1-5

 ドクンと心臓は大きく跳ね、汗が一気に噴き出し、背筋を撫でる。呼吸は止まり、体の機能が全て損なわれたように視界は真っ白となる。ただでさえ静かなフロアーであるというのに、僅かな雑音すら聞こえない。


 このポストカード……いや、ここに描かれた絵は、僕にとって驚愕のものだった。


「ま、まさか……これって……」


 ちょうど今日の昼過ぎ、金子かねこのスマートフォンで見た記事に載っていた、大島おおしま ひろしの事件……あの話題に事欠かなかった男の状況と、酷似していたのである。


 もちろん、大島がこの絵の通りに亡くなったのかは分からない。さすがにどのメディアでも遺体の画像を流すことなどしないし、想像の域を出るものではない。しかしこの絵はあまりにも、僕のイメージ通りだった。


 つまりこの西蓮寺さいれんじという女性は、あの記事に書かれた現場を目の当たりにしたか、もしくは僕の思考を読み取ったとしか思えないのだ。


 いや、落ち着いて考えよう。大島の事件が起きたのは確か、昨日のことである。その現場を目にしていたとしても絵にすることはもちろん、ポストカードにすることなど出来るはずがない。


 これは偶然。単なる、僕の思い込みだ。


 大きく、しっかりと深呼吸をする。脳内に酸素が行き渡り、先ほどよりは幾分か落ち着いてきたようにも思える。しかし、未だ平常心とは程遠い。頭を整理するには、もう少し時間が欲しいところ――――


「先輩?」

「っ!」


 不意に呼びかけられ、続けようとした深呼吸が止まる。その勢いで、僕は大きくせ返った。


「ゴホッ! ゴホッ!」

「だ、大丈夫ですか? 顔色、悪いです」

「ゴホッ……え、ああ……」

「やっぱり、嫌だった、ですか……?」


 どうやら出水でみずは、僕の様子を見て不審に思ったのだろう。心配そうに顔を覗き込んでいる。失敗だ、彼女にあまり不安を与えたくはない。


 真面目な彼女のことだ、ここに僕を連れて来てしまったことを後悔し、気軽に話しかけることすら躊躇ためらってしまうかもしれない。今後の活動のこともそうだが、彼女との学園生活まで考えると、それだけは避けたい。


「本当に大丈夫かしら。やっぱり、無理なさっているのでは?」

「あ、いや、その……」


 出水と同様、西蓮寺もこちらを窺うように、その漆黒の瞳を向ける。しかし出水の純粋な憂慮とは異なり、その目はどこか、奥に潜む何かを隠しているような雰囲気であった。


「そ、そうですね。やっぱり、僕はあまり血とか得意では無くて……すみません、せっかく選んでいただいたのに」

「そう。いいのよ、無理される方が私にとっても苦痛だから。それに」


 ふと僅かに、口角を上げる。そして獲物を捕捉した蛇の如く、その目にも強い光が灯る。


「あなたは知っているのでしょう? これは、と」

「なっ……!」


 もはや口から飛び出しそうになる心臓を、どうにか押し堪える。しかしその拍動はより強さを増し、全身が脈打ちうごめくような感覚に襲われる。それに伴う強烈な吐き気と眩暈が、じわじわと身体をいたぶり始めた。


 現実の出来事である、と彼女は言った。確実に、この耳で捉えた。この絵は大島 浩の事件現場を描いたものである、と断言したも同然である。


 なぜ、わざわざそんなことを。それに、どうしてそれを僕なんかに見せたというのか。まさか、あの事件の報道を見聞きして、あれは自殺などではない、と勘繰かんぐった人間を炙り出すための罠、だというのか。


 つまり西蓮寺は、大島を————


「知ってる……? も、もしかして先輩、知ってるんですか? バートリー夫人のこと」

「へ?」


 戦慄する僕に対し、出水は意味不明な言葉を投げかけてきた。サブカルチャー仲間を見つけたかのように、その瞳は眩しく輝いている。


「バ、バートリー……?」

「はい、処女の血を浴びることで若返ると信じた、吸血鬼のモデルともなった女性です。この絵は、そのバートリー夫人に擬えて描かれたものなんです。そうですよね?」


 恐ろしいほど饒舌な出水の解説に、西蓮寺は舌を巻く。


「よ、良く知っているわね。さすが私の大ファンだと言うだけあるわ。この絵では男性だけど、男性だって若返りたいですものね? ……まあ、この方の場合は童貞のまま、自分の血で若返ろうとした感じですけどね」

「ほら、やっぱりそうだ!」


 ……何だ、そのユニーク過ぎる世界観は。その男、童貞をこじらせすぎたにしても程がある。他の童貞の男の血を浴びたいか、と問われたら僕は遠慮したいが、かといって処女の血を浴びたいとも思わないだろう。なんというか、全く緊張感のないやり取りにすっかり脱力してしまった。


 よく考えれば、なんてバカバカしいんだ。大島を殺した犯人が西蓮寺だった、なんて酷い妄想である。そんな人間が、こうして堂々と個展を開くなど有り得ない。しかも自分でその絵を描くなんて、もはや自供しているようなものだ。


 安堵にも似た溜息を吐き、静かにポストカードを西蓮寺へと返却する。


「えっ! 先輩、もったいないですよ!」

「いや、さすがに僕には無理だ。第一、男は血を見るのが苦手なヤツが多いんだ。金子も確か、グロは得意だけど流血があるとダメ、とか言ってたしな……それはそうと、だ」


 ふと、壁に設置された時計へと視線を移す。時刻はすでに、午後六時になろうとしていた。他に客がいなかったせいもあるが、思いの外、長居をしてしまったようだ。


「そろそろ終わる時間だし、目当てのものは手に入っただろ? 帰ろうぜ」

「あ、そう、ですね。残念ですけど……」

「すみません、冷やかしみたいになっちゃって。これからのご活躍、祈っています」

「ありがとう。気を付けて帰ってね」

「うう……さようなら、先生……」


 出水は渋々ではあるものの、僕の意見に同意してくれたようでブースの外へと向かって歩き出す。


 僕としては、ようやくこの場を離れることが出来て、とてもホッとしている。このわずか一時間程度の間に、どれだけ血圧や脈拍数が増加したことか。もしこれが原因で寿命が縮まったりしていたら、訴訟でも起こしてやりたい気分である。


「あ、待って先輩」


 エレベーターの手前にまで歩みを進めた時、彼女は何かを思い出したかのように僕の肩を軽く叩いた。


「なんだ、まだ何かあるのか?」

美琉加みるか、先に帰った、ですか?」

「え? ……ああ、高城たかしろか。すっかり忘れてたな。確か、女子トイレに直行して、それっきりだったと思うけど。さすがにもう帰ったんじゃないか?」


 ここに来てから一時間程度経過していることを考えると、彼女がまだトイレに籠っているとは考えにくい。それに、僕たちに黙って帰ってしまうのも無理はない。彼女はここに強引に連れて来られた、ある意味で被害者なのだから。


「……そう、かな。様子見てくる。待ってて」


 急ぎ足で女子トイレへと向かう出水の後姿を、微笑ほほえましく見守る。彼女に、高城のような友達がもっと出来ればいいのだが。それも、同じ趣味を持つ人間を。無理し合う関係でない人間が、出水には必要だと思う。


 そういえば、こんなに遅くなるとは思っていなかったので、今日の夕食はどうしようか。まあ、適当なものでも買って部屋で食べることにしよう。早く帰ったところで、どうせ僕は一人なのだから。


「せ、先輩! 先輩‼」

「ん?」


 暇つぶしにスマートフォンを取り出した矢先、悲鳴にも近い声を上げながら、出水が慌ただしく駆け寄ってきた。高城がトイレにいなかった、というようなレベルの反応ではない。彼女の想像を超えた何かがそこにあったということを、暗に示している。


「な、どうした急に。何があった――――」

「美、美琉加が! 倒れて! ト、トイレで!」

「えっ……?」

「す、すぐに、来て! 早く!」


 凄まじい強さで腕を引っ張られ、訳も分からぬままに女子トイレへと向かう。あまりの勢いだったため、トイレの入り口を眼前にしたところで、ようやく彼女の腕を振り解くことができた。


「ちょ、ちょっと待て! 待てってば! 僕がここに入るのはマズい、誰か別の人を呼ばないと!」

「そんなこと、言ってる場合じゃない! 早く! 私一人じゃ、難しいの!」


 出水の剣幕に圧倒され、否応なしに女子トイレへと踏み込んだ。すると、閉まっている個室の前で横たわる人間の姿が、よく磨かれた鏡の奥に映っていた。


 あの服装、それに髪型。うつぶせになって倒れているために顔は確認できないものの、あれは高城だ。それだけは断言できる。


「お、おい! 高城! 起きろ!」


 素早く駆け寄り、その体を軽く揺さぶるが反応はない。しかし呼吸の方はというと、わずかだが肩の上下動が見られ、口元に手を翳すと吐息がかかる感触があった。ひとまず、生きてはいるようだ。


 しかし仮に、トイレのような硬い床に頭を打ったとすれば、あまり動かさない方が良い場合もある。まずは頭部の外傷を確認するため、軽く頭を浮かせ、注意深く観察した。今のところ、見た目には問題なさそうだ。


 まったく、医学部出身のエリート官僚である両親の教えが、こういう形で役に立つとは。役に立つ日が来ないことに越したことは無いが、こうなっては仕方がない。冷静に状況を分析し、最善を尽くすのみである。


「せ、先輩。私は、どうしたら……」

「まずは深呼吸してから、近くにいる従業員に連絡してくれ。僕はここで様子を見ているから、落ち着いて状況を伝えるんだ。いいな?」

「は、はい!」


 本来であればここは女子トイレであるため、僕よりも出水が横についていた方が良い。だが彼女の慌てた様子を見る限り、それは避けるべきだ。急変した場合、あの状態では何もできないだろう。ならば、他人と話す機会を作り、少しでも冷静になってもらった方が有益だろう。


 バタバタと女子トイレから遠ざかっていく出水を目で見送りつつ、倒れた高城の状態を観察する。


 外傷らしきものは、少なくとも頭部に見当たらないとなると……内臓疾患か、もしくは脳卒中のようなものか。いや、何の持病もない高校生がそのような疾患を起こすことは考えにくい。無論、持病として何かを有している場合もあるが、そういう話は一切聞いたことが無いので、可能性としては限りなく低いとみて良いだろう。


 だとすれば一体、彼女の身に何が起きたのだろうか。



 ピチョン、ピチョン



「……?」


 思考を巡らせる僕の鼓膜に、水の滴る音が小さく響く。それも一回だけではない。一定の間隔で、液体が滴っている。


 温水洗浄便座による水滴、だろうか。だとすれば、少なくとも誰かが、高城の倒れる前にここのトイレを利用したことになる。もしくは、高城本人が使用した可能性もあるか。


 しかし、志摩丹しまたんほどの大手百貨店にあるトイレの温水洗浄便座が、水漏れなど起こすだろうか。いや、まず考えにくいだろう。ちゃんと手入れは行き届いている、と考えても良い。それくらいは出来て当然だろう。



 ピチョン、ピチョン



 まだ、この音は止まる気配がない。まさか、誰かが使用中なのではあるまいな。……いや、一定間隔で用を足す人間などいないか。


 個室の扉は……全て閉まっている、か。しかし、そのいずれも鍵はかかっていないようだ。女子トイレであるし、万が一、一定の間隔で排泄が可能である女性がいたら、僕は痴漢呼ばわりされてしまうだろう。やはり出水も残しておけばよかったか。



 ピチョン、ピチョン



 しかし、僕の葛藤を嘲笑あざわらうかの如く、その水音は鳴り続ける。


 チラ、と高城の様子を確認する。見た目上、先ほどから何も変化を認めない。念のために頚動脈に触れてみるが、脈拍数に大きな異常はない。当然、不整脈があるかどうかなど分かる訳ではないが、少なくともこのトイレの個室の扉を開けるくらいの猶予は存在するだろう。


「す、すみません、誰かいます、か……?」


 今さらだが、一応声を掛けてみる。しかし相も変わらず、嫌な静けさと雫の落ちる音色が返ってくるのみであった。


 やはり、誰もいない。となれば、本当に水漏れか、それとも他に何かがあるのだろう。


 異様な雰囲気に、思わずゴクリ、と喉を鳴らす。また嫌な汗が額から首筋へと滴る。仕方がない、扉を開けてみる他に、この音の正体を確かめる術はないのだ。


 個室は、計四つ。耳を澄ませると、高城が倒れているせいで開けられない扉の一つ先……入り口から数えて三番目の個室から、その音は聞こえているようだ。狭い空間であるので、反響していて分かりにくいが、扉に耳を当てると、確かにこの三番目の個室から聞こえている。


「あの、入ってますか?」


 コン、コン


 念を押すため、声を掛け、それと同時に扉を軽くノックする。しかし、反応はない。


 こうなれば、意を決して開ける他にあるまい。声を掛けても、ノックをしても反応がないということは、誰もいないか、居眠りをしているか、のどちらかだ。


 ゆっくりと、肩に余計な力を入れつつ扉を開ける。すると、僅かに開いたその隙間から、黒のパンプスがチラリと見えた。あれは、誰がどう見ても女性の脚だ。


「す、すみません!」


 どうやら、本当に使用中であったようだ。危うく扉を全開にしてしまい、痴漢扱いされてしまうところだった。慌てて扉を閉めたせいで、バタンという大きな音がトイレ中に響く。


「はぁ、良かった……ん?」


 それでも、中にいる女性は反応を示さない。あれだけ思い切りよく閉めたはずであるのに、何の物音も立てないとは、もしや昏睡状態にあるのだろうか。


「まさか……?」


 嫌な予感が脳裏をよぎる。高城と同じく、何かしらの原因でこの女性も気を失っているとしたらマズい。特に便秘に悩む女性である場合、いきんで排泄した際に脳卒中などを来すことも、可能性としては有り得る。その場合は、一刻を争うのだ。


 もはや、変態呼ばわりもやむなし。というか、そんなことを言っている場合ではない。これには人の命が関わっているのだ。


 改めて扉へと手を掛け、今度はゆっくりとではなく、勢いよく開け放つ。そして躊躇うことなく、個室へと足を踏み入れた。


「大丈夫で――――」


 刹那、僕の全身は凍り付いた。助けようとしたその女性には、あるはずのものが無かった。普通の人間ならば、首から上に付いていて、決して取り外すことの出来ないものが、見当たらないのだ。


 その姿は一見すると、黒いスーツを纏った頭のないマネキンのようである。しかしその首の部分には、生々しくどす黒いあかがこびり付いていた。これは、明らかにマネキンではない。



 ピチョン、ピチョン



 その間も、相も変わらず何かの滴る音が響く。その原因を探るべく、僕はゆっくりと視線を下ろす。


「っ……!」


 そして僕はようやく、本来あるはずのものを、その両腕の中に見つけることが出来た。しっかりと、大事そうに抱えられていたものは、その女性の頭部であった。先ほどから一定間隔で滴る水滴は、その切断面から零れる血液が便器の水面を打つ音色だった。


 これ、だったのか。高城が倒れてしまった理由が、今になって分かった。いや、分かってしまった。彼女は、これを見てしまったのだ。おどろおどろしい絵画から逃げ切ったと思った矢先、それよりも恐ろしい現実が、この空間で待ち構えていたのだ。


「う……」


 猛烈な吐き気が襲う。呼吸が停止した影響で、視界が白く霞んでゆく。


 成す術もなく、僕は膝から崩れ落ちた。隣で横たわる高城の二の舞となり、無様にも地に伏せる。


 そして薄れゆく意識の中、前のめりになって倒れた僕が最後に目にしたのは……黒い、一枚のカードであった。

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