第三話
重い足取りで自転車を漕いだ孝志がやって来たのは、梓の下宿する彼女の叔母の家。
インターホンを鳴らすと、梓が玄関にやってくる。
「催促したみたいでごめんね。まぁ入ってよ」
「ホントだよ。俺もなんやかんやで忙しいんだからな……お邪魔しまっず」
リビングに向かうと、すでに室内には食欲を刺激する香りが漂っていた。
「なんか家じゅうがいい匂いじゃん。これって、カレーだぃな?」
「そう。今日は孝志でもできる、もっと簡単レシピで作ったんだよね」
梓はガスコンロに置かれた鍋のふたを開ける。
「豚バラと一緒に、にんじんやじゃがいも、たまねぎ、アスパラをめんつゆとだしで煮たら、カレーパウダーを足すだけ。『お蕎麦やさんのスープカレー』って感じね」
「おぉっ、これまた、うまそうだな」
鍋の中の和風スープカレーと併せて、後方からつい梓の胸元を確認してしまうが、今日は首元まである半袖のTシャツを着ており、その姿を拝むことはできなかった。
そのかわりにデニム地のホットパンツからは、中学の時よりも少し痩せてすらっとした脚を出しており、ふともも周りに孝志の視線が向かう。
テーブルに座って昼食を摂りながらも、孝志は昨日のことをぼやかずにはいられなかった。
「預かってる子と大ゲンカしてさ。まだ会話もないんだよ」
実際には会話はおろか、幽霊のふみは姿を眩ましているのだが。
「親戚のお兄ちゃんに甘えてるからワガママ言っちゃうんでしょ? 可愛いもんだって」
「そういう感じでもないくらいでさ。俺の友達にまで失礼を働いたんで怒ったんだよ」
彼の言う友達というのは、一緒にデスティニーランドに行く彼女のことではないかと案じた梓はわずかに手を止めて、視線を落とした。
だが、すぐに至極平然を装って孝志に向き直る。
「その子が、ついお姉ちゃんにも甘え過ぎちゃったってことでしょ」
「ホントに厄介な年頃だよ。俺も思わず怒り……ずぎたかも」
「ちょっと、孝志。そんなにちゃんと喋れないくらい心配してるなら、あたしがその子と遊んであげようか? まだお盆まで時間もあるから帰省しないし」
「うーん……梓に迷惑かけるのもな……」
孝志は頭を掻きながら視線を泳がせる。
どう言って取り繕うかのほかに、『例の二文字』を含まない単語を探していたからだ。
「いや、それが脱走してさ……叔父さんちに一回返したから、いま居ないんだ」
「そうなん。それでもう孝志と一緒が嫌なら、そのまま家に残るからいいんじゃない?」
上手く誤魔化せて安心したものの、今度は加奈とふみの心配をしだす孝志。
彼が単身になったのは朗報だったが、交際している彼女の存在に悩む梓。
なんとなく互いがそれぞれの思惑を浮かべたまま、無言で向き合う。
梓もそんな風に考え事をしながら、ぼんやりと孝志の顔を見ていたが、彼が視線を合わせてきたので、焦ってぎこちない笑顔を浮かべる。
「どうする? スープカレーおかわりいる?」
「いや、もう腹いっぱいだよ。ごっそうさん」
食器を下げて洗いものをしている間も、梓は彼のことをぐるぐると考えている。
対して、孝志は黙ってテーブルに腰かけていた。
『なんで孝志、今日はぜんぜん喋んないんだろ……やっぱ親戚の子のせいでカノジョに迷惑かけたこと後悔してるのかな』
すると、孝志は梓に向けてでもあるかのように、大きめな声でひとり言をつぶやく。
「ちょっくら、いとこの……その子のことを見に実家に戻ろうかな」
「なんでまたひとりで群馬に帰っちゃうの? お盆に一緒に行こうよ」
思わず口をついて出た言葉に、梓もはっと我に返り、気まずそうに洗いものを続ける。
「だって梓に迷惑かけらんないじゃん。群馬にはいないかもしれないし、それに……」
本当は梓と行動を共にすることで、そのうちに『例の二文字』が言えないのをバレてしまうのが億劫だったことがひとつ。
それに加えて、みどりさわ村にいた頃から毎年こうして盆の時期が来ると、嫌でも思い出してしまう『ある出来事』のせいだった。
「行きの電車だけでもいいから、あたし、孝志と一緒に帰りたいよ。ダメ?」
「マジかよ……俺は別にお盆じゃなくてもいいんだけど」
「カレンダー見ても、どうせお盆なんてすぐじゃない。それでもダメなの?」
「そうだな、まぁ叔父さんちにいれば、あいつも安心だろ。でもそれより前に戻ってくるかもしれないから、そしたら実家いかないけど、それでもいいか?」
「いいよ、別に」
孝志と別れたあとも嬉しそうにカレンダーの日付を指折り数える梓。
願わくば、彼の親戚の子がぐずったまま戻ってこないように、と。
孝志が自宅へ帰っても、やはりふみの姿はない。
そのまま日没を迎え、さすがに二晩も戻らないとなると、明治生まれの幽霊とはいえ相手も幼子ゆえに心配をしてしまう孝志だった。
『梓にはああ言っといて悪いけど、先に実家の土蔵に戻ろっかな。まさかふみが成仏したとも思えないし、あいつが逃げそうなとこってあそこしか思いつかないし』
寝転んで悶々と考え込んでいるうちに、時間だけが流れていく。
それでも、片方の懸念事項だけはケリをつけておきたいと、おもむろに上半身を起こすと、近くに放ってあったスマートフォンを取ってメッセージアプリを立ち上げ、改めて加奈に想いを伝えることにした。
『何度もごめん、鈴木さん。ふみのせいで本当に迷惑かけてごめん。あと、地元のやつは同窓生ってだけで、ホントに何もないから。それは嘘じゃないって誓うよ』
震える指で送信ボタンを押すが、しばらくしても既読にすらならなかった。
「やっぱダメか……まぁ、そうだよな」
スマートフォンをまた放り出し、布団に大の字に横になる。
『どうしようか、この祟りを解くにはカノジョができればいいんだろ? でも今のところ加奈ちゃん以外に当てもないし……』
ごろんと横向きになっても、変わらず思考はぐるぐると巡る。
『梓に相談してみようかな……あいつ、あんだけ可愛くなったんなら、たぶんカレシいるだろうし。でもな……男のプライドとして、それはどうなんだってのはあるな』
ふみに対して腹が立つのは当然だったが、自身への怒りや愚かさを悔いて、夜の河川敷まで自転車を飛ばして、大声で叫びたい衝動に駆られた。
天井を見ながら寝転んだまま大きく息を吐くと、ふとクローゼットが目に入る。
中にしまったオトナな書籍とともに、梓の豊かな胸の谷間が脳内に浮かぶ。
せっかくふみも不在なので、秘蔵のお宝を出してしまう孝志だった。
一方、その頃。
加奈は、風呂上がりにスマートフォンを取ると、孝志からのメッセージに気づいたが、敢えて既読をつけずにまた電源を落とし、そのまま姉の部屋へと向かう。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
ベッドに寝転んで雑誌を読みながら、お気に入りのミュージシャンが出演するラジオ番組を聞いていた姉は、妹の姿に気づき左耳のイヤホンを取る。
「なによ、加奈。いまいいとこなのに、お母さんがお風呂入れって?」
「お姉ちゃんは……っガレシってどうやって付き合い始めらの?」
「はぁ? なにそれ。あと、その喋り方なにさ?」
年齢が四つ上の大学二年の姉は、加奈よりも快活で社交的なので、たまの雑談の際には妹に自慢げにカレとのデートなどの話題を披露していた、恋愛ごとの先輩だ。
「あんただって、男とデスティニーランド行ったんじゃないの?」
「あれは、あっしは別に……友達の小さな女の子とだよ」
「ふーん……まぁいいわ。それで?」
ラジオは諦めてタイムシフトで聴くことにしてイヤホンを外した姉は、上半身を起こす。
「あの……男の子って、どんな時に、女の子を好きになるの?」
「あんなのケダモノだかんね。ちょっとスキあらば腕を組もうとか、キスしようとか、あわよくば寝てやろうとか、当たり前だから。ちゃんと自分のことを見てくれてるなとか、お互いに一緒だと楽しくて、でもドキドキするなってくらいの方がいいのよ」
「そうなの? でもお姉ちゃんが最初に付き合おうってなっらのって、どんなとき?」
妹の相談を聞いても腑に落ちない感情が残る姉は、加奈の顔色を窺う。
「結局のところさ、あんたに好きな男でもいるわけ? それとも好きだって言われてるわけ? そこでアドバイスも違うんだけど」
「うーん、なんとも言えないけど、あっしと一緒にいてくれる男の子……」
頬を染めてつぶやく加奈を見て、姉はにやっと笑うと妹の肩を小突く。
「奥手のくせに変に惚れっぽいあんたから付き合うなんて無理だっての。男のほうから強引にガシガシ来てもらった方がいいんじゃないの?」
「でも、ケダモノなんでしょ?」
「キッカケなんだからさ。あんたがいいと思ったら、こっちから『気が合うね』くらいに言ってけばいいのよ。逆に向こうから寄ってくる男だったら下心あるのか、ホントに加奈のことを好きになってくれたのか、試せばいいじゃない。あんたみたいに経験なくてすぐ惚れちゃったりすると、悪い男に引っ掛かったりするから、加点方式でやってみれば?」
「……んがてん方式?」
「チャラくて軽薄だからマイナス、マジメでバカじゃないからプラスだとかって考えて、ある程度の点数なら、少なくとも付き合ってもいいんじゃないの?」
姉のアドバイスで、早くもぼんやり孝志の残像が浮かんだ加奈は、指を折っていく。
「どーせ、付き合ってしばらくしたらカラダの関係になるんだから、せめて最初はちゃんとした男を選んだ方がラッキーだって。カッコよくてもスケベは常にスケベだかんね」
「どういう男の子がいい人なの?」
「男なんてね、思わせぶりな態度してれば俺の気持ちは届いてんだろ、って勘違いしてるやつが多いから。ちゃんと自分のことを好きです、大切に想ってますってキチンと言葉にしてくれる子にしな」
「でも、あっし……あと、なが直りしらい男の子が……」
「すりゃあいいじゃん、仲直り。ケンカしちゃったその男子があんたの好きな子で、デスティニーランドに行った子なんでしょ? ほら、あたしはラジオ聴き直すからさっさと出てった」
姉はにやりと笑うと顔を赤らめた妹の背中を強くはたいて、そのまま退室を促す。
廊下に出ても、まだ指を折っている加奈。
「ねぇちゃん、なにやってんの?」
鈴木家の末の弟が訝しげに加奈のそばを通り過ぎていく。
知らぬ間に果てて眠りに落ちていた孝志は、窓から差し込む朝日に晒されて目を醒ます。
時刻を確認するためにスマートフォンを手に取ると、加奈から返信が入っていた。
『もういいよ。わたしも言い過ぎたから気にしないで』
姉からのアドバイスもあって、彼女なりの精一杯の返信だったのだが、それを知らずに読んだ孝志は、感極まって上半身を起こす。
「はは……よかった、よかったよ……」
すぐにでも想いのうちを伝えたかったが、ここでまた強めに押してしまったら、彼女に嫌われるかもしれないと逡巡し、やむなく一言だけ返した。
『本当にありがとう』
そのメッセージを受信した加奈は、スマートフォンを持って姉の部屋に向かった。
妹から見せられた画面を確認するなり、黙ってうなずく。
「ふーん、良かったじゃん。とりあえず仲直りできて」
寝起きでボサボサの髪を手櫛で流しながら、妹に向かって笑みを浮かべる。
「……ん? ちょっとまった」
姉は加奈からスマートフォンを取り上げると、画面をスクロールして過去のやり取りを読み始めた。
「ちょっと、お姉ちゃん!」
「こいつ、だいじょうぶなの? 加奈のほかにも『ふみ』と『地元の同級生』って、女のことばっかりじゃん。遊び目的じゃない?」
「ふみちゃんは親戚の小さな子なんだけど……」
さらに過去のメッセージを遡ると、奇妙な一文を発見する。
「なに、これ……『何度もごめん。本当にふみのせいで迷惑かけてごめん。喋れなくなる祟りがはやく消えるように、俺も頑張るから』……って、ちょっと頭おかしい子?」
「そうじゃなくて……」
加奈は今までの経緯と、失った『自分の二文字』を、筆談を交えながら説明する。
「へぇ……ちょっとおもしろそうじゃん。それで加奈は『あっし』なんだ」
「ぜんぜん、おもしろくないよ!」
なにやら考えこんでいた姉は、そのまま孝志あてにメッセージを入力して送信する。
「お姉ちゃん、やめて!」
「この逆境を越えても、あんたに真剣に向き合ってくれるなら、見込みのある男だよ」
まるでふみちゃんのようなことを言わないで、と頭を抱える加奈。
姉は自分が送った加奈のなりすましメッセージを読み返す。
『喋れなくなったこと、もう一度相談したいの。ウチに来てくれる?』
すると、スマートフォンをぽんと妹へ放った。
「あたしがあんたの代わりに、この男を査定してあげる」
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