1-8
「えー、であるからして、マゼランはこの地をパタゴンと名付け――――」
カチ、カチカチ……
講義中の
とはいえ、何かしていないことにはあの恐怖に心が侵食され、やがて発狂でもしてしまうだろう。幸いにも教室の一番後ろ、しかも窓側の座席であるが故に何をしようとも目立ちはしないが、いずれこのささやかな抵抗も尽きてしまう。
「……くそっ」
何がどうなっているというのだ。いくら思案してみても、皆目見当がつかない。
あの女性の死体は、女子トイレの奥から二番目の個室にあった。それは僕の記憶が証明している。繰り返すようだが、僕の記憶能力は本物であり、これを否定する材料などあるはずがない。
しかし今朝、
考えてみれば、確かに奥から二番目の個室のドアを開けて倒れたのだとすれば、奥から三番目の個室の前で倒れていた、というのは少々無理がある。動線から考えても、扉を奥から開けていく人はそういないだろう。普通は、手前から順に扉をあけて いくのだから。
そして彼女の発言。あれは決して曖昧なものではなく、首は取れていなかった、とはっきり記憶しているような物言いであったのだ。普通ならば、血塗れの死体がそこにあっただけで充分にショックを受けるはずであるし、その場で昏倒したのだから首がどうなっていたか、という細かな記憶などないはずである。
それでも、高城は覚えていた。首の取れていない、女性の死体がそこにあったのだ、と。
これらの証言を矛盾させない方法としては、実は死体が二つあって、今回の被害者は二名いたのだとすればどうだろうか。もしくは、女性を殺害した犯人が、トイレの中で自殺を図ったか。
ただし、僕が見た死体はまだ血を滴らせていた。つまり、殺害されてからまだ間もなかった、と言えるだろう。高城が女子トイレに入ってから
そうなると、どうにもおかしい。
仮に、その被害者が首を切断されたのが二時間前だったとすると、その間も当然ながら出血を続けることになる。出血量で言えば、当たり前だが頭部より胴体の方が遥かに多くなるはずだ。しかし僕が見た死体の胴体部分に、血痕は見当たらない。いくら想起してみても、首の周りや衣服は綺麗なものであった。
やはり何度考えても、理解が及ばないどころではない。何もかもが、不明過ぎる。純粋に考えれば高城、もしくは出水が殺害に及んだと想定するのが筋だが……それは有り得ない。彼女たちが人殺しなど行なえるほど強心臓で無いことくらい、良く知っている。
だとすれば、本当に一体何が起こったのだろうか……。
キーン、コーン――――
「っ!?」
不意を突かれ、体が硬直する。すっかり失念していたが、今はまだ授業中であった。それ故、終業のベルが鳴るのは当たり前のことであった。
「それじゃ、今日はここまでかな。連休明けに小テストを予定してるから、そのつもりでな」
「えぇー!」
僕の置かれた状況など一切知らない呑気なクラスメイト達は、木村の発言に対し口々に苦言を呈している。甲高く耳障りな音が飛び交うこの教室では、考え事をするのに不向きであると判断し、軽く溜息を吐いてさっさと教科書を鞄へと放り込む。
弁明しておくが、決してサボろうとしている訳ではない。この学校では土曜日の場合、午前中で授業が終わる。要するに、この後のホームルームさえ終われば、晴れて僕は自由の身となる訳だ。そうなれば、さっさと活動の時間へと当てることができるのである。
あの事件のことを
「おーっす、じゃあホームルームを始めるぞ。……っと、その前に。
「へ? は、はい」
「ちょっとこっちに来い。ああ、別に何かしたという訳じゃないんだ。ただ、ちょっとな」
武田の、その含みのある言い方で、概ね察することが出来た。恐らくは、昨日の出来事について詳しく聞きたい人物が現れたのだろう。警察にはすでに話してあるし、あとは学年主任とか校長とか、その辺りの人間が、僕に接触を試みようと考えるのは妥当であろう。
少しは未成年が
はあ、と一つ息を
それはそれで不快ではあるものの、もし逆の立場だったとしたら、僕だって彼らと同じような視線を向けてしまうだろう。個人への差別的な視線ではなく、どちらかというと興味に近い。
「ええと、先生。それって昨日の話、ですよね?」
分かり切っているが、念のために確認する。このタイミングなのだ、十中八九、あの事件に関わることであろう。そうとなれば当然、関係者である高城や出水も呼ばれているに違いない。
しかし、武田は僕の意図に反して首を傾げながら言った。
「昨日の? いや、俺は『とにかく呼んでくるように』って校長から言われただけだからな。内容までは知らないんだ。なんだ、昨日なにかしたのか?」
「え? ああ、いえ。そんな大したことではない、と思うのですが……そう、ですか」
どういうことだ。
「そうなのか? まあ、とにかく行ってこい。場所は、職員室の向かいにある応接室だそうだ。ああ、そうだ。荷物は持ち込まないように、とも言われているから、手ぶらでな」
「は、はあ……」
荷物の持ち込みを禁止するとは、随分と警戒されている。それだけ、あの事件は何か暗いものを孕んでいるのだろうか。それとも、まさか僕が疑われているのではあるまいな。
しかし、校長が直々に、しかも担任にまで内容を伏せて呼び出すのだから、これで何も察するな、という方が困難だろう。本気で疑われているかどうかはさておき、どう考えても良い方向へと転がるはずがない。
非常に嫌な予感がする。杞憂で済めば良いのだが……。
———— ◆ ————
一階、職員室前の廊下。
都心の私立高校にある職員室にしては、やや古びた印象がある。その原因は、恐らく設立当時から変えていないと思われる、木製のドアであろう。無数の傷が刻まれたあれは、いい加減変えた方が良いと思うところだ。
土曜日であるのだが、職員室には多くの教師がいるようだ。楽しそうな教員同士の会話は聞こえず、代わりにキーボードを叩く音がここまで響いている。あれだけ、チームワークだの、コミュニケーションだのと生徒に指摘する割には、随分と殺伐とした雰囲気を醸し出しているように感じるのだが……まあ、そこは大人と子ども。いろいろとあるのだろう。
さて、それはともかくとして、だ。その廊下の隅で、見慣れた髪型の女子が一人、天井を見上げながら佇んでいた。ああ、やはり高城も呼び出されたようだ。朝より少しだけ血色は良いものの、その表情からはまだ疲労が拭い切れていない。
それもそのはず、これから彼女は……いや僕もそうなのだが、昨日のあの事件について聞かれるのだ。しかも、犯人ではないかと疑われている可能性もある状況で。これで、平常心で居られる方がどうかしている。
「おう。高城も呼び出されたのか?」
「っ! ……ああ、なーんだ、先輩ですかぁ。ってことは、やっぱり先輩もそうなんですね。あーあ、今日は早く帰りたかったのになぁ」
ツン、と唇を尖らせ、不満げに呟く。早く帰りたい、というのは僕も同意だ。
「ホントにな。トラウマをわざわざ
「そうですよねぇ。でも、そういうお仕事なので仕方ないですけど。まあ、それにしても昨日会ったばかりなのに、まだ何を聞きたいんでしょうね?」
「ん? 何だ、高城は誰と会うのか、聞いてるのか?」
「そりゃそうですよ。先生から直接聞いて……もしかして先輩、聞いてないんですか?」
「……」
聞いていないどころではない。むしろ武田は「内容は知らない」とまで言い放ったのだ。どうしてこうも、教職員同士で情報の格差が生まれてしまうのか。本当に、彼らこそちゃんとコミュニケーション能力を磨いて欲しいものだ。
それか、あえて僕には情報を与えずに……いやいや、ここで高城と合流してしまえば、その意味は無くなる。やはり、武田の単純な聞き落としなのだろう。
「はぁ、まったく。んで、そっちの担任はなんて?」
「本当に知らないんですねぇ。可哀そうに」
「うるさいな、憐れむなよ。だから、誰と会うのかって聞いてんだよ。教えてくれよ」
一々、
「警察、だそうですよ。ほんと、あの人たちってデリカシーが無いですよねぇ」
「警察ぅ? なんでまた」
それは、警察が再度僕たちを取り調べに来る、ということだろうか。そんなもの、今でなくとも良いだろうに。
そもそも、僕らも被害者といっても過言ではないのだ。あんなものを見せられて、暗い部屋の中で怖い人達に見られながら話を聞かれる……あんなもの、トラウマ以外の何物でもない。しかも今度は、学校にまで乗り込んできているのだ。授業終わりとはいえ、非常識も
「でもさ、昨日ほとんどの情報を話したはずだよな? それに、だとしたら何で出水は呼ばれてないんだ? アイツも昨日、一緒に警察署まで行ったはずなのに」
「ああ、そういえば確かに。でも、
「ああ、確かに」
その意見は、恐らく正しい。昨日の
つまりここに呼ばれた僕たちに共通するのは、あの死体を目撃したこと、で良さそうだ。しかし、今さら何を聞こうというのだろうか。昨日は被害者の身元すら教えてくれなかったというのに、まだ何か聞くことがあるというのだろうか。
「もしかしたら、その被害者の情報を逆に教えてくれるのかもな。昨日の時点では被害者が特定できなくて、知り合いかどうか聞こうにも聞けなかった、とか?」
「それは無いでしょ。何度聞かれたところであの人を見たことは無いですし、その事実は変わりませんから。今さらあの人の情報を聞いたところで、何か思い出すとは思えませんけど」
「ああ、確かに。そうだよな、僕らは顔まで見た訳だもんな……」
まさか高城に論破されるとは。どうやら僕は、まだ冷静になれていないようである。
俯せの遺体を目撃したのとは訳が違う。この目で、バッチリとその顔を確認したのだ。これ以上の情報など無いだろう。だとすれば、本当に警察は何をしに来るのだろうか。
そんな話をしていると、僕の背後から年老いた男の声が聞こえてきた。それは、学校行事などで散々聞いた、睡眠へと誘うあの声であった。
「ああ、ええと……高城さん、それと水島くん、だね? 二人とも早かったね。いやあ、私もしっかりとは聞いていないから何とも言えないのだけど、災難だったね」
振り返ると、やはりそこには校長の姿があった。心配しているような口振りであるが、あれは単に校長としての立場があってこそ、なのであろう。僕たちの精神面だとか、その辺りにまで気遣う様子は一切窺えない。
「別に、そんなことはどうでもいいです。それより、その警察の方はどこに?」
「そ、そうか。先にこの部屋へ通しているから、早く入ってくれると助かるな。あ、もちろん失礼の無いようにね!」
やはり疑うまでもなく、彼は自身の地位を守るために必死となっている。もう相手をするのも面倒だ、さっさとこの部屋に入って用事を済ませよう。
「失礼しま――――」
ドアに手を掛け、ゆっくりと開ける。部屋の中にある古びた机と、非常にミスマッチなパイプ椅子がその姿を現す。それと同時に、椅子に腰かけているスーツ姿の男女も僕の目に飛び込んできた。
はじめに見えたのは、いかにもベテラン、という雰囲気が
そして、もう一人。その男性の傍らにいた女性を捉えた瞬間、僕の身体は凍り付いた。
栗色の髪、プライドの高そうな目鼻立ち……どこをどう見ても、あの女性だ。
彼女は新宿志摩丹の六階、女子トイレで遺体となって発見されたあの女性と、瓜二つなのであった。
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