柄なスケルトン従業員が酔いつぶれた阿呆の片づけに追われているところだった。
「あぁゴメンなさいねぇ、今朝はもうラストオーダーを過ぎちゃってぇ――あんらァ?」
「飯なら必要ない。ただ、もう一泊頼んでいいか」
カウンターに肘をつけば、チェーンを体に巻いたオネエ骸骨がくねくねと歩み寄ってくる。
当然のことながら、骨の顔に表情はわからない。ただその雰囲気から、どことなく上機嫌なことは受け取れた。
「その様子なら、上手くいったのね」
「アンタのおかげさ、エコウ。その貸し分って訳じゃないんだが――」
ポケットから引っ張り出した握り拳を、カウンターの上に開く。
エコウは想像もしていなかったのだろう。コロリと音を立てたソレを見た時、下顎骨が限界までぱっかりと開かれた。
「部屋は最上級の奴を頼む。昼からはルームサービスもだ」
「え、ええ……喜んで?」
昨日のケチ骨が、今朝になってオーバーチャージクレジットの束を置いていく。普通なら、作り話にしたってあまりに都合がよすぎて鼻で笑われそうだが。
如何せん今日の同伴者は、そこらの屑とは訳が違うのだ。
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