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小欅 サムエ
Silent Night
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二〇一五年四月三十日、東京都
曇天の夕暮れには似つかわしくない騒々しさが、八王子駅から少し離れたマンションの周囲を包む。無数の回転灯により、街は赤く染め上げられている。その上、道路上を数台のパトカー、それに救急車などの緊急車両で埋め尽くされており、その物々しさたるや、ただの事件でないことを暗に示している。
このマンションの三階にある一室に、制服姿の人々は集結していた。この部屋の中で、恐らく事件、もしくは事故があったのだろう。慌ただしく行き交う人たちをかき分けながら、一人の男がその部屋へと歩みを進める。
一人で住むには申し分ない広さだが、こうして数人の警察官、そして鑑識などが押し寄せると、非常に手狭になる。その上、この部屋の住人はどうにも書物を多く所持していたらしく、部屋の半分が本棚で埋まっている状況であった。
「あ、先輩」
「おう。……どうだ、遺体はまだあるのか?」
その男は、同僚の警察官と会話中であった若い男性へと問いかける。
「えっと……はい。とりあえず、見ていただいた方が分かりやすいかと。こちらです」
それだけ言うと、彼は浴室へと向かっていく。無論、共同浴場などではなく、この部屋に備え付けの浴室だ。
「……どうした、やけに元気がないな。悪いもんでも食ったか?」
神妙な面持ちの後輩に疑問を抱いた彼は、怪訝な顔つきで尋ねる。その言葉は聞こえているはずだったが、何故か彼からの返答はなく、無言のまま歩き続けている。
「……? おい、聞こえて――――」
「……ここです。すみません、その……遺体の状況が、ちょっと不可思議だったもので、つい」
この後輩は、見た目こそ若い印象はあるが、入職してすでに八年ほど経過している。そんな彼が、こうして違和感を覚えるような現場というのは滅多にあるものではない。
これは何かある。そう確信した彼はその目をより鋭いものへと変え、脱衣所へと入る。
小さな脱衣所には、荒らされた形跡はない。むしろ、一人暮らしの中年男性が使っているにしては、かなり綺麗に保たれている。ここに、何らかの異常は見当たらない。
そして浴室へと足を踏み入れた彼は、その異様な光景に思わず唸り声を上げた。
「なる、ほど……」
浴槽の中に、男性の遺体が存在した。全裸の状態であり、通常であれば入浴中に死亡したと考えるのが妥当である。
しかしその遺体が浸かっているのは、湯ではなかった。緋く、そして生臭い液体……そう、血液だ。その遺体の血色からして、恐らく失血死、つまり自分の血液を浴びながら、彼は死んだということになる。
被害者の腕には複数の切り傷がある。洗い場に、その傷を作ったとみられるカッターが置いてあり、ご丁寧に血液も付着している。少なくとも被害者の腕の傷については、これが原因であると言えよう。
ただ、浴槽に張られている血液は、その色調から考えても被害者本人の血液だけ、とは考えにくい。純粋な血液にしては薄すぎるし、そもそも一人の人間の血液だけで浴槽をいっぱいにすることなど、到底できない。
浴槽の中へ深く切った腕を入れると、血液が凝固しづらくなり出血多量となり死亡することもある。それを悪用した自殺方法も、ごく一部ではあるが世間に広まったこともあった。今回はそれを参考にした自殺……その可能性も考えられた。
しかし、それだけで済む話ではない。
「これで自殺、だなんて言えるはず、ねぇよな……」
「自分も、そう思います……」
二人が口にするように、自殺と判断するには不自然な点が多い。現時点で自殺、と決めつけてしまうには、あまりにもお粗末である。
自殺を決意した人間が、全裸で入浴しながら死ぬだろうか。そもそも、失血させるだけであれば、浴槽に腕を突っ込むだけで事足りるのだ。わざわざ、自身のあられもない姿を多くの人間に見せつける意味はないし、自分の血液に染まりたいと思うだろうか。いや、有り得ない。
「それと、先輩。被害者は、あのノンフィクション作家の大島 浩です」
「大島……? ああ、あの大島か!」
あの大島、と呼ばれるほどに、その被害者は有名だった。精力的に作家活動を行なっていた人物であるが、その気質が故に周囲の人間とトラブルを起こしやすく、度々警察の厄介になっていた。
そんな彼であれば、自殺に見せかけた殺人の被害に遭うことも想定できる。
「それと。大島は先日、近くの交番にストーカーの被害を訴えていたそうです。今回の件と関係があるのかは不明ですが……それも洗ってみようと思います」
「ふーむ。分かった、ご苦労」
そう言い残し、後輩警察官は颯爽と外へ出ていく。恐らくは、あまりこの現場に長居したくないという気持ちもあるのだろう。男は、後輩の気持ちを察するように、無言でその背中を見つめていた。
「さて、もう少し調べてみるか……」
男は踵(きびす)を返し、再び部屋へと戻る。すると、本で埋め尽くされている部屋の奥から、一人の鑑識官が彼の元へと駆け寄ってくる。
「ああ、警部補。一つ奇妙なものを見つけました」
「うん? 見せてみろ」
鑑識官は、一つのビニール袋を取り出した。ちょっとしたチャック付きの、何の変哲もないビニール袋。中には、一枚のカードのようなものが入っている。何の変哲もない、名刺ほどのサイズの小さなカードだ。
「……これの、何が妙だと?」
「ええとですね、何かの磁気カードか、もしくはICカードのようなのですが、この通り、真っ黒で何も記載がなく……用途が分からず、念のため、と思いまして」
彼の手にしているカードには、何も記載されていない。光に反射しても、文字どころか凹凸すらない。しかし、これでも何かのカードであるという。確かに、これは妙であった。
「なるほど、これは……」
そう言って、彼がそれを受け取ろうとした時だった。
「はいはい、これはこちらで預かりますよ、っと」
「は?」
不意に現れた女性が、素手でそのカードを袋ごと奪い取る。スリの達人でも、こう上手く強奪できるものではない。それを、こともあろうに警察……しかも警部補相手に軽々とやってのけたのだ。
突然の出来事に一瞬だけ呆気に取られた彼は、気を取り直しその乱入者へと怒鳴り声を上げる。
「おい! 一体お前は――――」
紅潮した顔を向ける彼に、彼女は飄々とした態度を崩さないまま、一枚の紙を彼に突き付ける。勢い余って、彼女の突き出した手が危うく彼の額に当たりそうになる。
「なっ……⁉」
「はいはい、これを読んでさっさと黙ること。……はぁ、やっぱりここにあったか……」
苦々しい表情を浮かべ、小さくため息を吐く。そして彼女は、周囲の目をまるで気にする素振りも見せず、徐にスマートフォンを取り出し、どこかへと連絡を取り始めた。
「警部補、良いんですか? 重要な証拠かもしれませんが……」
「……」
男は黙したまま、その紙に書かれた文章に目を通す。左から右へ彼の目が動く度に、彼の顔色が赤から白へと変色してゆく。
その様子に、只ならぬものを感じ取った鑑識官は、ゴクリ、と生唾を飲む。見守ることしかできていない巡査も、不安そうにその様子を遠巻きに見ている。
重苦しい空気の中、静かに目を瞑った男は、ギュッと拳を握りしめる。何かを決意したように、しかしそれが不本意なものであるように、体を震わせている。
「……すまない、みんな。あの女の言う通りに動いてくれ。それが、上からの指示だ」
「え……」
どよどよと、周囲の人間たちが騒めく。しかし彼のその鬼気迫る表情は、誰にも反論を許さない、という強い意志を示していた。恐らくここにいる誰よりも、心苦しいのだろう。
「……さて、と」
一通りの通話が終了した彼女は、スマートフォンをポケットへとしまい込み、彼らへと振り返る。彼らの暗い表情を見て、満足そうに微笑んだ彼女は、軽く手を叩く。
パン
乾いた音が、部屋中に響く。そして一定の注目を集めたところで、彼女は端的に、しかし俄かには信じがたい命令を下した。
「じゃ、撤収で。大島については……そうだなぁ、自殺で片付けといて。それで……この件は、他言無用ってことでよろしく。ま、それは言わなくても分かるかな?」
彼女の意地の悪い笑みに応える人間など、誰もいなかった。それどころか皆一様に俯き、彼女の目すら見ようともしなかった。しかし、その指示にだけは従う、というように、粛々と撤収作業を進めていく。
「うん、ま、そうなるでしょうね。ともかくお疲れ! 警部補さん、あとのことは宜しく! それじゃね~」
彼女は軽く彼の肩をポン、と叩き、スキップでもしそうな軽い足取りでその部屋を去ってゆく。その後ろ姿を、そこにいる全員が軽蔑と憎悪の目で見送っていた。
「
先ほど渡された紙をクシャリと握り潰し、警部補は静かに、しかし精いっぱいの恨みを込めて呟く。そして、彼は何事も無かったかのように、再び職務へと戻っていった。
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