1-6

 午後十一時————

 通常ならば、高校生が帰宅するにはあまりにも遅すぎる時間帯。そんな真夜中に、僕は家の玄関先で佇んでいた。


 もはや疲労で思い出すこともままならないが……気を失った後、僕が気付いたときにはすでに別室へと運ばれていた。そして目を覚ますとすぐさま、警察官による事情聴取を受ける羽目になった。


 状況が状況であり、また出水でみずも残っていてくれたおかげで、幸いにも容疑者扱いされることはなかった。その上高校生で、しかも制服姿のままであったため、そのまま帰されることは無く、警察は親切にも自宅まで送ってくれたのだ。


 被害者の情報や、その後の話などは一切得られなかったものの、もうそんなことはどうでもいい。こうして無事に帰宅できただけで充分だ。


「ただいま……」


 普通の両親ならば、こうして子どもがこんな時間に帰宅すれば心配にも思うだろう。当然、警察からはすでに連絡が入っているのだが、直接何があったのかと問いただそうとするはずだ。


 しかし、残念ながら僕の両親は普通ではない。一人息子が、たとえ夜遊びをして帰ろうが、ミーチューバーとなろうが……何も言わないのである。


「……」


 予想通り、暗い室内から返ってくるのは耳が痛くなるほどの静寂だけだ。もはや、この家の中で音を発しているのは僕だけであった。今日くらいは、おかえりと言って欲しかった。不安と恐怖にまみれた僕の心に、少しでも光を灯して欲しかった。


 ……なんて、軽い冗談だ。彼らにそんなことをされては、逆に不安に思ってしまう。


 ああ、それにしても疲れた。


「……」


 無言のまま自室へと向かい、適当に制服の上着を脱ぎ捨てそのまま寝転がる。シャワーを浴びる気力など、もはや残されていない。すぐにでも真っ暗闇に意識を委ねてしまいたかった。


 都合よく、明日五月二日は土曜日。そしてそのまま短期休暇に突入するのだ。私立高校なので土曜日にも授業があるのだが……明日は休もう。学校にもこの連絡は伝わっているはずだし、理解はしてくれるだろう。


 身体が一層重くなり、瞼も自然に閉じてゆく。意識も、それに併せて徐々に遠のいていく。ゆっくりと呼吸をし、眠る体勢に入ろうとした。


 しかし――――


「っ!」


 目を閉じると、どうしても浮かんできてしまう。


 便座に座った、頭部のない女性の遺体。その手に抱えられた青白い顔。赤黒い液体に染まる便器。切断部の生々しい肉と骨の色。滴る血の――――


「うっ……」


 胃液が逆流し、喉を刺激する。ベッド上ここで吐かないよう、急ぎトイレへと向かう。


 しかし、それは逆効果であった。急いで駆け込んだ先にあったのは、もちろん便器だ。そう、あの遺体が鎮座していた、乳白色の陶器が不意に目の前へと現れたのだ。


「! ……ぐ、ゴホッ!」


 先ほどより鮮明に映像がフラッシュバックし、その場で嘔吐してしまう。ボタボタと胃液が床に飛び散り、異臭がトイレ中に漂う。


 言うまでも無いが、夕食など一切口にしていない。それ故に、吐き出されるものは胃液くらいしかなかった。ある意味、それが幸いしたとも言えようか。固形物のない粘液を拭き取るのは、そこまで苦ではない。だが、問題はそこではない。


「はあ、はあ……う、うう」


 よろよろと壁にもたれかかり、眼前にある陶器をその視界に入れないよう、必死に目をらす。この状態でまたあの光景がフラッシュバックされては、体力が持たない。


 もつれる脚に軽く鞭を打ち、洗面所へと向かった。雑巾を探すのもそうだが、まずはうがいと洗顔だ。こびり付いたあの気持ち悪さを、とにかく洗い流すことが先決である。


 大の男が情けない、そう思う者もいるだろうが……そうであれば、是非あの遺体をその目で見てみるといい。少なくとも、しばらく食事が喉を通ることなど有り得ないだろうから。


 蛇口から流れ出る水の冷たさは心地よく、沈み切った気持ちを少しだけ切り替えさせてくれる。まだ鼻や口には気持ち悪さが残るものの、何度かうがいを重ねればそのうちに消えてくれるだろう。


 ヴーン、ヴーン


「っ!?」


 一つ息を吐いたと同時に、ポケットに入れたままであったスマートフォンが振動を始めた。もうそろそろ日付も変わろうというこのタイミングで、である。しかもこの振動のパターンは、メールではなくだ。


 恐る恐るスマートフォンを取り出し、画面表示を確認する。無料通話アプリからの電話の通知表示だ。その相手は――――


「西、野……?」


 西野にしの 心深ここみ。僕たちと折り合いの悪い、あの生徒会長からの着信であった。




 ★



「どう、少しは落ち着いた?」

「……う、うん」


 手にしたマグカップをテーブルへ置き、ふう、と大きく息を吐く。体中に温かいココアが染み渡り、加えてその甘みで少しだけ元気が出てきたような気もする。


「そう、良かった。でも、本当に無事でよかったわ。まさか水島みずしま……いいえ、夏企なつきがそんな事件に遭遇するなんて思わなかったもの」


 そう言って、彼女はいつもの厳しい表情ではなく、優しい微笑ほほえみを向ける。まるで、本当の家族を見守るような温かい目であった。


「ごめん、心配かけて。……でも、ありがとう」

「どういたしまして。普段からそんな風に素直だったら良いのだけど?」

「おい」

「ふふふ、冗談よ」


 全く冗談に聞こえなかったが、それはまあ良いとしよう。彼女が来てくれて助かったというのは、紛れもない事実なのだから。


 学校ではあれだけいがみ合っていた僕たちが、どうして普通に会話でき、しかも家に上がるほどの仲であるのか。きっと不思議に思われるだろう。もちろん実際に激しくぶつかっていたのだから、その疑問は当然のことだ。


 しかし、その答えはとても単純なものである。僕たちはもともと幼馴染で、高校に上がるまではよく遊んでいた、というだけの話なのだ。


 西野との出会いは、もう十年以上も前になる。僕の父と彼女の父は同僚……つまりは、厚生労働省の官僚同士であり、また地元が同じだったということもあって意気投合し、家族ぐるみでの付き合いをしていた間柄なのだ。


 僕は、西野と出会った当時からすでに『サヴァン症候群』を発症していた。ああ、厳密に言えば『瞬間記憶能力に目覚めていた』と言うべきか。とにかく、そんな僕にはほとんど友だちがいなかった。いや、全くいなかったと言っても過言ではない。そんな中で、彼女は持ち前の正義感と母性を発揮し、僕をまるで本物の弟のように大事に扱ってくれたのだ。


 僕も、初めのうちは他の人と同じように距離を保ち警戒していたのだが、西野のその雰囲気に、いつしか心を許すようになっていた。それこそ、彼女を本当の姉のように慕うほど、だ。


 ところが、僕と彼女の関係は、ある日を境に一変した。


 高校生になる直前、僕の怒りが爆発したのだ。怒りの矛先は当然、両親に向けたものであった。


 僕は、瞬間記憶能力という特殊な能力を兼ね備えていたものの、それ以外の能力……読解力や計算力など、そういったものはごく平凡だった。それ故に、天才だとはやし立てる人たちの期待を裏切らぬよう、精いっぱいの努力を重ねる日々だった。


 あらゆる書物を読み漁り、その全てを頭に叩き込んだ。自分に足りないものを補おうと、とにかく必死だったのだ。それが両親への恩返しになると、そう信じていた。


 しかし凡才が幾ら努力したところで、本当の天才たちには比肩することすら叶わなかった。そして中学の卒業式、成績優秀者として表彰されなかったことに両親は怒り、僕を激しくなじったのだ。


「恥を知れ」

「怠け者だからよ」

「次はないからな」


 そう二人は散々とけなした挙句あげく、父親は僕の頬を殴りつけたのである。


 ————その瞬間、頭の中で何かが弾け飛んだ。今まで封印してきた想いの全てを爆発させたのだ。


 目の前にあるものを手あたり次第、全て投げつけた。両親は戸惑い、止めるよう説得を試みたらしいが、当時の僕にはまるでその声など聞こえなかった。


 ただ闇雲に、そこにあった全てを……努力を重ねてきた過去の全てを清算するかの如く、ぶっ壊したのだ。


 そして運悪く、そこに西野 心深は現れた。「卒業おめでとう」とでも言いに来たのだろうが、家の異様な雰囲気を察して、急ぎ駆け込んでしまったのだ。


 そこで、不幸な事件は起きてしまった。


 不意に現れた彼女に、僕は投げつけてしまったのだ。木製フレームの写真立て……しくも二つの家族で撮った写真の納められた、思い出の品を。


 あの光景は、今も忘れていない。まあ僕はもともと、何も忘れることは無いが……たとえそうでなくとも、生涯忘れ得ぬ光景を目の当たりにしてしまった。


 額から激しく流血する西野。何か叫びながら僕を殴りつける父親。そして彼女を抱きかかえ、泣き叫ぶ母親……そこでようやく事の重大さに気付き、僕はただ燃え尽きたように立ち尽くしたのだった。



 その事件をきっかけに、僕の家族はもちろんのこと、西野の家族との関係も、完全に壊れてしまった。



 彼女の家族からすれば当然である。可愛い一人娘の顔面を……額の上部であったため、髪を下ろしていれば目立たない部分であるが、深く傷つけられたのである。その怒りは相当なものだっただろう。


 そして、僕の両親もそれは同じであった。彼らからすれば、最高の作品を創り上げていたはずが、とんだ駄作へと成り果てたのだ。そうなってしまえば、もはや愛情を注ぐ価値などない。従順でないペットなど、不要なのだ。


 その中でただ唯一、西野本人だけは一切気にすることなく、いつもと変わらぬ笑顔を向けてくれていた。むしろ、家族関係が崩壊してしまった僕の心配をするほどであったのだ。


 だが僕にとって、西野の笑顔はあまりにもつらく、同時に悔しかった。一生消えない傷跡を、その顔につけてしまったという罪悪感。我を忘れて暴れるという、愚かな行為に走った自分の幼稚さ。それらを強く、強く……まるで呪いのように、その身へと刻んだのである。


 それから、僕は西野を避けるようになった。同じ高校に入学こそしたが、彼女とはなるべく話さないように心掛けた。馬鹿な僕の行動で、もう彼女を傷つけたくなかったのだ。


 西野は当初こそ、何度か声を掛けてくれていたのだが、僕の態度に嫌気が差したのか、それとも僕の心中を察したのか……徐々に彼女から話しかけてくることも少なくなり、いつしか言葉を交わすことすらもなくなった。


 そうして、高校入学から一年が経過した。


 本来であれば、そのまま僕たちの関係はフェードアウトしていくはずであった。しかし、二年生になり新たなクラスとなった頃、僕の前に金子かねこが現れたのである。


 あれは二年生となって初めての登校日のこと。帰り支度をしていた矢先、彼はいきなりこんな話を持ち掛けたのである。


「なあ、お前が水島だろ? あの超能力を持つ、っていう」

「……」

「ちょっと話があんだけどよ……動画制作、やらねぇ?」

「は?」


 これが、金子との初めての会話である。思えば何とも失礼なのだが、当時の僕に話しかけるような人間はおらず、しかも興味深い話まで持ち込んできたのだから、ほとんど二つ返事で彼の思惑に賛同したのだった。


 それから僕と金子は、空き教室の隅でコソコソと活動を始めたのだ。


 僕にとって彼の提案は魅力的だったが、生徒会長にまで昇りつめていた西野からすれば、とても面白くない話である。弟のように面倒を見てきた男が、好ましくない相手といかがわしい活動を始めたのだから。


 その日以来、西野は僕に突っかかるようになっていた。何かやらかしていないかとか、また変な動画を上げようとしているのか、などと、まさに口うるさい姉のように。


 ある意味、それがきっかけでまた言葉を交わす仲に戻ったとも言える。表面上はいがみ合っていたのだが、いつの間にやら普通の会話すら出来るほどに、僕たちの関係は元に戻りつつあった。



 こういう訳で、西野と僕の関係は不思議な偶然の下に成り立っているのである。とはいえ完全に昔のような関係に戻った訳では無いし、こうして家にまで上がり込んでくるようなことは、実のところ以来のことであった。逆に、今回の件はそれほど彼女に心配をかけてしまった、とも言えるだろう。


「それにしても夏企、災難だったわね」


 重い思い出に浸る僕へ、西野が安堵したように問いかける。


「詳しい話は聞いていないけれど、出水さんも心配していたわ。明日、学校でちゃんと顔を見せてあげてね」

「そう、なんだ。……ってことは、何があったのかはなんとなく聞いたんだな?」

「出水さんから、少しだけね。それと高城たかしろさんのことも。本当なら、私も何があったのか詳しく聞きたかったのだけど……今は止めておくわね。夏企、とても酷い顔をしてるもの」

「ああ、そうしてくれると助かるよ。落ち着いたら、何が起きたかはちゃんと話すから」


 そうか。出水はあの後、女子トイレに戻らなかったのか。なんとも幸運な奴だ。しかし西蓮寺さいれんじは、なんと不幸なのだろう。まさか個展を開いていた会場でそんなことがあるなんて、営業妨害も良いところだ。本当に、いろいろな偶然が重なってしまったものだ。


「ん……?」


 偶然? あの事件は本当に偶然、だったのだろうか。


「夏企?」


 表情の変化を見抜いた西野は、少し不安げに僕の顔を見つめる。あの事件に関する考察をしていた、などと知られる訳にもいかないだろう。きっと余計なことは考えるな、と怒られるに違いない。今はとにかく、彼女を無事に家へ帰すことに集中しよう。


「なんでもない。……さてと。明日もあるんだし、西野はもう帰った方が良いよ。こんな時間に外をうろついていたら、両親に怒られるんじゃないか?」

「まあ、それはそうだけど……本当に大丈夫? まだ真っ青よ?」

「大丈夫だって。吐くものは吐いたし、少し元気も貰ったから」


 そう言って、素早く立ち上がって見せた。実のところ、まだ頭はぼんやりとしているし、胃もキリキリと痛んでいる。だが、これ以上彼女に迷惑をかけるのは申し訳ない。それに、すでに深夜帯に差し掛かっているのだから、いくら治安の優れた日本であるとはいえ、絶対に何もないとは言い切れない。


「ほら、この通り」

「……空元気にしか見えないけれど。まあ夏企がそういうなら、とりあえず帰るわね。辛いとは思うけど、こんな時こそいつも通りの生活を心がけて、ね?」


 バレていたか。しかし、それが僕の気遣いだということにも気付いたのだろう。西野はそれだけ言うと、静かに立ち上がって玄関へと歩き始めた。


 靴を履き終え扉へと手を掛けた西野は、なにか思い出したことがあったようで、僕へと向き直る。


「そうだ。さっきも言ったけど、学校にはちゃんと来なさいね。独りでいると、余計なことを考えちゃうだろうし」

「……善処するよ。それより西野の方こそ、動画に出演するんだからあまり夜更かしするなよ。肌が荒れるぞ」

「そう思うなら、心配させるようなことをしないでね。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ」


 本来ならば家まで送るべきだろうが、その際に彼女の両親と鉢合わせしてしまえば、ややこしいことになる。僕たちは絶縁し、もう関わらないようにと念を押されているのだ。


 西野を見送った後、自室へと戻りながら先ほど考えについて、改めて思い巡らせる。状況的には偶然としか思えないのだが、本当にそうだったのだろうか。


「……分からないな」


 ダメだ、何も思いつかない。仕方ない、一旦あの場面を思い出すことにしよう。いい加減あの光景に慣れないと、排泄の度に嘔吐することになるのだ。学校で吐いてしまったら、それこそ余計に西野たちを心配させてしまう。


 確か、女子トイレの奥から二番目の個室、だったな。ドアを開けた先には、黒いパンプスを履いたスーツ姿の女性。切断された首。その両腕に抱えられた、青白い————


「くっ……!」


 込み上げてくる胃液を何とか押し込みつつ、ベッドへ横たわる。やはり、思い出せたとしても気分が悪くなる以外に何も思いつかない、か。


 しかし、あの遺体の顔は、ずいぶんと穏やかだったな。まるで苦痛を感じていないような表情だったから、よほど綺麗に、勢いよく切り落としたのだろう。そうでなければ、あんな表情が出来るとは思えない。鋭利な刃物で、一刀両断したのだとすれば、居合とか、もしくは……。


「……まさかギロチン、ってことはない、よな」

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