あの娘に「すき」と言えないワケで

邑楽 じゅん

プロローグ

とある夏休みの日のこと

  けだるい暑さがまだまだ街中を支配する、八月の下旬。


 学校は久しぶりの登校日とあって、クラスメイトとの再会に嬉しそうに会話をしたり、途中提出の締切となっている課題が終わらず、焦って友人のものを書き写す者など様々だ。

 だが、その少年は自分の席で神妙な顔つきのまま、口元に拳を当てている。

 そんな彼の様子を見た仲の良い男子生徒たちが声をかけてきた。

「おいっ、大貫おおぬき。ぜんぜん元気ないじゃん。どうしたんだよ」

 少年は声をかけられたことに慌てふためき、ぎこちない笑顔で取り繕う。

「別になんにもないって。また九月には学校が始まるなって思っただけだって」

「夏休みデビューかよ。グンマーのお前が、キャラ変えして女子にモテようとしてもダメだっての」

 茶化して肩を組んでくる男子たちに対しても、彼は言葉少なに首を横に振る。

「それだけじゃなくてよ……いとこの小っちゃな女の子をうちで面倒みててさ……」

「うわっ、ロリコンかよ、お前! それで興奮してるとかヤベェぞ!」

「ちがうわ、放っといてくれって」

 会話が一段落すると、また彼は口元を押さえて視線は焦点も合わせずに前方を眺める。


 その光景を見ていた他の女子グループが、ひそひそと会話を始めた。

「ねぇ、なんだか大貫くんすごく落ち着いちゃったんじゃない? 前はワチャワチャした男子の中のひとりって感じだったのに、あのオーラはちょっとカッコいいかもしれないよね。もともとそんな顔も悪いほうじゃないんだけど、地元のせいか少しだけ田舎っぽくて眼中に無かったじゃん」

「もしかして大貫くん、カノジョができて夏休み前半でもう『済ませちゃった』んじゃない? だって群馬から出てきてひとり暮らしだから、家に連れ込めるでしょ?」

「うそっ! そうかも、ありえる! ちょっと探り入れてみようかな?」

 盛り上がるグループの輪の中にいて、ひとりだけ案じたように彼の姿を見る少女。

 その視線に気づいた他の生徒が声をかける。

「ちょっと、加奈かなも大貫くんのこと気になるんじゃないの? 一緒に委員会活動してるうちに、まさか好きになったとか?」

 加奈と呼ばれた少女は、驚いたように慌てて両手を振り早口に否定する。

「あ、あっしはそんなんじゃないよ。大貫くんとは委員っ……のやつだけだし」

「焦って『あたし』って言えないくらいじゃん! 正直になりなよ!」

 もちろん少年に恋人ができたり、夏休みの間に嬉しい出来事があった訳でもない。

 そんな噂をされているとも露知らず、大貫少年は相変わらず視線をわずかに落とす。

 両手の組まれた指は口元をしっかりと押さえ、わずかに眉間に力を入れる。

 この『秘密』を他の生徒には絶対に気づかれてはいけない、という覚悟の表れであった。


 放課後。

 少年は背の高い入道雲の隙間を縫うように、わずかに広がり出した黒雲を見る。

「一雨くる感じはあるけど、洗濯ものはだいじょうぶだったな」

 彼はアパートの一室の前で、ポケットのキーチェーンから鍵を握る。

 ドアを開けて入ると、エアコンの消えた室内は夏の蒸した熱気に包まれていた。

 その中で静かに本を読む幼女。

「おかえり、たかにぃ。またご本を読ませて」

「ふみ、いい子にしてたか?」

 幼稚園の年長か小学校低学年くらいの幼女は、赤い着物に白の帯を着けている。

 前髪は眉のところで、他は肩口で綺麗に刈りそろえられたおかっぱ髪を揺らしながら、玄関に立つ少年に笑顔で駆けよってくるが、彼女は汗ひとつかかず、この閉め切られた不快な密室の中に居ても平然と留守番をしていた。

 少年は脱ぎ散らした服や荷物が乱雑に置かれたワンルームの室内に入ると、本棚に並ぶ書籍の背表紙を指でなぞっていく。

「夏目漱せぎあたりでいいだろ? それとも芥川龍之ずけでいいか?」

「てきとうにえらばないで!」

 そこにはあらゆるジャンルの書籍が並ぶ。いずれも背表紙がくたくたになっていたり、日に焼けて茶褐色に変色している。古書店でワゴンセールになっていた安価なものだ。

「これから洋服の片づけと宿題があるから、これでも読んでろ」

 彼は帰宅途中に書店に寄って買ってきた、流行りのライトノベルを渡す。

「たかにぃ、これ二巻でしょ? ぜんぜんお話わかんない!」

「まぁ読んでろって。家事があるんだからおとなしくしてろよ」

 幼女は頬を膨らませながら本棚から同じ作品の第一巻を取って、ぺたんと座り込むとページを読み進めていく。

「これで、お話がつながるね」

 読書を始めた幼女の相手をやめて、少年はベランダの洗濯物を取りこんでいく。

「たかにぃ、ちゃんとあっちの『お話』も進んでる?」

 幼女がページに目を落としたまま少年に声をかけると、彼も盛大な溜息をつく。


 そもそもの原因とも言える、この子と同居をすることになった理由。

 それは夏休みが始まったばかりの頃まで遡る――。

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