第二話

 翌日。

 借りたばかりの本十冊を図書館に返却しにいくと、カウンターにいた司書も本当に読んだのかと、怪訝そうに孝志の顔と本を交互に見ながら手続きをする。


 その間にイスに座って待つふみは退屈そうに両足をぶらぶらさせていた。

 やがて返却カウンターから戻ってきた孝志は、頭を掻きながら腰をかがめてふみに向き合う。

「何度も借りるとやっぱ怪しまれるわ。これ、次もすぐ借りるんじゃなくて、ここで読んでったほうがいいんじゃないのか?」

「じゃあホンモノの人間みたいに化ける? たかにぃ以外の人にも見えるけどいい?」

「そんなこともできるのか。それを早くすればよかったな。いいじゃん、そうしたら?」

 ふみは女子トイレに駆け込んでいくと、またすぐ扉を開けて出てくる。

 ぱっと見た限りでは、孝志には何の変化もわからなかった。

 だが、すれ違った老婆が笑顔でふみに語りかける。

「あらまぁ、きれいなおべべ着て可愛いお嬢ちゃんね」

 そのやり取りを見ていた孝志も、納得したようにうなずく。

「便利な身体だな」

「ちゃんと鏡にうつるか、確認しないとダメなのがめんどうかな」

「さて、俺は宿題やってるから。本を読み終わったら言えよ?」


 ふみはテーブルに陣取って読書をしており、孝志はその合間に彼女のリクエストで本を集めてくる係。

 だが、孝志の横で静かに読書をするふみの姿を見て、声をかけてくる人もいる。

「あらあら、小さなお嬢ちゃんがおとなしく読んでてエライね。絵や写真が多いから楽しそうに読んでるけど、わかるのかな?」

 その人が立ち去ると、むすっと眉を寄せて小声で孝志に向けて囁くふみ。

「スヴェーデンボルグやハイデッガーも越えた完全幽体のあたしのことを、見た目だけで子供だってバカにしてるのよね。祟ってやるんだから」

「まぁまぁ、そう腹を立てるなって。やっぱ小さい子がそんな難しい本を読んでること自体が、ぱっと見でヘンなんだからさ」

 ふみは、小説や伝記に飽き足らず文芸書や学術書、コラム本やエッセイ、エンタメムック本から少女漫画まで、ジャンルも洋の東西も問わずに読み漁っていく。

 そのままふたりは、わずかな休憩を挟んで日がな一日、図書館で過ごしてしまった。


 閉館時間がきて、ふみは満足そうに孝志の隣を歩く。

「今日はいっぱいご本読めた。明日もまたいこうね!」

「またかよ……まぁいいけどさ、俺は夏休みの宿題がはかどるから」

 やや疲れの色を見せる孝志は、ふみの小さな手を握って自宅へと戻っていた時だった。

「大貫くんじゃない?」

 呼び掛けられた彼が声のした方を向くと、そこには見慣れたクラスメイト。

 艶やかな長い黒髪は学校と同じく普段通りだが、身に着けるのは淡い色調のボタンのワンピース。

 制服ではない薄着の私服でいた彼女の姿に、孝志も思わず頭から足先まで見る。

「あっ、鈴木さん。久しぶりだね。終業式のあとの委員会以来かな?」

「かわいい女の子を連れてるね。洋服じゃなくて着物なのもすごい。妹さんいたの?」

「あの……えっと、親戚の子。ちょうど遊びにきてウチで預かってるんだ」

 横を歩いていたふみは、突如現れた孝志のクラスメイトの顔をじっと見ている。

 同窓の少女は膝を折って目線をふみに合わせると、その頭を撫でた。

「こんにちは。あたし鈴木加奈っていうの。お兄ちゃんと同じ学校なの。よろしくね」

 ふみが唐突に自分はご先祖様だとか座敷童であるとか、妙なことを言い出さないか、孝志は不安げに祖先の霊を見守る。

「あたしはふみ。おねぇちゃんは、たかにぃのお友達?」

「すごいかわいい! あたし、お姉ちゃんと弟はいるんだけど、妹が欲しかったの。いいなぁ、大貫くん」

「ふみもおねぇちゃんみたいな、やさしいお姉ちゃんが欲しい!」

「ホント? ありがとうね。すごく嬉しいな」

 危なげない言動で素直に子供として振る舞うふみに、孝志も安堵して胸を撫で下ろすが、彼女の相手をする加奈に怪しまれないうちに適当な話題を振る。

「鈴木さんも、家がこの辺だったの?」

「あたしもけっこう近所だよ。普段はバス通学だから大貫くんとは会わないかもね」

「じゃあ、あの大通りの向こうの方か。たしかにウチからだと駅が近いからね」

 ふみは首を伸ばして、他愛ない会話をしているふたりの様子を交互に見る。

「大貫くんってひとり暮らしだったよね。ふみちゃんのご両親とかも来てるの?」

「あっ、いや、なんていうか……ふみだけ置いて親戚は帰っちゃった。はじめてのおつかいって感じで、こいつは東京に冒険にきたみたいなだけ?」

「ホントっ、ふみちゃんのお世話とか大変じゃない? もし、あたしで手伝えることがあれば言ってね。大貫くんの助けになりたいから」

「えっ、鈴木さん。俺の……?」

 固まった笑顔のまま見返す孝志を見て加奈もはっと我に返り、照れ臭そうに顔をそむけると、そのまま彼女はうつむきながら挨拶をする。

「あっ、それじゃ、あたし帰るから。お母さん待ってるんで、じゃあね」

 加奈はふみに手を振ると、少しだけ足早に去っていく。

 通りのかどを曲がって孝志たちの姿が消えたところで、自分の顔を掌で覆い隠す。

『なにやってんの、あたしったら……これじゃまるで、大貫くんが気になるみたいなこと言っちゃったじゃない……確かにいつも委員会の時は一緒だし、いろいろクラスへの掲示物とか指示とか手伝ってくれるし、優しいし、ちょっと純朴そうで都会慣れしてなくて、垢抜けてない感じも少しかわいいかなって思うけど……』

 加奈は大きく息を吐くと、自分を落ち着かせるように歩き続けていた。


 一方、孝志と共に家に向かって歩いていたふみは、唐突に彼の腕を引っ張る。

「たかにぃ、あのおねぇちゃんは誰?」

「ん? 鈴木さんのことか。俺とおんなじクラスで美化委員会やってる子だよ」

「たかにぃは、あのおねぇちゃんのことすきなの?」

 唐突なふみからの質問に、孝志も焦って咳込む。

「知らねぇよ。そんな意識したことなかったけど、まぁ……東京でてきてからは女子の中では一番喋れるクラスメイトってとこかな」

「ふぅん……」

 ふみはとても幼女らしからぬ、いかにも先祖らしい老獪な笑みをにやりと浮かべる。



 あくる日。

 またもふみの催促で図書館へと向かう孝志。

 ところが、この日ふみが読みたいとリクエストした本といえば、シェイクスピアの悲劇や『椿姫』に『嵐が丘』、『源氏物語』に『金色夜叉』など世界の名だたる恋愛劇だった。

「ふみが恋愛ものなんてわかるのかよ。おませさんか、お前は」

「たかにぃみたいに男の子のほうがガキんちょなんだから。女の子なら幼稚園でチューするくらいすきな子だって、いるからね」

「へいへい……ご立派なことで」

「あとさ、夜はヒマだったから、たかにぃのお部屋のご本を読んでたんだけど、女の人がすぐおっぱい出るのってなんで? 今みたいに夏のあっつい頃のお話?」

「バカッ、図書館は静かにしろって!」

 普段と同じ明るい声で問いかけるふみの口を孝志が慌ててふさぐと、周囲の視線を気にする。

 クローゼットに隠したオトナ向けの本ではなさそうだが、本棚に並ぶお気に入りの漫画にもその手の描写が含まれていたことを彼も後悔した。

 そのまま声をぐっと落として、ふみの耳元でささやく。

「ふみもまた成仏して、生まれ変わって次に立派な大人になったらわかるんだよ!」

「でも『日本霊異記』や『痴人の愛』とかあるし、日本の神話だってイザナミとイザナギが、おたがいのナントカを……」

「もうよせって。そういうのはまた新しい人生で、ピュアに知った感動を待ったほうがいいぞ?」

「だから、あたしじゃまだ読んでも意味がわかんないところを、たかにぃに聞こうと思ったのに……もしかしてたかにぃもピュアなの?」

「お前の兄貴のひいひいじいさまが田舎育ちなおかげでね。東京は見るもの聞くもの、新しいものだらけで、子孫は大変ありがたいですよってんだ」

 ピュアの真相は適当なことを言ってはぐらかしつつ、孝志はふみに嫌味を投げる。


 それからも孝志は宿題、ふみは読書を続けた。

 あらかた本を読み終えたふみは、孝志の服を引っ張る。

「じゃあもう今日は帰ろう。あたし、これから行きたいところがあるの」

「なんだよ、珍しいな。片づけるから待っててくれよ」

 図書館を出ると、ふみに誘われるがまま手を引かれて歩いていく。

 すると、自宅へとまっすぐ帰宅するルートから逸れて、違う場所へと向かう。

「こんなところに行きたいところがあるのか?」

「いいから。あとすこしでつくよ。たかにぃに教えたいとこ」

 小さな歩幅に合わせてゆっくりと歩いていった先は、やや寂しげな古書店であった。

「なんだ、図書館で読書するだけじゃなくて、ここでも本を買えってのか?」

 孝志の発言を無視して、そのままふみは自動ではないガラス戸を横に滑らせる。

 店内は図書館とはまた違う蔵書の数々。中には投げ売りのような価格が設定されたセール品もあり、品質や状態を無視すれば、ここでも充分に楽しめそうな品揃えだった。

「うそっ、大貫くん!」

 カウンターから急に声をかけられたのでそちらを向くと、昨日も会ったクラスメイトの加奈が、黒の厚手のエプロンを着けて立っていた。

「あれっ、鈴木さんってここでバイトしてたの?」

「うーん、そうなんだけど、ちょっと違うの。叔父さんの家がここだから、あたしは休みの間だけ手伝ってお小遣い貰ってるんだけど……」

 ふみはさっそく、ワゴンセールの商品の中からすっかりとくたびれた書籍を何冊か手に取って持ってくる。

「たかにぃ、これを買って!」

「あら、ふみちゃんこんにちは。これ大貫くんが読むの?」

「いやまぁ、ふみが本が好きでさ、読んでやると意味もわかんないくせに喜ぶんだよね」

 加奈のいるカウンター越しからは見えないように、ふみは孝志の右足の指先を靴の上から強く踏んだ。

 孝志は痛みに歪めた顔を見られないように、腕を顔に寄せて汗を拭うふりをする。

「あぁっ! つぅ……店の中は涼しくて助かったよ。ふみが欲しがってるから、これを買いたいんだけど、いいかな?」

「いいの? わざわざありがとう。でも恥ずかしいな、こんな格好見られちゃって」

「だって、おじさんの店のエプロンなんでしょ? いいじゃん、似合ってるよ」

 加奈は途端に顔を紅潮させて、よそ見をしたままレジを打っていく。

「……六百円です」

「それ、見えてるの? じゃあごめん、千円札で」

 緊張で震える指先で、加奈はおつりの百円玉四枚を彼の掌にそっと乗せる。

 ふみはにこにこと笑いながら、孝志のズボンの裾を引っ張った。

「たかにぃ。ここはご本がいっぱいあるから、また来たい!」

「ふみちゃん、ありがとうね、いつ来てもいいから、待ってるね」

 手を振って孝志とふみを送り出すと、加奈はカウンターの裏に崩れ落ちる。

『やだ、なんで大貫くんがここに来たの……しかもこんな格好してるところを見られちゃって恥ずかしい』

 しばらくはしゃがみ込んで悶えていた加奈であったが、さきほどのカウンターでのやり取りを思い出して、自分の右手をじっと見る。

『……でも、さっきおつりを渡す時に、大貫くんの手に少し触っちゃった』

 感情の昂ぶりを抑えきれず、加奈はカウンターの中でうろうろと歩き回っていた。



 加奈の叔父の古書店を出た孝志はふみと手を繋いで自宅へと歩いていく。

「お前、なんで鈴木さんがバイトしてるとこを知ってるんだよ?」

「それはオバケのちから!」

 ふみは正解なのかよくわからない回答をしながらくすくす笑うと、孝志の腕を何度か引く。

「あたし、もっと面白い恋愛小説が見てみたいな」

 孝志は背伸びする子供を茶化すように肩をすくめる。

「ホント物好きだなぁ。ふみみたいに小っさい子がオトナな恋愛小説とかやめとけって。健全に胸キュンするような、少女マンガでも読んでろよ」

「この世のご本なんか、どれも似たようなお話ばっかりだもん。もっと近くで見れて、もっとわくわくするようなご本みたいなお話が見たい」

「本だけじゃなくて次は映画のDVDが観たいってのか? わかったよ、こんど借りてやるから」

「そうじゃないの」

 急に歩くのをやめたふみに、孝志も腕をぴんと引っ張られて彼女とともに立ち止まる。

「これから、すごいおもしろいお話がはじまるような気がするの。それのお話の主人公はたかにぃね。それでヒロインはあの、かなねぇちゃんだから」

「えっ? 鈴木さんと俺がどうしたって言うんだ?」

「まだ、ひみつっ」

 それきり何も語らず、楽しげに駆け出していくふみの後を追う孝志だった。

 帰宅したあとは、加奈の叔父の店で買った古本を大切に読み進めるふみ。

 いつもなら、あっという間に読み終えては次へと替えるはずだったが、今日はなにやら嬉しそうにニコニコと本のページをゆっくりめくっていく。

 今までとは全く違う奇妙な彼女の振る舞いを見て、孝志に不穏な感情が芽生える。

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