1-7

 五月二日、土曜日。


「はあ……」


 全くえない天気の中、それに負けず劣らず不景気な表情で僕は通学路を歩いていた。通い慣れた道であるにも拘わらず、まるで未知の世界に飛び込んでしまったかのように足取りは重い。


 当然だ。昨日の事件あんなことがあったというのに、普通に学校に通えているという時点で、むしろ褒めて欲しいものだ。絶滅危惧種ばりに保護されて然るべきだと、僕は強く思う。


 まあ、西野にしのの言いなりとなっている僕も僕なのだが……それにもちゃんと理由がある。絶滅危惧種のように、普通に生きている生物とは異なり、僕は見ての通り平常心ではないのだから。


 僕が今日、この重い体を引きずってまで学校に行こうという気になった最大の理由。それは、あの『ギロチン』について、出水でみずに色々と聞いてみたかったからである。


 『ギロチン』は、西蓮寺さいれんじの個展ブースの正面、つまり顔となる部分に掲示されていた作品だ。恐らく彼女の自信作、もしくは代表作だと言える。そんな彼女の個展が開かれていた会場のトイレから、ギロチン刑に処されたような遺体が発見されたのだ。いくら僕だって、その違和感に気付かないはずがない。


 ちなみに昨夜は眠れなかったこともあって、彼女の情報を少しだけ調べてみた。生年月日などはどうでもいいとして、意外なことに彼女は、私立西光せいこう学園大学……つまり、僕の通う高校の付属大学美術科に所属する講師なのだという。


 それ以外の情報に関しては、ほとんど検索に引っかからなかった。無論、あの『ギロチン』に関する情報も、一切出てこないのである。


 インターネット上に掲載されないほど無名な作者である、といえばそれで終了だが、しかしそんな作者が果たして、あの新宿の志摩丹しまたんで個展など開けるものだろうか。金さえ積めば可能だとは思うものの、一介の大学講師がそんな大金を気軽に出せるとは思えない。


 あるとすれば、彼女の背後に何かしらの組織が存在すること、くらいか。それこそ、インターネットに掲載されるような情報ではない。加えて言えば、昨日の個展のパンフレットには、共催やスポンサーの名義の表記は無かった。となると自費か、何か表に出られない組織が関与している、と考えられる。ならば————


 などと独りグルグルと悩んだ挙句あげく一先ひとまず出水に話を聞いてみよう、という結論に至った訳である。彼女がどこで西蓮寺の作品を目にしたのか、そしてそもそも西蓮寺という画家は何者なのか。ファンである彼女ならば知っているだろう。


「まあ、どうせ教えてくれないんだろうな……」


 望みが薄すぎて、思わず心の声が口に出てしまった。人通りの少ない道であるが故に、少し油断したようだ。これでは、少し頭が残念な人だと思われてしまう。


 少し恥ずかしくなり、周囲を軽く見渡す。すると、先ほどまでは邪念の影響で見えていなかった女性の後ろ姿が、僕の目に映り込んだ。


「あ、やばい……あれ? ひょっとして、あれは……」


 あの髪型、それに制服の着崩し方、それにいつものあのバッグ……見間違えようがない。何しろ僕は昨日、彼女に会っているのだから。いや、それどころではない。なんなら介抱までしたのだから。


 僕は知らず知らずのうちに、その後ろ姿を追いかけていたようだ。自分でも、どうしてそこまで必死になったのかは分からない。しかし、何故だか彼女に声を掛けずにはいられなかった。


「た、高城たかしろか……?」

「えっ? ああ、なーんだ水島先輩ミズシマセンパイかぁ。びっくりさせないでくださいよぉ」


 わずかに身構えた彼女は、その体勢を緩める。無理もない、昨日あんなものを目撃してしまったのだから、襲われた訳でもないのに何かを警戒してしまう気持ちは、痛いほど理解できる。


「あ、えっと……だ、大丈夫なのか? その……あんなものを見て」


 試行錯誤を繰り返し、何とか具体的な単語を出さず様子を窺う。僕の言葉を受け、高城は恐怖するでもなく、吐き気を催すわけでもなく、何故か少し怒り始めた。


「だいじょばないですよ! ぜんっぜん眠れませんでしたから、お陰でお肌の調子が最悪なんですぅ。少しは察してくださいよ、だからモテないんですよ先輩」

「そっちかよ! それと、モテないは余計だ!」


 なんとも理不尽極まりない。いやはや、心配するだけ損するヤツというのも実在するものだな。まあ、元気であることに越したことは無いか。


 軽く侮辱されたものの、彼女の様子に安堵し、ほっと胸を撫でおろす。しかしそれも束の間、わざわざ高城の元に駆け寄った自分が急に恥ずかしく思えた。それもそのはず、傍から見れば、可愛らしい後輩の後を追いかけたようにしか見えないのである。


 無論、誰かに見られているという訳ではないのだが、そのままという訳にもいくまい。何か、話題を見つけなければ。


 ……そうだ。動画だ。


「あ、高城も手伝ってくれよな、例の動画の撮影」

「例の動画? 何の話です?」

「え?」


 僕はすっかり伝達済みであると思い込んでいたが、そういえば昨日はそんな話をする余裕などなかった。唐突な話題動画制作に、彼女が疑問に思うのも当然である。


「せ、生徒会長から学校のPR動画を作るように命令されたんだよ。そうしなければ、あの部室は取り上げるって脅されたんだ」

「へーえ、それはまた、つまらなさそーな……で、今度は何をやらかしたんです? どうせ、会長カイチョーさんの怒りを買うなんて、水島先輩か金子先輩カネコセンパイのどっちかでしょ?」

「うっ」


 的確に、無駄なく急所を突いてくる。その遠慮のなさが彼女の売りでもあり、最大の弱点でもある。これまでに何度も高城の口が永遠に塞がればいい、と願ったことか。多分、それは金子もまた同じように思っていたことだろう。


 彼女は、黙っていればかなりの美人であることは間違いない。人の美醜びしゅうなど大して理解していない僕でさえ、初対面ではとても可愛い、と感じたものだ。学校では、彼女が廊下を歩けば振り返らない男子はいない、と言っても過言ではない。


 ただしその反動というか、女子からの評判は最低である。その容姿はもちろんのこと、歯に衣着せぬ物言いがかんに障るらしく、少なくとも学内で彼女と話す女子など、出水くらいしかいないのだった。


 そう考えると、僕と彼女には少々境遇の似たところがあるのかもしれない。社会性が少し欠けているというだけで爪弾つまはじきにされ、孤独な日々を送っているのだから。そして、数少ない理解者と共に、非公認の活動をしている。まさしく瓜二つである。


 と、そんなことを口に出せば、どれほど恐ろしい口撃こうげきに遭うかは目に見えている。高城に対しては、思っていても発言しないことが大切なのだ。


 さて、それはともかく。何をやらかしたのかなど、彼女に説明する意義はない。それよりも、今は彼女に協力を仰ぐことが先決である。何しろ、全く人手が足りないのだ。それこそ、猫の手でも借りたいほどに。


「なあ、頼む。ゴールデンウィーク中に仕上げないと間に合わないんだ」

「イヤですぅ。遠出もしたいですし、ネットで知り合った仲間たちと撮影会もしたいですから。そんなつまらない動画の制作になんて付き合えませーん」


 やはり、そう易々と同意はしないか。しかし、そんなことは予想の範疇である。僕には、とっておきの切り札があるのだ。それは、図らずも出水により提案されたものであった。


「そっか、それは残念だ。……それはそうと、その動画には生徒会長も出る予定なんだ。まあ生徒会長が学校のPRを行なうのは当然だし、何よりだからな。相当な再生回数が見込めると思うんだ」

「へ、へえー……あのお堅い会長さんが、ねぇ……」


 興味のないような素振りをしているが、明らかに無理をしていることは明白である。その証拠に、口元がやや引きっている。


 学校から公式に依頼を受けて作る動画だ、ホームページにも掲載されるであろうし、そうなれば閲覧回数以上に多くの人の目に触れることとなろう。そんな話を、この高城がスルー出来るはずが無いのだ。


 ここに僕は勝機を見出し、一気に畳みかける。


「でもなぁ。会長一人で校舎内を説明するのは動画としてもダレるし、何より台詞が多くなって大変だろうな。あー、会長くらい……いや、せっかくなら会長を凌ぐくらいの美女がいれば、そんな苦労は無いんだろうけどなぁ……」

「……」


 やや、オーバーだっただろうか。いや、これくらいでないと逆に気付かれない可能性もある。演技というのは、クサいくらいが丁度いいのだ。


「せ、先輩。一つの案として聞いてくださいね? これはあくまでも、案ですよ? それは忘れないで欲しいんですけど……」

「うん、何かな?」

「例えば、インタビュー形式にするのはいかがでしょう? 報道番組のように、そうですね……私がインタビュアーとして、会長さんに色々と聞いてみる、とか」


 この女、見事すぎるほどに、まんまと罠にかかったようである。しかも、設定や構成まで整っているとくれば、これに乗っからない手はない。いやはや、何とも素晴らしいことだ。


「うん、そいつは名案だ。では、さっそくその撮影に取り掛かろうじゃないか。そうだな……学校の休み期間を利用するのはどうだろう。そうすれば、たくさんの施設を堂々と録画できるはずだ」

「……先輩、やっぱり性格悪いですね。モテないですよ」

「うっ」


 どうやら、バレていたようである。しかしモテないネタを引っ張るのは、そろそろ勘弁願いたい。僕にも、人の心というものがあるのだから。


 とはいえ、高城の案には素直に感心する。彼女と西野であれば、その辺のアイドルにすら劣ることは無い。そして、インタビュー形式であれば、二人の本性を上手く隠すことが出来る。学校の知名度は上がり、高城の人気も上昇、我々の活動も安泰。まさに一石二鳥、いや三鳥だ。


「何とでも言ってくれ。しかし、言ったからには貢献してもらうからな。あと、お前も一応メンバーなんだから強制参加だ。いいな?」

「はーあ、どうせそんなことだろうと思ってましたよ。でも、ちょっと時間をくれませんか? その……やっぱり、今はまだ気分があまり良くないので」

「ああ……」


 その一言で彼女は……いや、自分も含めて、あの凄惨な事件を目の当たりにしてしまったことを思い出す。彼女の軽いノリのお陰で忘れそうになっていた、あの光景が鮮明に映し出される。


 肉と骨の露出した頸部、腕に抱かれた頭部、そして、止めどなく滴る血液————


 ああ、こんなとき、普通の脳であったらどれだけ良かっただろう。僕は、あれをのだ。記憶は、自分の意志でコントロールできるものではないのだから。


「そう、だな。悪かったよ。しかしそんな状態でも、よく登校しようと思ったな。まあ、僕が言うことじゃないとは思うけど……」

「ああ、そっか。先輩も見たんでしたっけ。でも、あれを見たからといって学校を休んだところで、記憶が消える訳でもないですし? むしろ、誰もいない家に一人でいるより、ずっとマシかなーって」

「確かに、そうかもな」


 ずっと家に一人きりであったのなら……そう考えると、おぞましくもある。トイレに駆け込むたびにフラッシュバックし、猛烈な吐き気に見舞われるのだから、誰かと一緒に居て気を紛らわせていた方が賢明だ。


 幸運にも、学校であれば男子トイレの場合、あのフォルムの陶器を見る機会はそう多くない。よほど腹痛にでも襲われない限りは、小便器を用いればいい話なのである。白い陶器さえ視界に映さなければ、どうということはない、はずだ。


「おっと、先輩。そろそろ急がないと遅刻しちゃいますね。だから、撮影は明日からということにしてくれますか? そしたら、色々と都合を合わせますので」

「うん、わかったよ。こっちこそ、無理を言ってごめん。あんな生首なんて、さっさと————」


 そこまで口にした瞬間、僕はその間違いに気付き、息と共に言葉も喉の奥へと押し戻す。具体的な光景を言葉にしないように、と注意していたはずだったが、最後の最後に油断してしまった。ずっと気を付けていたはずなのに、これでは高城があの光景をフラッシュバックしてしまうだろう。


 しかし、そう思った矢先であった。高城は、何故か少し首を傾げ、僕に問いかけてきたのだ。


「生首って、ですか?」

「え? 何のことって、それは昨日の……」


 一体、彼女は何を疑問に思っているのだろうか。あの遺体のことを聞いて真っ先に思い浮かべるのは、生首を抱いた姿だろうに。しかし、彼女は未だに納得していない様子で、眉間に皺を寄せる。


「え? だって……生首って、あれですよね? その……取れてる、ってことですよね?」

「いや、実際そうだっただろ? 自分の頭部を大事そうに抱えて、眠るように死んでいたじゃないか。……まさか、覚えていないのか?」

「い、いやいや、違いますって。確かに首は切れていましたけど、取れていませんでしたよ?」


 取れていなかった?


 いや、確かにあの首は、脊髄まで見えるほどに、綺麗に切断されていたはずである。時間が経って、首が落ちた、とか? ……いや、そんな訳はない。怪物のデュラハンでもあるまいし、自らの首を抱えるのは不可能だ。


 冷静になろう。まずは、状況から整理しなくては。


「ちょっと待ってくれ。高城は、あの女子トイレで見たんだよな? 女性の死体を」

「そうですってば! じゃなかったらトイレで倒れたりしませんって! の個室に、血塗れの女性がいたんですよ!」

「入り口から、二番目……?」


 そこは確か、高城が倒れているせいで開けられなかった個室だったはずだ。しかし死体はその隣……入り口から見て、三番目にあったはずである。僕の見た光景とは全く一致しない。


 そして、血塗れという表現もおかしい。何故なら僕が見た死体は、どこも血に塗れてなどいなかったのである。強いて言えば、首から滴った血が便器に溜まっていたくらいで、血塗れというにはほど遠い。


 高城の記憶違い、というにはさすがに無理がある。幾らショックを受けたとはいえ、昨日の今日でそんな記憶を失くすものだろうか。しかも、十代の女子が、である。


 そうなると必然的に、高城の見た死体と、僕が見た死体は別のものだった……そう仮定するしかない。つまり、あの女子トイレには二つの死体があった、ということになるのだ。


 しかし、逡巡を重ねる僕に高城は背を向けた。


「あ、もうこんな時間! もー、妙なことを言わないでくださいよ! 先に行きますからね!」

「あ、ああ……」


 駈け出していった高城の背中を見つめ、放心状態の僕はその場で佇んでいた。いや、佇むしかなかった。あまりにも衝撃的な事実が彼女の口から告げられたために、もはや僕の両脚は動くことすらままならなかったのだ。

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