Jesus Loves Me

1-1

 二〇一五年 五月一日、東京都新宿しんじゅく区。


 日本でも有数の大都会である新宿。その中心地から、少し外れた区域にある学校……その教室に僕はいた。眩しいくらいの晴天を見つめ、くぁ、と小さく欠伸あくびをする。


(あぁ、つまらない)


 梅雨入り前の貴重な晴天の日であるというのに、僕たち高校性は教室に缶詰めにされている。

 無論、義務教育でもなく、望んで入学しているのだから文句の一つも言えたものではない。とはいえ、眼下に広がる陽光に照らされた街並みは、何とも魅力的な輝きに満ち溢れているのだ。この退屈な授業など聞かず、外出したいと思うのは僕の我が儘だろうか。


「……水島みずしまくん」


 ここ、新宿区にある私立西光せいこう学園高等学校は、小学校から大学までを有する、いわゆるエスカレーター式の学校である。途中で他校へと移る生徒も少数人いることは確かだが、小学校から入学すれば、これといった理由がない限り……例えば、学費が工面できないとか、学力が大幅に足りていないとか、そういうことでもなければ、まず大学まで進学が可能なのだ。


 つまり、現在高校二年生である僕は、受験勉強など大して行う必要もなく、授業をひたすら受けるだけの生活を続けている、という訳だ。しかも、付属の大学は日本でも上位の偏差値を誇り、わざわざ他大学を受験する理由などない。よほど、専門的な勉強をしたいというのであれば、それはまた別なのだが。


「……水島くん!」


 僕の父は厚生労働省の官僚として勤務しており、次官候補とも噂される、いわゆるエリートだ。母も、確か父と同じ大学……日本国内ではトップの偏差値を誇る帝都大学の出身で、在学中に結婚したのだったか。いずれにせよ、両親ともに高学歴である僕にとって、この程度の授業は聞くに値しないものなのだ。


「聞いているのか、水島みずしま 夏企なつき‼」


 バン、と教師が僕の机を強く叩く。その衝撃で、僕の脳は現実世界へと引き戻された。


 近づいてくる夏の陽気に当てられ全く気付いていなかったが、目の前に立つ教師の形相、そして周囲のクラスメイトたちの冷ややかな目線……どうやら僕は、当てられたようだ。


 ええと、この教師は確か……そう、数学の高橋たかはしだ。実年齢は若いらしいが、センスのない眼鏡に薄い頭髪……どう見てもベテランの教師にしか見えない。

 文系への進学を希望している僕にとって、この授業ほど意味のないものはない。それ故に、教師の顔と名前などに興味など無かった。まぁ興味がなくとも、のだが。


 高橋は、まるで害虫でも見るかのような目で僕を見下ろしている。白昼夢にいた訳ではないのだが、授業がくだらない、などと言ってしまえばそれこそ問題だ。……仕方がない、ここは、適当に話を合わせるしかあるまい。教師に盾突いて、万が一、進路に影響しては洒落にならない。


「ああ、すみません。ぼーっとしてたもので」

「……教科書七十五ページ、問二。早く解きなさい」


 一睨みした後、僕の席から離れて教壇へと戻る高橋。

 適当に間違えてやろうと思ったのだが、彼の態度に少し頭に来た。折角だ、目にものを見せてやろう。確か、数学Ⅱの教科書、七十五ページ、問二……だったな。


 ふぅ、と小さくため息を吐き、教卓後ろの黒板へと向かう。この、ほんの数歩が僕にとって最も嫌いな距離だ。何せ、クラスメイトの視線を一身に浴びるのだ。見世物になったつもりなど毛頭ない、早く済ませてしまおう。


「……おい、水島。教科書は?」


 高橋が呆れたように声を掛けてくる。何故なら僕は、教科書を持たずに教壇まで上っていたのだ。

 当然ながら、本当に寝ぼけてしまった訳ではない。ましてや、この教師を挑発してやろう、だとか、暴力を振るおうということでもない。ただ、当てられた問題を解く。それだけだ。


「必要ありません。僕は、ので」


 そう言うと、僕は一息に問題文、式、解答……それらを一言一句、寸分たりとも違うことなく書き上げる。その間、高橋も、クラスメイトたちも、誰一人として声どころか、物音一つ立てる様子は無かった。羨望の眼差しを送られている訳ではない……ただ皆一様に、僕を恐怖しているのだろう。そんなものは、見なくても分かる。


 カタ、とチョークを置き、仰天し目をひん剥く高橋に笑顔を向ける。


「これで、宜しいでしょうか」

「え? あ、ああ。正解、だ……」


 狼狽する高橋を尻目に、僕は颯爽と席へと戻る。クラスメイトたちが何やらひそひそと会話をしている様子も、僕はチラリと見ていた。


 くだらない。本当にくだらない。


 恐らく、この授業のあとに数人のクラスメイトから質問を受けることとなるだろう。どうして教科書を見ずに全部答えられたのか……まぁ、当然のことだ。

 この手の質問が来た場合、僕はいつもこう答えている。


「どうしてって、全部記憶しているからだよ。問題も、答えも、


 そう答えると、大概は怪訝な表情で去っていくか、頭が良いんだね、などと嫌味を言い残していくか、そのどちらかだ。

 凡人たちは、理解できない事象に遭遇すると、途端に差別し、隔離し、最終的には破滅するまで徹底的に追い込んでいく。そういうことは、小学生、中学生、そして高校生となっても、変わることがない。知識だけは積み重なっていくが、本質的なことは変わらないのだ。


 もう僕は、それを嫌というほどに理解していた。


 中学時代、あまりにも周囲になじめていない様子を見かねて、担任の教師から転校を打診されたことがあった。彼女曰く、本人のためにならない、ということであった。しかし、当時中学生の僕ですらその意図をはっきりと汲み取れるほどに、その担任は窶れ果てていた。先輩方やPTAなどから、色々と指摘されたのだろう。


 転校することに関して、僕はどちらでも良かったのだが、両親はそれに真っ向から反対した。確か、手続きが面倒だとか、公立中学に通わせるのはプライドがどうのこうの、だったか。いずれにせよ、僕の気持ちなど考える人間が一人として存在していなかったことには、少々驚いたものだ。


 という訳で、僕は未だにこの学園に籍を置いている。特段、愛着がある訳でもないが、さすがに何年も在籍していると、全ての生徒から四面楚歌を食らう訳でもなく、幾人かの友人はできた。わざわざ、ようやく出来た友人を放り出して新しく友人を作るなど、面倒以外に形容し難いのだ。



 キーン コーン



 ……と、愚痴をこぼす間にもう授業は終わったようだ。足早に撤収していく高橋と、ようやく解放され駄弁だべり始めるクラスメイトたち。そしてやはりというべきか、何者かが僕の元へ近づいて来ているようだ。背後からだが、そういう気配を感じる。

 どうせ、先ほどのことを聞いてくるのだろう。面倒だがいつものように――――


「おい水島、これを見ろよ」


 辟易へきえきとしながら振り返ろうとした矢先、不意にスマートフォンの画面を目の前に翳される。


「なっ……⁉」


 急に視界へ異物を入れられたせいで、ややバランスを崩し椅子から転げ落ちそうになる。それをなんとか必死に耐えつつ、見せつけられている画面を目に映す。

 なになに、ええと……?


「ほい、終了」

「はぁ?」


 ようやく読み始めようとした瞬間、スッとスマートフォンをポケットへとしまわれてしまった。

 見ろよ、と言ってその態度は何だ、と言い返そうと思ったが……こういうことをしでかすのは、アイツ以外に考えられない。


 そう、数少ない俺の友人の内の一人……金子かねこ 誠司せいじだ。


「おい、金子……一体何を――――」

「なぁ、この記事を説明してくれよ。頼むよ」

「はぁ? 何でそんなこと……あぁ」


 訳の分からない依頼をする金子に、怒り返そうとしたとき……彼の背後にいる、二つほどの影が目に映った。あれは、確かウチのクラスメイトだ。名前は……ええと、榎本えのもと内海うつみ、だったか。高校になって入学してきた、いわゆる外部生で、クラスが一緒になることは初めてだった。


 そこまで思考した段階で、金子の思惑をようやく理解した。


「なるほど……そういうことか。ええと、そうだな……東京都八王子はちおうじ市のマンションで変死体が発見された。遺体で発見されたのは、大島おおしま ひろし、五十歳。職業はノンフィクション作家で、四年前に起きた大地震の際、被災地での取材中に被災者たちと喧嘩をしたことで有名だった。……こんなもんか? あとはページの都合で読めない」

「おう、充分だ。サンキューな」


 ふぅ、と一息吐く僕を満足そうな笑顔で見つめる金子。そして振り返り、ポカンとしたままの榎本、内海へと向き直る。


「な? 水島はこういう奴なんだ。えっと……なんてったっけ?」

「……、な」

「そうそう、それ。色んな能力を示す人がいるらしいんだけど、水島は一瞬でも見た場面であれば、いつでも思い出せる能力……つまり、『瞬間記憶能力』を持っているんだ。スゲェだろ?」


 どうして金子が偉そうにしているのかは謎だし、『瞬間記憶能力』というような、いわゆる超能力的なものではない。人の病気のことを勝手に漏らすなと、後でコイツには厳しく言っておこう。


 そう、僕は『サヴァン症候群』だ。


 自閉症や発達障害のある患者のごく一部にしか認められない、特定の分野のみ発揮される異常な能力を持つ者……それが、サヴァン症候群と呼ばれている。

 原因は今のところはっきりしていないようだが、少なくとも脳のどこかに異常があるのは確かだ。当然のことだが、治療法などは全く見つかっていない。しかし僕としては特に生活上で困ったことなどないため、特に意識はしていない。


 ただ一つだけ、他のサヴァン症候群の患者たちと僕には大きく異なる点がある。それは、僕自身に自閉症などの疾患が見つかっていない、ということだ。読み書き、計算、社会的なルールの遵守……多少のコミュニケーション障害はあると思うが、それも個性で済まされるレベルであり、何らかの障害が出現している状況ではない。


 そういう状況であるためか、両親は僕を病院に連れて行こうなどとしたことはなく、僕もまた採血など検査を受けることが嫌いであるため、特に診断されることのないまま、こうして過ごしている。


 そういう訳なので、厳密に言うと『サヴァン症候群』ではない。適切な診断がついていないし、重度の発達障害などの兆候を認めていないためだ。


 ……しかし、この名前を出す以上は、周囲の人間は僕を発達障害者だと認定する。その結果として生まれるのが、差別であり、排斥だ。


「……ねぇ、水島くん。映画とかも一回観たら覚えちゃうの?」


 クラスメイトの内の一人、内海が質問を投げかける。顔は笑っているが、どこか怯えるような雰囲気もある。……こいつも、数多居る凡人と同じらしい。


「ああ、映画とか、そうだな……音声とか、そういうものはダメだ。映画も、一枚一枚のフィルムとして覚えることはできるけど、相当な負担がかかるんだ。まぁ、カメラみたいなものだと思ってくれればいいよ」

「へぇー、不思議だね。……ありがとう、教えてくれて。金子くんも、ありがとう」

「おう」


 それだけ告げると、予想通り榎本と内海はヒソヒソと何か話しながら足早に離れていく。実際に会話してみても、凡人たちはこうして、得体の知れない相手とは距離を置く。もう慣れてしまったが、それでも心のうちに、ちょっとしたモヤモヤは広がる。


「ったく、理由を聞いといてあの態度かよ。やっぱ理解できねーな」


 金子も、彼女たちの態度に不快感を示している。

 彼は、割と無神経なことを平気で喋ったりすることもあるが、男気を見せてみたり、涙もろかったりと、一緒にいて飽きないタイプだ。それに、こうして人の気持ちを汲み同調してくれる、僕にとって大切な友人だ。

 なかなか口にできないモヤモヤを代わりに言葉にしてくれるのは、とても嬉しいことなのだ。本人に言うつもりはないが、いつも心の中で感謝している。


「それで……さっきのニュースだけどさ、気になるから見せてくれないか?」

「おう、いいぜ……ってヤバ! もう次の授業始まっちまうじゃん! 悪い、続きは放課後で!」


 そう言い残し、金子は急ぎながら席へと戻っていく。まだ開始にはあと一分ほどあったが、それというのも、ちょうど英語教師の野村のむらが入室してきたところだった。

 野村は、生徒たちの間でも非常に恐れられていて、彼の入室までに席に着けていなかった生徒は、授業中に当てられてしまうのだ。しかも、集中的に、執拗に。


 そんなわけで、少し気になる見出しのニュースではあったが、放課後に確認することとした。急ぐ要件でもなかったし、ただの興味でしかなかったのだ。



 そう、この時点ではただの興味の対象に過ぎなかった事件……それがまさか、僕の人生に大きく関わるなど、この時点では知る由もなかったのだ。 

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