夏休みのはじまり

第一話

 七月下旬のある日。

 この春に単身、東京へ出て以来の、久しぶりの実家への帰省。

 少年の暮らしていた寂れた山村には、高校がない。

 中学を卒業すると、村にわずかにいる若者たちは高校がある都市部へ向かう。

 大半は電車で移動できる街への通学をしているのだが、少年は受験をして東京へと出てきた。

 都会への憧れがあったわけではないが、父が金銭面で協力をしてくれたためだ。

 それもそのはずで、彼の先祖は商売で財を成した。

 村でもひときわ目立つ、大きな白壁の土蔵の建つ広大な庭のある家が彼の実家だ。

 敷地の門にかけられた『大貫』の表札のある、立派な石組の塀を通り抜けていく。


「ただいま」

 土間のある玄関に腰をおろして靴を脱いでいると、彼の両親が出迎えた。

「おかえり、孝志たかし。ちゃんと栄養のある食事してる? たまには連絡よこしなさい」

「孝志、勉強や一人暮らしの家事のほうはどうだ?」

「まぁね、世話ないよ」

 孝志は、もと住んでいた自分の部屋へと向かい、やや閑散とした室内を見回す。

 必要な家財は東京へと持っていったため勉強机くらいしかない。

「誰も住んでないのに、ホコリはしっかり溜まるんだから不思議なもんだわね」

 母が肩をすくめて笑う。

「生まれたこの家もこの部屋も無くなっちゃうんだもんな……そいで、引っ越し先はどっかに決めたって親父は言ってる?」

「まだ、お父さんは会社の移転先を探すのにバタバタされてて、決まってないわ」

「そうなん。ともかく、ゆっくりさせてもらうからさ」

  荷物を放り出した孝志は手足を伸ばして、畳の上に横になった。

 しばらくは単身暮らすアパートのように家事に追われることもない。

 この帰省の間は親に甘えてのんびりするつもりだったが、週末のある日、父から言いつけを受ける。

「孝志、悪いが一緒に蔵の中をかたしてくれないか」

「マジか。せっかく実家にきたんだからゴロゴロしたかったのに」

「ウチは男手が足りないんだ。お前も手伝え」


 孝志が生まれ育った群馬県のみどりさわ村は、数年後にダムに水没する。

 駅からは比較的、高台にあると思っていた彼の家ですらもそれを免れる術もなく、やがては水の底に眠り、泡沫うたかたの夢と潰えていく運命だ。

 昨年、祖父が急な病で亡くなってからはまったく手つかずだった土蔵も、いずれは放棄される憂き目となるため、中身の確認と荷物を減らす目的で掃除をすることとした。


 大ぶりの鍵を錠前に差し込み、かんぬきを引くと戸を開ける。

 蔵の中はひんやりとしているが、ホコリっぽい匂いが充満していた。

 ところが、その薄暗がりのなか着物姿の幼女が座っている。

 幼女は蔵にあった大昔の写本と思われる物語を静かに読んでいた。

 あり得ない光景に仰天していた孝志と幼女の互いの目が合うと、反射的に扉を閉めた。

「うわっ、親父! 中に女の子がいる!」

「バカを言うな。いまお前が開けたばっかりだろ」

 父が蔵の戸を引くと、幼女の姿は無くなっていた。

「昼間から寝ぼけて勘違いでもしたんだろ?」

「マジだって。おかっぱで赤い着物でさ……」

 蔵の中に入り、荷物の隙間をのぞきこんでも幼女の姿はなかった。

 孝志は気を取り直して、父と共に蔵の整理を始める。

 汗を流しながら、蔵に保管されていた荷物を順番に出していると、様子を見にやってきた祖母に、孝志が問いかける。

「ねぇ、ばあちゃん。さっき、ここに女の子がいたんだよ。おかっぱ頭で赤い着物の子でさ」

「なんだ、また出たのか。じいちゃんだけでなく、孝志にも見えるんだね」

「マジで……しかもじいちゃんにも見えたってホント?」

 驚きもせず平然と返す祖母に、彼も目を丸くする。

 だが、父は信用していないのか、自分の母の話を訝しそうに聞いている。

「孝志のじいちゃんのじいちゃん……つまり孝志からみて四代前のじいさまには妹がいたんだよ。病弱で床に臥せることが多くて、妹さんが退屈しないように、よく本を読ませてあげてたそうなんだが、若くして亡くなったみたいでね。それで、妹さんみたいに病気の治療も満足にできないなんてことがないよう、暮らし向きで苦労しないように商売に精を出されたって話だわ。まぁ、ウチにいる座敷童みたいなもんさ」

「だから、こんなに本が大切に残ってるのか」

「さっ、いいから続きをやるぞ」

 父は祖母の話に肩をすくめると、作業の続きをうながす。

 孝志が蔵書を手に取るたびに舞い上がるホコリを、丁寧に払っていく。

 父は桐箱の中身を確認しながら、不用品とを分けて並べて陰干しをする。

 せっかくの呑気な実家の帰省は序盤から蔵の整理にかかりきりとなり、週末の二日がかりで男ふたりの手によってようやく終わった。


 不要なもの、廃棄するもの以外は、一旦また蔵へとしまっていく。

 その際に、孝志はふと視界に入った、まだ手つかずのものを指さす。

「ねぇ、親父。あの金庫の中は整理しないの?」

 蔵の奥には、ぶ厚い扉がついた金庫がなかば壁に埋まるように据え付けてあった。

 それを聞いていた祖母が代わりに返事をする。

「あの中はその妹さんを亡くした、ひいひいおじいさんの遺言で、そのまま大切にしろってことなんだよ。百年前から閉まったままだって聞いてるけどね」

「鍵が壊れて開かないとか?」

「いや、開かないことはないだろうが、誰も開けてないってだけだね」

「じゃあ、すげぇ年代物のお宝が入ってるかもしれないじゃん」


 太陽はすっかりと山合いに姿を隠し、周囲はうっすらと陰る時刻となった。

 戸を閉める直前、中にいたあの女の子がまた出没しないかと、孝志は蔵の中に呼びかける。

「おーい、いないのか? こんな暗いとこにいたら退屈じゃないのか?」

 だが、呼びかけに反応はない。

「……座敷童ならやみくもに出歩いたりしないで、ずっとここにいるか」

 やむなく、戸を閉めてかんぬきを通した。

 ところが、蔵に背を向けて振り返ると、すぐ正面に幼女が立っている。

「呼んだ?」

 こちらの呼びかけに対し、本当に現れたことに仰天する孝志。

「マジでいるのか……しかも見たり会話できたりするって、すっげぇ座敷童だな」

 孝志は背を丸めると、幼女の頬をつついたり、引っ張ったりする。

「よしてよ! いちおうこれでも、ご先祖様なんだからね」

「それに触れるじゃん、ホントにばあちゃんが言ってた通りの人だったんだな」

 幼女は引っ張られた頬を撫でると、あらためて孝志の顔を仰ぎ見る。

「あたしはふみ。つまりお前の高祖叔母こうそおばってこと?」

 天真爛漫で無垢そうな幼女のくせにお前と言うあたりが、ご先祖感を醸していた。

 化けて出たのも親族や先祖だと思えば怖くないのか、相手が幼女だからか、頭を掻きながら孝志は軽く尋ねる。

「はぁ……そいで、ふみさんはどうしてここにいるんすか?」

「ここにあるご本はもう読み飽きたの。お前があたらしいご本を用意してよ」

「本? べつに構わないっすけど。でも蔵にもさんざあったじゃないすか」

 ふみは帯に挟んであった背中の本を取る。

 それは明治から大正にかけて活躍した文豪の本で、とても幼稚園生くらいの女の子が読める文字ばかりではない。

「こんな難しい漢字ばっかりの、読めるんすか?」

「文字なんてしょせん目で見る記号じゃない。ここに書かれてるのは言霊だから。あたしも気づいたら読めるように……うーん、読むっていうか文字を見てると音で聞こえてくるの」

「そうなんすか。だったら、ご供養のために絵本か少女マンガでも買ってきますかね?」

 ふみはむすっと不機嫌そうに口を曲げると、短い足で孝志のすねを蹴る。

「いてっ。声を聞いたり触れるだけじゃなくて、暴力もできるのか」

「バカにしてるでしょ。もっと日本じゅう、世界じゅうのお話を読みたいんだから。これでも百歳はよゆうで越えるんだからねっ、おこんじょしてっと祟っから!」

 声を上げるうちになにかを思いついたか、突然にふみは両手を叩く。

「お前はたしかおっきな街に住んでるんでしょ? だったらあたしもついていくから。お兄さまは臥せっているあたしが永いおねむになる前まで、いろんなご本を読んでくれたおかげで、ぜんぜん遊びにいけなくても、いろんな世界を見れたんだから。だから、お前といっしょにいろんなご本を読みにいくよ」

「勘弁してくださいよ。俺は学生だし、東京に戻ったら学校とかあるんですから。それにいくらご先祖様だって言っても、男のひとり暮らしだとやっぱ、あのほら……いろんなアレをする時間もあるわけで、ちっと困るんすけど」

「んぶはぁっ!」

 突然に喀血して膝を崩すふみ。

 指の隙間から滴る血液を見ながら、瞳を潤ませてつぶやく。

「こんなに玄孫やしゃごが冷たいなんて……お兄さま、ふみはもうすぐそっちに逝きます……」

「うわっ、だいじなんすか! わかりましたよ、とりあえず治療しないと……」

 慌てふためく孝志を見るなり、途端にふみはけろっとして笑顔を浮かべる。

「はい、やくそく。ゆびきりね。玄孫のためにじゃましないってば、だいじだいじ」

 笑顔で差し出す、血液が付着したふみの小指を握り返すと、わずかにどろっとした重い感触に包まれる。

「ゆびきりっつうか……血の契約って感じなんすけど」

「次期当主のお前の名前はなんていうんだっけ? たかふみ? たけし?」

「孝志です」

「そっか、孝志ね。じゃあ、たかにぃちゃんだね」

 ご先祖からおにいちゃん呼ばわりされるのも不思議な感覚だったが、彼も座敷童に憑かれてしまった事態はすっかり諦めて、行動を共にすることとなった。


 ひと夏の休みをのんびり二週間ほど帰省にあてるつもりだったが、孝志が休んでいる間もふみはそわそわと自室を駆け回っては、本はまだかと騒ぎ立てるので休めず、早々に休暇を切り上げて東京に帰ることにした。

 母も急に帰京すると言い出した息子を心配して、玄関で声をかける。

「またお盆には帰ってきなさいね。お墓参りもしなさいよ」

「お盆か……わかったよ。とりあえず東京に戻るからさ」

 駅でのぼり方面の列車を待っている間、ふみは自宅にわずかに残っていた、以前に購入した孝志の漫画を読んでいる。

「マンガはセリフとか擬音ばっかでよくわかんない」

「でっかい本屋は都市部にしかないんだから、しょうがないだろ」

 孝志も実家での数日の同居のうちにすっかり慣れたのか、先祖であるはずのふみに対して、気さくな口を利くようになっていった。

 ところが他の乗客や観光客は、はた目に少年が突然に独り言をしはじめたのを見て、不審そうに視線を送る。

 彼女のことは他の人には見えていないことを思い出すと、孝志も居心地悪く肩を縮める。

「とりあえず、ふみは幽霊みたいなもんだと割り切らないとな。外ではあんまし俺に声をかけないでくれよ?」


 電車を乗り継ぎ東京へ到着すると、自宅へ戻る前に図書館に向かった。

「金も無限にあるわけじゃないんで、ここで適当に借りてくか、読んでってよ」

「あ、でもお供えものじゃないとさわれないの」

「お供えもの……ようするに俺が触らないとダメってことか。じゃあ今日は借りてくから、好きに読んでくださいませ、ご先祖様」

 孝志はふみが本当に難しい日本語を読めているのか怪しんで、わざとぶ厚い古典文学や時代劇小説などを、手当たり次第に集めていく。

「まずはこの上限いっぱい十冊までな。これでしばらくは大人しくしてろよ」

「うん、でも明日もあさっても、また借りてね」

「バカ言うなって。読み終わってからな」

 借りた書籍の重さがずっしりと両肩にのしかかるリュックとともに自宅へと向かった。

「はい、ただいまっと……まぁ、俺以外は誰もいないけどさ」

「たかにぃのおうちついたーっ! えらいね、ひとりで遠くで暮らしてて」

「そりゃ、ご先祖様のおうちが田舎で、近くに高校が無いせいですよ、えぇ」

 当て擦りを言いながら、荷物を床に放る孝志。

「あんまりかたづいてないね。それにちょっと男の子くさい」

「うっさい。座敷童のくせに匂いまでわかるのかよ。勝手についてきて文句言うな」

「そいじゃさっそく、あたしはご本を読もうっと」

 ふみは図書館で借りた漢字だらけの一冊を手に取ると、ページをめくっていく。

 孝志は部屋の窓を開けて換気をし、仕送りとして貰った食材を冷蔵庫に仕舞ったり、着替えなどの荷ほどきをしている。

 ついでに、家事をするふりをして読書に夢中になっているふみの様子を窺いながら、孝志は健全な男子のための本を、彼女の背が届かないクローゼットの最上段にこっそりしまった。

 今度は掃除機をかけだしたが、轟音が室内に響いてもふみは平然と読書をしている。

 しばらくすると手持ちの本を交換した。

 そんな一冊が急に読める訳もないし、どうせ子供だから、送りがなや文字の読めるところだけ読んでその気になっているのだろうと、掃除を終えた孝志もさして気にせず部屋でくつろぐ。

 やがて、日没を迎えて外が薄暗くなってきた頃。

「おもしろかった」

 借りてきた十冊を平積みにして、満足そうな笑顔を浮かべるふみ。

「はぁ? もう読んだってのか。速読じゃないんだから、もっと味わって読めよ」

「でもちゃんとぜんぶ読んだよ。これなんかとくに最後のとこ、敵のおさむらいが味方にだまされてやられるとこなんかスカッとした」

 彼女の発言に驚いた孝志はシリーズものの捕り物帳を手に取ってページをめくると、どうやらふみが言う通りの展開を迎えているようだったが、彼のほうが物語に追いつかなかった。

「こんな小難しい漢字だらけの小説もホントに読めるんだな……」

「ねぇ、はやく次のご本を用意して」

「もう図書館も閉まるし、今日はおしまいだよ。あとは俺の持ってるマンガかラノベでも読んでてくれよ」

 ぷうと頬を膨らませたふみは、本棚から彼のお気に入りの書籍を読み進めていく。

『しかしどうするかね、これ……図書館の本でも読み漁ったら成仏してくれるかな?』

 ふみがいつまで同居するかもわからず、クローゼットに隠したオトナな男子の本が活躍するチャンスがあるのかも知れず、言いようのない不安を覚える孝志だった。

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