2-9
午後七時過ぎ……
そのレトロな店構えと特徴的な手書きのメニュー表から、初見の客にとってはなかなか入りづらい店である。立地も決して良いとは言えず、僕と同じ世代が利用する姿など、ほぼ見かけることは無い。
だが僕は、この風変わりな店をとても気に入っている。
僕は時折この店を利用するのだが、今日は一人ではなく
てっきり、僕は自宅付近まで送り届けてくれるものだとばかり思っていたのだが……まあ、あれ以上に真中と一緒にいる、というのは精神衛生上よろしくない。それに西野とも相性が悪かったようだし、ある意味この選択は正解だったと言えよう。
「いらっしゃい。ああ、アンタはいつものやつね? そっちの彼女は?」
「え、ええと……こちらをお願いします。あと、サイフォンコーヒーを」
「あいよ」
いつもの通り、店員の老婆は注文を聞くと不愛想に水の入ったコップを机に置き、笑顔もなく奥へと消えていった。西野はその態度に少し不快感を示しつつも、適当にメニュー表を指で小さく叩きながら溜息を吐く。
「いつもの、って。
「別に。家に帰ったって自分で作るか、出来合いものを買うしか無いんだから、しょうがないだろ。ここの方が安く済むし」
「呆れた。まったくもう……」
そういうと西野はコップを持ち、言葉を飲み込むように水を流し込んだ。
家に帰ったところで、待っているのは静寂だけである。それは、西野も良く知っていることだ。だからこそ、彼女はそれ以上僕に言及しようとはせず、ただ無言のまま僕を見つめていた。
今はとても落ち着いているのだが、思い返してみればつい十時間ほど前……僕たちは、校舎屋上から転落した
それにも拘わらずこうして冷静でいられるのは、もちろん西野の存在という精神的な支えもあってのこと、だろうが……それ以上に、この件は謎が多すぎる。
転落する直前の、木村のあの様子。撮影していたはずの、カメラの紛失。例の写真と、それに記載されていた『赤い部屋』という言葉。どれもこれもが不可解すぎて、パニックになる余裕すらなかった。
西野も同じのようで、木村が転落した時こそ混乱していたものの、それ以降の彼女はまるでいつも通り……いや、いつもよりは弱々しいか。だが、比較的会話を交わす頻度の高かった教師が亡くなったにしては、落ち着いているように見える。
遺体を見るのなんて初めてだっただろうに、肝が据わっているというべきか。改めて、西野の心の強さに感心するばかりだ。
「ああ、そうだ。夏企」
「うん?」
ふと、西野は何かを思い出したように語り始める。
「今言うことじゃないと思うけどね。例の動画の件、取り下げるわ。それどころじゃなくなっちゃったし、今そんな動画を作ったら、むしろ世間から良く思われないでしょうから」
「……確かに、そうかもな。興味は惹けるだろうけど、どうやっても炎上する未来しか見えないし。逆効果だよな」
『教師が学校の敷地内で自殺した』などというニュースが伝われば、学校へのバッシングは相当なものとなるだろう。そんな状況で学校のプロモーションなどしたところで、火に油を注ぐようなものだ。
そんなことになれば、あのネットニュースサイトのコメント欄は確実に祭り状態となる。あんな奴らのエサとなるのは、死んでも御免である。
しかし、自殺、か。つい先日まで妻の自慢話すらしていたあの木村が、急に死を選ぶとは。今でも信じ難い。
「なあ、西野」
西野は溶けゆく氷から視線を移し、じっと僕を見つめ返す。
「なに?」
「先生は、どうして自殺なんかしたんだろうな。あんなにいつも穏やかで、それにもうちょっとで定年だったのに」
「さあ……それは、さすがに分からないわ。自殺した人間の本心なんて、誰にも分からないもの」
「それはそうだけどさ……」
「そういうことはもう警察に任せましょう? 私たちには何も出来ないし、渡せるものは渡したもの。だからこれ以上、事件に関わるのは止めなさい」
「それは……」
「嫌な記憶が焼き付いてしまう前に。ね?」
「……」
嫌な記憶、か。サヴァン症候群である僕は、どんな光景であろうと忘れることは出来ない。そう、木村の遺体や
これ以上、衝撃的な光景を目の当たりにすれば、僕の精神は崩壊してしまうかも知れない。それは西野に言われるまでもなく、僕自身が一番よく理解していることだ。あんな事件に関わろうだなんて、これっぽっちも思っていない。
「今回真中さんと約束したのは、木村先生の死因と、動機を教えてもらうことだけだ。それだけ聞いたら、事件なんて追わない。だから大丈夫だよ」
「そう。それなら良いわ」
そう言って、西野は弱々しく微笑んだ。よほど僕が心配なのか、やはり今日の出来事は堪えたのか……いずれにしろ、彼女をこれ以上苦しませることは、もう――――
ヴーン、ヴーン
「ん?」
穏やかな空気を引き裂くように、ポケットに入っているスマートフォンが振動を始めた。無料チャットアプリからの通知や、メールの受信による振動ではない。これは紛れもなく、着信だ。
「電話?」
「そうみたいだ。えっと……」
慌ててポケットからスマートフォンを取り出すと、画面には電話帳に登録のない番号が表示されていた。非通知ではなく、携帯電話からの着信である。間違い電話か何か、だろうか。
チラリ、と西野へと視線を送る。彼女は少し不思議そうな顔で、早く取ってあげなさいよ、と言わんばかりに手で合図を見せた。確かに非通知ならばともかく、電話に応答しないというのは失礼だ。
周囲に客はほとんどいないが、一応マナーとしてなるべく身を小さくしつつ、画面をタップしスマートフォンを耳に当てた。
「……も、もしもし?」
「真中だ。もう家に戻ったか?」
「えっ。真中、さん……?」
驚くことに、発信者は真中であった。別れてから二時間程度しか経過していないというのに、今さら何を連絡しようというのだろう。まさか、まだ何か聴取したいことでもあるのか。
僕の様子と声に反応し、目の前にいる西野はその表情を険しいものへと変える。しかし彼女は黙ったまま、特に何も言わず状況を静観しているようだ。
異常事態に慌てつつも、できる限り平静を装いながら真中の質問に答える。
「えっと、家じゃなくて喫茶店にいます」
「喫茶店? はっ、呑気な奴だな。……時間が惜しい。悪いが、今からお前に頼まれていた用件を伝える。いいか、他の客には聞かれるなよ」
「え、今からですか!? ちょ、ちょっと待ってください!」
僕の声が聞こえていないのか、それともただ無視しているだけなのか。真中は気に留める様子もなく淡々と話を続ける。
「まずは木村の死因から。……失血死だ。あとは動機だが、残念ながら不明。用件はこれで終わりだ」
「は? そ、それだけ、ですか……?」
「それ以外に何か約束をしたか? じゃあな、切るぞ」
「ま、待ってください! 一つ、もう一つだけいいですか!」
「……お前。他の客に聞かれるな、と言っただろう。まさか馬鹿なのか?」
あまりに一方的な会話であったため、店内であることを忘れ、僕は大きな声で引き留めてしまった。しかし幸か不幸か、真中はまだ電話を切らずにいる。質問したとしても正直に話してくれるとは思えないが、それでも質問をする猶予が出来たのだ。この機を逃すものか。
「失血死ということは、僕の話したとおりですよね。先生は転落する前から、すでに……!」
「チッ」
「え? あ、あの……」
「……」
真中は僕の質問を遮るほど大きな舌打ちをすると、突如として口を閉ざした。嫌な空気のまま時間だけが過ぎてゆき、生ぬるい汗が首筋を伝って流れてゆく。
「……もしもし?」
電話口へと呼びかけてみるが、特に反応は無い。このまま、僕のスマートフォンの電源が切れるのを待っているのだろうか。
「ねえ、夏企。どうしたの? 何かあった?」
すると、しびれを切らしたのか、頬杖をついていた西野が
「もしもし? あの、聞こえていますか?」
相変わらず、聞こえてくるのは自分の鼓動だけで、特に変化はない。もう諦めて切ろうかと思い、スマートフォンを耳から離した。その時であった。
「もしもし、聞こえるかい?」
「えっ?」
「その声、やっぱり
不意に、真中とは異なる男性の声がスピーカーを通じて鼓膜へと伝わる。この男は確か、真中の上司である
急な展開に驚く僕へ、箱崎は穏やかな口調で話を続ける。
「さてと。うちの真中と勝手な取引をしたみたいだけど……申し訳ないね。残念ながら未成年に捜査協力なんて要請できないし、これ以上の情報開示は無理だ。諦めなさい」
「そ、そうですか……」
「建前としては、ね」
「は、はあ……え、建前?」
「うん、建前」
そう言うと、箱崎は少し笑いながらも、はっきりと僕へ問いかける。
「単刀直入に訊ねるよ。キミには確か、特殊な力があるって話だよね。えっと……『サヴァン症候群』だっけ」
「え、は、はい」
「キミの力を、捜査に役立ててくれないか? もちろん、現場に踏み込む、とかそういう危険なことは無し。是非ともキミの力を貸してくれないか?」
「なっ!」
まさかの依頼に、僕は思わず立ち上がってしまう。突然の行動に西野は仰天し、ポカンと口を開けている。
軽く息を吐き、西野に勘付かれないように表情を変えず、箱崎へと答えた。
「……もちろんです」
「良かった。では、また何かあったら連絡するから、この番号は登録しておいてよ。それじゃあ……っと、忘れるところだった」
一つ咳払いをした後、箱崎は声のトーンを少し落とし、静かに言葉を紡ぐ。
「これが何のヒントになるのか分からないけど。木村先生の胸ポケットに、一枚のポストカードが入ってたんだ」
「ポストカード?」
「吸血鬼が老人の頭に噛みついている、とても気味の悪い絵の描かれたポストカードさ」
「吸血鬼……? そ、それって……」
気色の悪い絵、それにポストカード。それだけで、とある画家が脳裏に過った。だが、それだけではもちろん断定することなど出来ない。まさかとは思うが、念のために箱崎へと確認する。
「それはもしかして、
「さあね。でも、その可能性が高いと踏んで確認してるよ。それじゃ、また何かあったら連絡するね。ああそうそう、お友達……そうだね、西野さんとか他の人には秘密にしておいてね。もちろん、これも建前だけど」
「は、はあ……分かりました」
「よろしい。それじゃあね」
こうして、一方的に通話は切断された。警察側にどういう事情の変化があったのかまでは定かでないが、少なくとも僕の能力が求められている、ということは事実のようだ。
今まで僕を苦しめてきたこの能力が、ようやく本格的に役立てる。何とすばらしいことだろう。
「夏企」
「……あ、え、何?」
やる気に満ち溢れている最中、不意に西野に呼びかけられ、慌ただしく視線を下ろす。テーブルの上にはすでに注文した品物が揃っており、むしろコーヒーは少し冷めてしまったのか、カップから湯気の立つ様子は見られない。そんな中、西野は料理やコーヒーに一切口をつけず、不安げな様子で僕を見上げていた。
「ずいぶんと長電話だったわね。何の話だったの?」
「あ、ああ。悪い、待たせちゃったな。早く食べようか」
「事件に関すること、でしょう。正直に話してくれる?」
「……」
箱崎は「誰にも話すな」と言っていた。ただし、『建前上は』。ここは、西野を安心させるためにも、ちゃんと話しておくべきだろう。ただし、この店内ではなく別の場所で。
あと、できれば
席に座り直し、
「うん……説明、するよ。でも、ここじゃダメだ」
「え?」
「あまり人のいない場所で話したいんだけど……良いかな」
「ええ、それはもちろん。じゃあ、早く食べ終えて夏企の家に行きましょう」
「僕の家?」
僕の家、か。確かに今日も両親は戻らないし、どうせ戻っていたところで僕たちが何を話していようと気にするまい。堂々と西野を家に招くのは少し憚られるが、情報の漏洩という観点では、あそこが最も安全だろう。
「分かった、じゃあそうしよう。でも、あまり食べ過ぎない方が良い。あまり気分のいい話ではないから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます