2-10
午後九時。『カフェテラス・ボム』を出て、予定どおり僕の部屋でこれまでの経緯を話し始めた。
「――――そういうわけで、僕は真中さんと学校に戻ってきた。そのあとのことについては……まあ、説明するまでも無いよな?」
「……ええ、よく分かったわ。ありがとう、素直に話してくれて」
思いの外、西野は僕の話をすんなりと受け入れてくれたようで、それ以上僕に何か言及することはなかった。その反応に拍子抜けしてしまい、安堵よりも寂しさにも似た感情が押し寄せる。
もちろん僕に質問したところで答えられる範囲などたかが知れているし、そういう意味では西野の判断は正しい。だが、それでも少しくらい僕の意見を聞いてくれてもいいと思うのだ。何せ、僕は普通ではないのだから。
「でも、そうね……」
微妙な心境の僕をよそ目に、西野は窓の外へと視線を移しながら問いかけてきた。
「夏企の話したことが、すべて本当のことだとすれば、よ? 夏企たちが警察に対して貢献できるようなことは、何もないと思うのだけれど。大島さんの事件については推測の域を出ないし、真中さんの妹さんの件は監視カメラだとか、そういうものを確認すれば結果が分かることじゃない。違うかしら」
「……」
ぐうの音も出ないほどの正論を突き付けられ、完全に沈黙してしまう。むしろ、この発言に納得できないような人間は、ただの馬鹿だと言っていいくらいだ。
西野の言う通り、僕らには何の権力もない。ましてや、事件に関与する動機すらも希薄だ。もし起きたのが大島の事件だけであれば、『あれは自殺ではなかった』などという趣旨の動画を制作できるくらい、他人事として受け止めていたことだろう。
だが木村が目の前で死んでしまった以上、もはや深追いする方がおかしい。連日のように奇怪な死体を目の当たりにして、それでも凶悪事件に首を突っ込もうと思うほど、僕は愚かではないのだ。
「でも」
そう、『でも』。
たとえそうだとしても、先ほど『カフェテラス・ボム』で聞いた情報――木村の死因は失血死であり、彼の胸ポケットにあったという奇妙なポストカード――そんな話を聞いて、じっとしていられるはずが無かった。
明らかに異常な行動をとっていた木村を撮影した映像がなくなった今、頼りになるのは僕の脳……つまり、僕の力なのだ。
「西野は、木村先生が『自殺だった』っていうのか? あの状況で?」
「……」
「真中さん、先生の死因は『失血死』だって言ってた。でも、それは絶対に有り得ない。だってそうだろ? あんなおかしな様子の先生を見たなら、失血死だなんて絶対に納得できない。違うか?」
「それは……」
そう、あり得ないのだ。『飛び降り自殺』をした人間の死因が『失血死』、というのは明らかにおかしい。内臓破裂だとか、そういった物理的外傷由来の死因ならばともかく、木村の転落した周囲には血だまりどころか、血痕の一つもなかったと記憶している。
ならば、失血死であるはずがない。転落する前に死んでいたか、あるいは何らかの方法で血液が抜き取られていた、と考えるのが自然だろう。
それに加えて、あの屋上での異常な行動……カメラを通して顔を拡大していたからこそ、分かったものだが、あれは完全に生きている人間のものではない。
思い出すと総毛だってしまうため、なるべく瞼を閉じないよう西野に話を続ける。
「やっぱり異常だよな。それに、さっき箱崎さんから聞いたことだけどな、先生のシャツの胸ポケットにポストカードが入っていたって聞いたんだ」
「ポスト、カード?」
「ああ。そこに描かれていたのは吸血鬼の絵……しかも、明らかに普通の絵じゃなかったらしい。まだ警察が調べてる途中だけど、きっと西蓮寺の絵だと思う」
「西蓮寺? それって……」
「ああ、そうだ」
そう、僕がこの事件に対し最も興味を抱いた理由……それが、『絵』である。
これがもし、この事件を繋げるものだとすれば。
大島、真中、木村の三人は、西蓮寺の絵に描かれた通りに死んだとすれば。
この事件は、すべて同一人物によるもの。そして少なくとも、被害者と何か関連がある人物による仕業だと考えて然るべきである。
「はあ……そんなもの偶然、でしょ?」
そう考えていた矢先、西野が溜息交じりに言う。
「胸ポケットに入っていたっていう絵が、まだ西蓮寺さんの作品だって決まってないじゃない。決めつけてしまうのは良くないと思うわ」
「関係してるに決まってるだろ。自分の血を浴びて死んだ大島、ギロチンで切断されたように綺麗に刈り取られた首を持つ真中、吸血鬼に血液を全部抜かれてしまったように死んだ木村先生! 何かあるに決まってるだろ!!」
少し感情的になってしまい、声が大きくなり始める。だが、それでも西野は怯みもせず僕を鋭く睨む。
「だったとしても。夏企がこれ以上事件に関わる必要なんて、絶対にない。そうでしょう? だって、心の優しいあなたが、もうあんなものを見るなんて……私に傷を負わせたくらいで心を閉ざしてしまうあなたを、私は、私は……!」
その言葉を聞き、僕は何も言い返すことができなかった。
そうだ、僕はこの女性に一生消えないであろう、という傷をつけてしまっていた。それでも西野は、僕に優しく語りかけてくれた。叱ってくれていた。励ましてくれていた。
ろくでもない両親の代わりに、面倒を見てくれた。学校でも、家でも……そして今、こうして異常とも思える事件に首を突っ込もうとしている僕にさえも、愛想を尽かさず、必死に。
僕は、一体何をしていたのだろう。ムキになって西野に反発し、警察から能力を当てにされて舞い上がって……僕がいるべき世界は、ここだというのに。
そうだ。僕には、この事件がどうなろうとも関係ない。警察へ捜査協力をしようだなんて、間違っている。
「ごめん、西野。そうだよな、おかしいもんな……」
「夏企……」
少し涙を滲ませる西野へ、優しく微笑みかける。そしてゆっくりと立ち上がり、はあ、と大きく溜息を
「しょうがないや。箱崎さんたちには、あとでちゃんと断っておくよ。いろいろ言われるかも知れないけど……特に真中さんには。でも、僕にはもう関係のないことだし」
「じゃあ、約束ね。いい? 絶対に、危険なことはしないで。余計なことに首を突っ込まないで」
「ああ、分かった。……なんか子どもみたいだな、僕たち」
西野の小指に、そっと僕の小指を絡める。非常に子どもっぽい契約ではあるが、どこか懐かしい温かさを感じた。
小指から僕の意思が伝わったようで、心から安堵した様子の西野は今まで一度も見たことのないような、とても気の抜けた表情を浮かべた。それほど、僕は彼女に心配をかけていたのだと気付き、改めて罪悪感と反省の念が心を支配してゆく。
やはり、僕は愚かなのだ。僕は、ちょっと他の人よりも優れた能力を持っているだけの、ただの高校生……それだけなのだ。
「さて……あ、そろそろ帰らないと」
「え?」
「もうこんな時間だし、明日も休みだけれど……この格好だし、さすがにマズいわよね」
「あ、ああ。そうだな」
気付けば、時計はすでに午後十時を指し示していた。撮影のため制服姿のままであった西野を、これ以上遅い時間に返すわけにいかない。これ以上遅くなってしまうと最悪の場合、警察に補導されてしまう恐れもある。
「じゃあ、気を付けて」
「うん。でも良かったわ、夏企がちゃんと私のことも考えてくれて。これからも、さっきみたいに素直なままでいてくれたら嬉しいのだけれど」
「それは……善処するよ。それにまだ、活動自体は諦めてないし」
「活動、ねえ? ま、そう言うと思ったわ。とりあえず活動停止の件は保留にしておくから、くれぐれも馬鹿な真似はしないこと。いいわね?」
「分かってるよ、ったく」
そう言うと、西野は少し気分が良さそうに去っていった。最後まで僕のことを子ども扱いして、少し腹立たしくもあるが……これで一つ、大きな区切りはついた。
事件に関しては僅かに心残りではあるものの、今の生活を失ってでも得たい真実なんて無い。あとは、警察に断りの連絡を入れるだけだ。
そう思い、ポケットからスマートフォンを取り出した時だった。
「うわっ!」
手に持っていたスマートフォンが、急に振動を始めたのである。
驚きのあまり危うく落としそうになったスマートフォンを握り直し、バイブレーションよりも大きな音で鳴り響く心臓を鎮めつつ、画面へと視線を移す。
着信、であるようだ。しかも、その相手は————
「……真中さん、か」
先ほど登録したばかりの、真中からの着信であるようだ。
なんて都合が良いのだろう。相手が真中であると少し気は重いのだが、さっきの話に断りを入れるいい機会である。きっと罵声を浴びせられるだろうが、もうそんなことは関係ない。
少しの躊躇いもせず、むしろいつもより素早く電話を取って真中へと話しかけた。
「もしもし」
「……なんだ、妙に落ち着いているじゃないか。ホント可愛げのないガキだな」
やはり、電話相手は真中であった。予想どおり、彼女は僕との通話を非常に嫌がっているようで、苛立ちが余すことなくこちらにも伝わってくるようだ。
「別に落ち着いてなんかいません。……それはともかく、何の御用ですか?」
「チッ……要件は二つ。一つ目。捜査協力する以上、明日こちらの署に来てもらう。そこで色々と聞いておきたいんだと。言っておくが、それは私じゃないからな」
「あ、えっと……その件なんですけど」
都合よく、向こうから捜査協力の話を切り出してくれた。この流れならば、協力を断りたい、という意思を伝えることも容易だろう。そう思ったのだが、真中は相変わらずこちらの話を聞く様子もなく、淡々と要件を述べていく。
「明日、午前九時に新宿署の付近にある『ムーンバックス』まで来い。もちろん私服でな」
「え? あ、あの! ですから!」
真中の声を遮ろうとしても、話に間が一切なく止められる気配がない。大声を出してみたが、真中はまったくテンポを変えずに続ける。
「それと二つ目。木村氏に関してだが、妙なことが判明した」
「だから聞いてもらって! ……え? 妙っていうのは?」
「ああ? なんだ、聞きたいことでもあるのか?」
「あ。いや……え、えっと」
話を止めようとした矢先、妙なことが判明した、などという興味深いフレーズを聞いてしまった。こんな時に限り、真中は話を止めて僕の話を聞こうとしている。なんて間が悪いのだろう。
しかし、妙なこと、と聞いてしまっては、さすがに聞き流すことなどできない。一度話を真中へ返し、それからこちらの要件を伝えよう。
「すみません、なんでもありません。続けてください」
「チッ、ふざけやがって。いいか? 木村の頭部には、あの気色の悪いポストカードと同じ
「鼠径部……?」
鼠径部とは、脚と体を繋ぐ部分……いわゆる股間と呼ばれる部分を指す。そんなところに傷があるとは、確かに妙な話だ。
「そして、学校の空き教室に小さ目のバケツが置かれていて、その中に多量の血液が入っていたそうだ」
「多量の血液……!?」
「ま、ここまで話せばお前でもわかるだろう。その血液が、一体誰のものだったか」
「……木村先生のものだった。そうですね?」
「ああ」
異常どころの騒ぎではない。バケツ一杯になるほどということは、恐らく人体に流れる血液量のほとんどがその器に詰まっていた、ということになるのだ。
自殺をする直前の人間による行動ではない。木村は、明らかに誰かにより殺されている。
ドクドクと高鳴る心臓を抑えつつ、真中へと静かに話しかける。
「で、では。例のポストカードについて、なにか分かりましたか?」
「ああ、西蓮寺の作品だった。題名は、確か……『エンプーサ』、だったか」
「エンプーサ……」
エンプーサとは、男を喰ったり血を啜ったりするギリシャ神話の化物、だったはずだ。やはり木村の事件も他の二件と同様に、西蓮寺の作品を題材としたモチーフ殺人であると考えて良い。
そうとなれば、箱崎たちに僕の推理を話しておく必要性があるだろう。つい先ほど、西野には『捜査協力をしない』と約束してしまったばかりではある。だが、あくまでもこれは僕の推理を彼らに披露するだけの話だ。捜査に協力する訳ではない。
「分かりました、貴重な情報をありがとうございます」
「……明日の午前九時。忘れるなよ」
それだけ告げると、真中は一方的に電話を切ったようで、僕の耳にはビジートーンのみが響く。
仕方がない。そうだ、これは仕方のないことなのだ。僕はそう心に言い聞かせ、スマートフォンを再びポケットへとしまい込んだ。
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