2-7

 不意に現れた長い髪の女性の存在に、僕は驚きのあまり声を失った。だが、そんな僕の表情に気付くことも無く、目の前の西野にしのは少しだけ安堵の表情を浮かべ、弱弱しく微笑ほほえみながら駆け寄ってくる。


夏企なつき! どうしたの、こんな時間、に……」


 途中までは彼女の目に僕の隣にいる真中まなかが映っていないようだが、やがてその足をピタリと止め、先ほど浮かべていた表情を一気に曇らせる。


 そして軽く眉間に皺を寄せ、西野は一転して真中へ静かに問いかける。


「……どうして、警察の方がいるんです。夏企に何のご用ですか」


 相手が警察官、しかもあの真中であるというにも拘わらず、普段通りの……いや、それ以上に迫力の感じる目力で、西野は真中を睨み付けた。だが一方の真中は、そんな西野をまるで気にする様子もなく、淡々と彼女の質問を受け流す。


「ああ、お前は確か生徒会長の西野さん、だったか。生徒会長っていうなら、社会常識くらい理解しているだろ。警察が事件とは無関係の高校生に捜査情報を漏らす、なんて甘いことを考えている訳ないよな」

「……ええ、その通りですね、失礼をいたしました。ですが、私は木村きむら先生が屋上から転落するまでの間、ずっと夏企の傍にいました。それなら、私がお二人に同行しても何ら問題はないのではありませんか?」


 西野は、正論を突き尽きられてもなお引き下がろうとはせず、むしろもっともらしい理由を真中へと突きつけた。そんな彼女の姿勢と目力に根負けしたのか、真中は小さく舌打ちをしつつ、口を開く。


「チッ……はあ、分かったよ。言っておくが、捜査の邪魔をするようなら即刻帰ってもらうぞ。まあ、今回はコイツか撮影した映像とやらを回収しに来ただけだ。そう深くまでは調べないさ」

「映像、ですか。それはどうもありがとうございます」


 心にもない謝礼を述べると、西野は一転して不安げな表情を僕に向ける。


「それで、夏企? 映像って……もしかして、あの時のものかしら」


 気が動転したままなのか、西野は僕の名をいつも通り『水島みずしまくん』、ではなく『夏企』と呼んでいることに気付いていない。だが、それを今さら指摘したところで意味の無いことだ。そんな些細なことより、今は録画した映像の方が気になる。


「あ、ああ、そうだ。木村先生が落ちるまでの間、一体なにがあったのかを調べるために必要なんだってさ。……そうだ、西野なら知ってるんじゃないか?」

「え? 知ってるって、何を?」

「ほら、カメラだよ。僕は気を失ってたから分からないけど、あの後場を仕切ってた西野なら、僕が持ってたあのカメラがどうなったか知ってるはずだろ?」

「ああ、そのことね。……えっと、カメラは……ごめんなさい。先生たちを呼ぶのと、夏企の介抱で手いっぱいだったから、ちょっと分からないわね。でもきっと金子かねこくんとか、他のメンバーが撤収したんじゃないかしら」


 そう言って西野は申し訳なさそうに俯いた。その表情から察するに、彼女は本当にカメラの在処を知らないらしい。まあ、彼女は僕たちの活動メンバーではないのだから、そんなところまでフォローしてもらう義理はない。ないものねだり、というやつだ。


 しかし、そうだとすればカメラなどの撮影機材は部室にあるはずだ。僕たちの活動に欠かせない、命ともいえる道具を粗末に扱うなんて、あのメンバーであれば考えられない。いくら非常事態でも、そこは金子を筆頭に冷静な行動がとれると信じている。


「じゃあ、部室にあるのかな。……そういえば、どうして西野はここに?」

「私? 警察との話が終わって、すぐ家に帰ろうかとも思ったのだけど、ちょっと心配になってね。ほら、偶然現場に見合わせて不安に思っている生徒がいたら可哀そうでしょう? それと、野次馬に間違った情報を流されても困るもの」

「ああ、なるほどな。そういうことか」


 さすが、全生徒から畏れられる生徒会長だ。ここまで献身的に生徒たちや学校をサポートしようとする人間など、教師の中でもそう見つからないだろう。彼女も、あの現場を見て混乱しているだろうに。


 すると、また少し苛立ち始めた真中が、僕たちに聞こえるくらい大きな音を立てて息を吐いた。早くしろ、という彼女の意思は、言葉にされなくとも充分に伝わってくる。


「す、すみません……では、部室に」


 これ以上、真中の神経を逆なですることだけは避けようと考えた僕は、急ぎ足で部室へと向かい、扉を開ける。部室の机の上には、出水でみずと金子が創り上げる途中の脚本、それに学校の資料が乱雑に置かれたままであった。よほど慌てたのだろうか、誰かのバッグも置き去りとなったままだった。


「汚いな。少しは片付けたらどうだ?」

「す、すみません。……っと、あった」


 足を踏み入れるなり、不快な表情を見せる真中に少し腹を立てつつも、僕はいつも出水の使っているPCの横に、少し乱雑に積まれた撮影機材の入った箱を発見した。この積み重なった三個ある段ボール箱のどれかに、あの現場を撮影したカメラも入っているはずである。


 詰まれた箱を一直線に並べ、一つずつ開けていく。西野も僕の隣に座り、雑然と物が詰め込まれた箱から機材を取り出してゆく。


「もう、どうして綺麗に片付けられないのかしら……えっと、こっちには無いわね。そっちは?」

「そりゃあ慌ててたんだろ。いつもなら、この辺に……あ、あれ?」

「どうした。早くしろ」

「す、すみません。あれ、おかしいな……」


 真中に急かされ、手早く段ボール箱を探る。しかし、いつも機材を入れていた三つの箱のいずれにもカメラは見当たらなかった。他の機材だけしまって、肝心なカメラを回収し忘れたのだろうか。


 いや、それは有り得ない。木村が転落した際、僕は確かに三脚へとカメラを取り付け直したはずだ。ならば三脚だけがここにあって、カメラが無いというのは異常だ。


「まさか回収し忘れた、のか?」

「そんなことは無いと思いますが。夏企、ちゃんとカメラはあの場に置いて行ったのよね?」

「ああ、それは間違いないと思うけど……うーん、他の箱に入ってる、とかか?」


 嫌な予感に苛まれつつも、もう一度部室をぐるりと見渡してみる。しかし、箱と呼べる物はロッカーの上にある例の古い箱以外には無い。もちろんカメラが床や机の上に、無防備のまま置き去りにされている様子もない。


 まさか、カメラだけが何者かに盗まれたのだろうか。そう考えれば、この状況にも合点がいく。しかし、そんなことは有り得ない。カメラだけを盗まれるだなんて、偶然と呼ぶには異常すぎる。


 ただ、この状況を真中に説明しないことには始まらない。ただでさえ待ちくたびれて機嫌を損ねているというのに、適当な言い訳を重ねるなんて自殺行為だ。


「す、すみません真中さん。何故かカメラだけ無くて、その……でも、信じてください。絶対に、転落した時の映像はちゃんと保存してあるので!」


 このままでは激高された真中に、どれだけの言葉を浴びせられるか分かったものでは無い。でも、少なくとも『あの映像』は存在している。彼女はきっと信じないだろうが、それでも主張し続けるしかなかった。


 だが、僕の話を聞いた真中は顔色を赤く染めるでもなく、青筋を立てるでもなく……じっと考え込むように目を瞑った。まるで、完全に僕の話を信用し切っているような姿に、思わず硬直した。


「え、えっと……真中、さん?」

「……」

「どうしたのかしら?」

「さ、さあ……」


 西野も、真中の様子に戸惑っているようでこっそりと僕へ耳打ちする。怒りが頂点に達し、感情を喪った……というようには見えない。一体、彼女は何を考えているのだろうか。


 すると間もなく真中は再び眉間に皺を寄せ、軽く髪を触りながら僕へと問いかけてきた。それは厳しく叱責するようなものではなく、純粋な事実確認のための、特に感情の籠っていない質問だった。


「……この部屋の鍵は、お前以外に誰が持っている」

「え? えっと……木村先生が持ってるのと、警備室の二つです。まあでも、警備室のやつは適当に帳簿に署名さえすれば、誰でも手に入るものですけれど……それが、何か?」

「そうか。まあ、そんなところだろうな」


 そう言うと、真中はスマートフォンを手に取って部室の外へ出て行った。扉が閉まり、部室内には奇妙な静寂が訪れる。


「ど、どうしたんだろ。あの雰囲気……まるで誰かが僕たちのカメラを盗んだ、みたいに」

「どうなんでしょうね。でも志摩丹しまたんでの事件といい、今回の件といい、夏企の周りで奇妙なことが起きていることは確かね。何かおかしなことが起きているような、そんな気がするわ」

「は? なんだ、西野でもそんなドラマみたいな妄想をすることもあるんだな。意外だよ」

「あら、失礼ね。私だってドラマくらい……ああ、戻って来たみたいね」


 二人だけで会話ができたことで、僕の精神は少しだけ落ち着き始めた。そんな中、ゆっくりと部屋へ戻って来た真中は疲労を表情に表しながら、暗くなりつつある窓の外を眺め、苦々しく僕たちへ告げる。


「さて、そろそろ帰らせないとマズい時間だ。ここに例のカメラが無い以上、粘っても仕方がない。お前たちはさっさと……っと」


 そう話しながら壁に手をつこうとした真中は、壁との目測を誤ったようで態勢を崩し、扉のすぐ横にあるロッカーへ体をぶつけた。その拍子にあの古びた段ボールが落下し、中に入っていた例のアルバムが露わとなった。


「ぐっ!」

「だ、大丈夫ですか!」

「あ、ああ……すまない。しまったな」


 恐らく、立ち眩みでもしたのだろう。真中はつい先日妹を亡くしたばかりなのに、休みもせず犯人を捜しまわっている。そんなことは彼女の顔を見ればすぐに分かる。倒れそうになってしまうのも無理はない。


 ただ、真中は手を貸そうとした西野を制し、落としてしまった段ボールとその中身を回収しようと座り込んだ。


「ああ、片付けは僕たちがやりますから! 無理はしないでください!」

「な、なにを言う。私が散らかしてしまったのだから、お前たちに任せるなん、て――――」


 少し焦りの色を浮かべ、散らばる紙をかき集め始めた、その時だった。真中はふと、手にした一枚の写真を見て、表情を強張らせる。


「なん、だと……」

「え? ……あ」


 真中の異変に気付いた僕は、彼女の手にした写真を覗き込み、思わず息を呑んだ。そう、それは西蓮寺さいれんじ大島おおしまの写っていた、あの奇妙すぎる写真であった。


 普通の人ならば、この写真を見たところで何とも思わないだろう。しかし、知っての通り彼女は警察官で、しかも今回の事件を追う立場である。西蓮寺や大島が写っている写真を見れば、何か疑問に思って然るべきだ。


 恐らく真中は、大島と西蓮寺の写るこの奇妙な写真を見て、何か勘付いたのであろう。いや、むしろ勘付かない方がどうかしている。だからこうして、血相を変えて片付ける手を止めたのだ。


 だが、僕の予想は間違っていた。


 写真を凝視した真中は体を震わせた。そして小さく、しかし確実に僕たちにも聞こえるような声量で、はっきりとその言葉を口に出したのだ。


「父、さん……」

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