第9話 ぜんぶ

 砂漠に生えるコンクリートの塊。

 元は高層ビルか何かだったのだろう。砂の上に倒れて沈んだソレの、何もかもが傾いている一室に、俺たちは潜り込んでいた。


「ハイコープス……ねぇ。噂くらいは聞いたことあるけどサ。ふーん」


 白い指が膝の中でこねくり回すのは、ガスマスクを失った青白い頬。フードも下ろされており、獣の耳かのように跳ねる特徴的なアッシュの癖髪が、右へ左へ揺れながら、あー、とか、うー、とか奇妙な呻き声を垂れ流している。


「ふぁの、おふゅろひゃん、ほろほろひぃへふはぁ……?」


「あぁゴメンネ。あんまり綺麗な肉の体してるもんだから、ついつい触りすぎちゃった。髪の毛も羨ましいなァ」


 肉どころか皮も毛も持たない骸骨にとって、ハイコープスの生物じみた姿が魅力的に見えるのはわかる。

 とはいえ、流石にやりすぎたと思ったらしく、尾白が慌てて細い手指を離せば、イアルは逃げるように膝から脱出し、プルプルと大きく頭を振ってから息をついた。

 まるで飼い猫か何かのよう。尾白が同じように感じたかはわからないが、イアルが俺の隣へ腰を下ろしたのを眺めると、ふぅんと言いながら、何やら興味深そうに自らの頬を撫でた。


「理屈とか小難しいことはともかく、おチビちゃんがハイコープス仲間を増やすために、死者の都を目指してるのはわかったヨ」


 頬をこねくり回されながら、モニョモニョと喋り続けたイアルの努力は報われたらしい。

 ハイコープスという出自も含め、今の所誰彼なしに言いふらせる話でもないだろうが、尾白になら問題ないだろう。

 勿論、ただ飲み込んだだけで終わる女骸骨ではないのだが。


「けど、それと素宮になんの関係があんの? 必死でこだわってたみたいだけどサ」


 チラと4つの視線がこちらに刺さる。片方はひたすら訝しげに、もう片方は言っていいものかと逡巡するような様子で。

 確かに隠していたことではある。それこそ、喧伝するような事ではなく、余計な疑問を挟ませないために。

 ただ、この状況をだんまりで通せるとは流石に思えず、俺は諦め気味にイアルへ向かって小さく頷いた。


「えっと……素宮さんは、元々ネクロポリスのガードなんだ。それに、私を作ってくれた人が、彼ならって信頼していたから」


 コーンと、顎の落ちる音がした。

 驚愕とはある意味で、骸骨がハッキリ表現できる表情の数少ない1つかもしれない。

 尤も、驚かされたのはパックリと下顎骨を垂らした尾白に限った話でもないのだが。


「は!? ネクロポリスのガード!? こいつが!? ていうか、アレって実在の町なの!?」


「あのウンから信頼、ねェ? 適当に思いつく名前を喋っただけにしか思えんが」


 外でいくら珍しがった所で、セントラルガードはあくまでただの治安維持組織。それこそ高い階級を誇っていたり、あるいは特別に成績優秀だった者ならばともかく、俺は有象無象の下級ガード。いわゆる一兵卒に過ぎない。

 そんなのを、研究機関の天上人がご指名とは、中々馬鹿らしくて笑えてくる。よく俺の名前など覚えていたものだと。

 ただ、そんな態度が言葉に信憑性を与えたのか。顎を閉め直した尾白は、マジかよ、と小さく零した。


「じゃ、じゃあ何? アンタ、そのネクロポリスから、こんな辺境の砂漠まで、1人で流れてきたってこと?」


「大昔のことだ。今の俺は、掃き溜めにたむろするひと山いくらの骨に過ぎん」


「うん、そうネ――って言えると思うか!? 神秘主義も大概にしなさいよアンタ!」


「言ったからどうなる物でもないだろ」


 尾白は何か言いかけて、言葉にならないままグッと口を閉じた。

 どんな形であれ、生きる場所によって流儀はある。当然市民様のソレとは大きく異なるのだろうが、世界が違うようなものなのだから、文句を言われる筋合いもない。

 廃材と貧困が支配する掃き溜めに暮らす中で、他人の過去など何の足しにもならない。今日明日の飯に関わらないのなら、そんな物はどうだっていいのだから。

 それが分からない程、尾白の乾いた頭も春爛漫ではないらしい。面倒くさい話は終わり。

 そのはずがどうしてか、俺の袖口は小さく引っ張られた。


「けど、素宮さんの持ってる経験は、やっぱり特別なものだよ。ウンさんがあなたを頼れって言ったのは、偶然思い出したからなんかじゃない。絶対に」


 こちらを見上げる青い瞳。どこか眠そうに見える垂れ目から、何故か確信に満ちた感情が伝わってきて、一瞬言葉を失ってしまう。

 単なる呆れか何かへの躊躇か。どちらにせよ、生まれた僅かな隙は、白骨の声を盛り返すには十分な時間だったらしい。ぐいと尾白はその身体を前に乗り出した。


「そうじゃん! ネクロポリスまでの行き方を知ってる奴なんて、この辺じゃ他に居ないだろ? 手伝ってやんなよ、ここまで首突っ込んだんだからサ!」


「簡単に言うな。俺があのクソみたいな都市から逃げ出して、ここまでたどり着けたのは、ほとんど奇跡みたいなもんなんだ」


「だったら尚更じゃないの! こーんな可愛い子がアンデッドの希望を背負ってんのに、1人でどヤバい旅路に放り出すのが、まともな骸骨のすることか!」


 声を荒げ、細い人差し指を突きつけてくる白骨に、呼吸などできもしないはずの俺は、意識の中で小さく息を飲み、再びそれを大きく吐き出しながら、彼女を睨み返す。


「お前な……その日暮らしの労働者に、長旅ができるだけの金や装備があると思うか? 俺にだって生活があるんだぞ」


「どの口が言ってんのサ。元々町に転がり込んできた時は、ボロッボロの布を身体に巻いただけの文無しだった癖に。今のアンタはただ、昔を思い出すのにビビってるだけでしょう?」


 ありもしない喉から何かの反論が出かかって、しかし俺は顎を鳴らしもせずに黙り込む。

 情けない男と挑発する方は、過去とここまでの道のりを知らないから何でも無責任に吐き棄てられる。そんなもの、鼻で笑ってやれば終わる話だ。

 分かっていながら、俺は沈黙していた。どうしても、お前に何が分かる、という短い言葉が投げられない。

 自分は、何を怖がっている。あるいは、何を望んでいるのか。答えを出せずに固まっていれば、隣で襤褸布がもぞもぞと動いた。


「あの、素宮さんを悪く言わないであげて。これは私とウンさんのワガママなんだ。それなのに、素宮さんは色々してくれて、手帳も貰ったから」


 光や輝きを灯さない眼孔が青白い肌を見る。

 イアルはどこか、申し訳なさそうに笑っていた。僅かながら、憔悴しているようにも思える。


「それでいいのかい、イアル。我儘ってのはサ、最後まで貫いた方がいい時もあるんだよ?」


「ありがとう、尾白さん。でもいいんだ。私、先に休むね」


 尾白が差し伸べた手を、彼女は緩く首を横に振って拒むと、そのままゆっくりと部屋の片隅にある闇の中へ身体を溶かしていく。

 決意を秘めた小さな背中と、同情を向ける磨かれたような白い骨。その中で現実と向き合って煤けた自分という存在。

 馬鹿げているのは果たしてどちらか。


「――いくらだ」


 乾き切った声が出た。

 薔薇の模様が刻まれた白骨と、ガスマスクを失ったボロのフードが振り返る。

 その一挙一動全てが、何なら見える世界の全てに対し、今は無性に腹が立つ。


「いくらって――何が?」


「言っただろう。俺は日雇いの労働者だ。働かせたいなら、相応の価値を示してみせろ」


「で、でも、私にお金なんて……」


 イアルは怯えたような、あるいは諦めたような空虚な目を、ゆっくりと足元へ落としていく。

 彼女は言葉そのままに理解したのだろう。雲のような掴みようのない希望は、己に纏わりつく絶望の影を、ひたすら重く濃い物へと変えていく。

 そんなあからさまに沈んでいく痛ましい様子を、お節介女が黙ってみていられるはずもない。ガツンと地面を叩くような勢いで立ち上がり、黒い孔でこちらを睨みつけた。


「素宮、アンタねぇッ!」


「黙れ尾白。俺たちの扱いなんて、お前が誰よりもよくわかっているだろう。同情なんて生活の足しにならんもので、労働者は集まりはしない」


 身体を微塵も動かさず、感情も揺らさない声で現実を突き付ければ、尾白はグッと顎を閉じる。

 責任を負わない正義を叫ぶことくらい、誰にだってできるのだ。そんな言葉に価値はなく、助け船を砕かれて一層小さくなったフード姿に、俺は呆れを感じてため息をついた。


「イアル。お前、掃き溜めで何を見てきた。ただ適当に手を動かしてただけか?」


 俺は彼女の青い目を見つめる。暗い眼孔は、他に何も映さない。

 美しく、羨ましくさえ思えるハイコープスの瞳。そこに反射して見えるのは、ひたすら恐ろし気な骸骨だ。


「あの場所は、何も持たない塵芥の行きつく末だ。誰が灰になっても気にすらされないが、それでも、金を稼ぐ中での取り決めだけは、どんな馬鹿でも知っている」


 カタリと顎を鳴らして言葉を紡ぐ。怒気も呆れも、空虚な喉の奥に押し込めて無感情に、あるいは己に何かを言い聞かせるかのように、歯の隙間から声が出ていく。

 気付かないならそれまでのこと。だが、上目遣いにこちらを眺める少女は、中身のある頭できっと色々考えた。

 俺の言わんとしていることを、自分の見てきた記憶と重ね合わせて。


「お金……お金、の……取り決め――っ」


 ほとんどの場合、掃き溜めにおける報酬は、目に見える成果によって決まる。別にアンジェライムの収穫作業が特別な訳じゃない。

 歩合制と言い換えても問題ないだろう。多くは日雇いで契約が継続しないことも含め、必然的に報酬はその日払いの後払いとなった。

 そしてイアルにとって、重要なのは後者だろう。気のせいかもしれないが、青白い肌が僅かに紅潮したようにすら見えた。


「もう一度だけ聞くぞ。お前はこの仕事に、どれだけの報酬を約束する?」


 身体を包む襤褸布の奥。薄い胸が息を吸い込んで前後に揺れる。その前に添えられた青白い手は、決意をするように小さく握られ、透き通る目が俺を見据えた。


「全部」


 イアルは言い切る。

 存在しないはずの胃が、心臓が、幻肢痛のように震えた気がした。


「私の持ってるもの。叶えられること。何もかも。私をネクロポリスに連れていってくれるなら、全部全部、あなたにあげる」


 言葉だけならなんとでも言える。何なら、こちらが答えを誘導したと言い訳もできよう。

 ただ、長い間見ることのなかった人間の表情が、震える口を結んだ緊張と決意の表情が、安っぽい宣誓に本気を重ねていた。

 骸骨に腹など存在しない。だが、たとえ背骨であろうと括らねばならないのは、やはり俺の方なのだろう。


「パッとしないが、今は及第点ってことにしといてやる。その代わり、割に合わんと思ったら即降りるからな」


「……ありがとう」


 ふわりとフードの中で浮かんだのは、心の底から安堵したような表情。それはあまりにも真っ直ぐで、余計にそんな顔をするなと言いたくなる。

 これで目的達成に近づいたと思うなら、乾いていない頭の中は、骸骨以上にスッカラカンなのだろう。ただでさえ、俺に信頼出来る部分なんて何1つないはずなのだから。

 それでも、イアルは柔らかく微笑む。おかげで吐きかけた毒は行き場を失い、結局俺は無い鼻をフンと鳴らして視線を逸らすしかなかった。

 我ながらなんと間抜けなことだろう。隣でクククと白骨が肩を揺らすのもむべなるかな。


「ったく……素宮サァ? そのひん曲がった性根、ちょっとは直しとかないと、急にフラれても知らないよ」


 髑髏から表情が読み取れる訳では無いが、尾白はどこか勝ち誇ったような様子で、白い人差し指をひらりとこちらへ向ける。

 いや、実際勝ち誇っているのだろう。他人事のような雰囲気を醸し出す白骨に、俺は冷ややかな視線を向けた。


「ひん曲がった、か。立場を隠してるお前には言われたくないがな」

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