第五話
夏祭り会場を出た孝志と梓は、同窓生の四人と別れて自宅への坂道を登る。
「孝志はいつ帰るの? また帰りも一緒になれない?」
「二十日が高校の登校日だから……送り火のあとのんびりして、十九日には帰るかな?」
梓は孝志のシャツの腰まわりをぐっと掴む。
「次の夏期講習が十八日からなの。一緒に十七日に帰ろうよ?」
彼も困ったように梓に視線を向けるが、彼女はまっすぐ進む方向をうつむき気味に見ていて、互いの目が合うことはない。
「……わーったっての。十七日な」
「ホント? じゃあ、一緒に帰ろ!」
途端に喜んではしゃぐ梓だったが、しばらくすると急に立ち止まる。
「なんだよ、どうした?」
しゃがみ込んで自分の足元を見る彼女の右足の親指のあたりから、血が滲んでいた。
「こういう下駄とか草履って慣れないよね。ビーチサンダルとかも……どうしても歩いているうちにこうなっちゃうんだもん……」
「梓、歩けそうか? 肩を貸そうか?」
「どうだろ? この、人差し指と中指の間に鼻緒を通してみようかな……」
実際に歩いてみるも先程よりもはるかに時間がかかり、難儀していた。
孝志も黙って見守っていたが、頭を掻くと梓の前にしゃがみ込む。
「ほら、背中に乗れよ」
「えっ……でも……」
「いいから、乗れって。他に方法ないだろ?」
梓が孝志の背中に身を預けると、柔らかな胸の感触が彼の背中に服越しに伝わる。
彼女を落とすまいと支える孝志の手に腿の付け根あたりを触れられると、梓も緊張してかすかに震える。
急な坂道を梓を背負って歩くその足取りはかなりゆっくりだったが、孝志は決して休むとも降ろすともなく、着実に登っていく。
中指に鼻緒を通した時とさほど変わらぬ速度だったが、敢えて梓は彼の背中にとどまる。
やがて、互いの家が離れる分岐に来ても、孝志はそのまま梓の家に向かう。
「もういいよ、孝志。こっちだと家から遠くなるでしょ。悪いから」
「こっからその足で歩けるのかよ?」
そう言われると、梓は孝志に掴まる両腕に力を入れ、彼には見えない頭を小さく横に振る。
「……うぅん」
彼がもっと意地悪でだらしない男の子だったら良かったのに。
そうしたら、こんなに切ない想いもしないで済んだのに――。
「ねぇ……さっき舞が言ってた、駅にいた親戚の女の子。ホントはデスティニーランドに一緒に行ったあの子でしょ?」
「……そうだよ」
それも彼は隠さず伝える。
自分はこれから祟りを解くためにも、加奈に向き合わなければいけない。
そう決心するかのように、梓には敢えて正直に語った。
「あと、年上っぽい人もいたじゃない? あれは誰なの?」
「その子のお姉さん。なんて言うか……いろいろあって一緒に遊びに寄ったってだけ」
「あの日、背中でおんぶしてた子が、その親戚の女の子なの?」
「あぁ、デッティニーの日の……そういうことだよ」
一歩ずつ進む彼の足取りに合わせるように、梓の全身だけでなく心の中までも揺らしていく。
梓は彼の背中に顔を埋めて小さくつぶやく。
「ホントにカノジョなの? そうじゃないの?」
「別にカノジョじゃないよ、今は。これからな」
無意識に発した孝志だったが、最後の彼の言葉は梓の胸を掻きむしるようだった。
こんなに近くにいても、想いが伝わらない。
これほど恋焦がれても、彼は気づかない。
久しぶりに地元に帰省して懐かしい同窓生と会っても、東京でそばにいても、彼はもう六人の輪からずっと遠くにいるかのように感じてしまう梓だった。
気持ちを伝えられずに中学を卒業し、互いにバラバラになったことですっかりと諦めたと思っていたが、偶然に彼と再会したことで二度と後悔はしたくなかった。
「ごめん、孝志……ちょっとおろして」
そう言われて彼が膝を曲げると、片足をかばいながら、梓は地面に立つ。
「梓の家までもうちっとじゃん。まだ歩かないほうが……」
突然に梓が孝志の胸に飛び込んできた。
「……あたし、孝志のことずっと好きだったんだよ……今でもずっと」
思わぬ展開に、彼も瞳を揺らして抱きつく梓を見返した。
「孝志と何度か東京で会って、カノジョがいるのかもってちょっと諦めてた。でもまだ、その子がそうじゃないって言うなら、あたしじゃダメなの?」
孝志は緊張と興奮で息を呑むと、ぎこちなく返事をする。
「……いや、梓もずごいかわいくなってたからさ。もうカレシくらいいるんだろうなって思ったんだよ……」
「あたしは今もフリーだよ。そしたら、孝志はこっちを向いてくれるの?」
「いや……それで梓を見習わないとなって思ったというか……俺も頑張ろうってさ……」
誤魔化そうとすると、むしろ泥沼にはまっていく悪循環に、孝志は自分のだらしなさを心の中で叱責した。
もちろん、梓を説得するだけの状況には至っていないのは明白だ。
「孝志……お願い。ハッキリ言って。あたしじゃダメだって。そしたらサッパリと諦めることができるかもしれないから」
「今ここでなんてさ、それは……」
逡巡する孝志に、梓はじっと彼の瞳を見返した。
孝志の背中に回した腕に力を入れて、身体を密着させる。
自分の鼓動が彼女に伝わっているのでは、と錯覚するほどに孝志も額に汗を浮かべる。
はっきり梓を断って加奈を好きだと言えないのも、自分が『例の二文字』を失ったふみの祟りが、異性の誰とでも付き合えれば解消するかも、とも思っていたからだった。
ここで梓に乗っかってしまえば、すぐにでも終わるかもしれない。
ただ、それで自分の祟りは解けるとして、加奈の祟りはどうなるんだろうか。
ふみからは明確な回答もなく、加奈の苦労を想うと躊躇してしまう。
しかし、男としてもすんなり看過できる状況でもなく、徐々に理性が揺らいでいく。
「梓には悪いと思う……でも、俺自身もまだわからない。ホントのぎもちが」
「あたしのこと嫌い?」
「べつに……そんなことないよ」
「じゃあ、好きになってくれる?」
「それは、その……梓のことを……」
『例の二文字』は孝志には言えない。
困惑したまま、梓の顔を見る。
紅潮した頬と潤んだ瞳で、彼女も見つめ返す。
「まずは梓のこと、大切に想えるか、俺自身のぎもち整理しないと……」
「でも、あのさ、ごめん……『下』の孝志は、正直になってるよ?」
「ちがっ、これはそういうことでなく……」
我ながら男という因果な商売に、彼も恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
少しだけ腰を引いて梓との距離をつくる。
やがて、彼女はふっと目を閉じると、ゆっくりと身体を離した。
「あんまり、意地悪しちゃうとかえって嫌われちゃうね。一緒に帰れるようになっただけでもうれしいよ。でもあたしはまだ、孝志のこと諦められないよ」
当座の難局を乗り越えた孝志は全身の力が抜けていくような感覚をおぼえた。
「……どうずる? おぶってくか?」
小さく首を振った梓は唐突に孝志の肩を強く引いて、ふたりの唇を重ねる。
「あたしもカノジョ候補にキープしてね……じゃあね孝志、おやすみ」
梓は、また右足の人差し指と中指の間に下駄の鼻緒を入れて、ゆっくり歩いていった。
孝志は自分の口元をそっと撫でながら、呆然と立ち尽くしていた。
翌日の夕方になると、大貫家では送り火の準備が始まった。
孝志は膝にふみを座らせたまま、縁側に腰かけてその光景を眺めている。
母も祖母も、妙に静かになった彼の様子を訝しそうに見守る。
「どうしたのかねぇ、孝志は? 東京のあの女の子たちが帰ったから呆けてるのかね」
「みどりさわ中の子たちに会ったから、ホームシックになったんじゃないですか? やっぱり東京でひとりだと、あの子も寂しいのかもしれないですね」
ふみの手首を掴み、彼女の小さな手をぺちぺち叩き合わせながら、ぼんやりと山合いの影を眺める背後の孝志の雰囲気を察して、ふみも顔を振り返らせる。
「たかにぃ、ゆうべはたいへんだったんでしょ。かなねぇちゃんとあずねぇちゃん、どっちにするの?」
「ん? 俺もわかんねぇ。そもそも俺自身があのふたりを……ずぎなのか、わかんねぇ」
「たかにぃがホントに大切にしたいっていう方をえらんでね」
孝志は大きく息を吐いて、またふみの手合わせを始める。
「そろそろ準備できるから、孝志も靴を履きなさい」
変わらず呆けている孝志の気を引くかのように祖母が声をかけた。
「ところでさ、迎え火でひいひいじいさんには会えたのかよ?」
「お兄さまはもうすっかり成仏されてるから、何十年もここにはきてないよ。あとは子孫にまかせるって最後に言ってた。でも、そうきちくんならきてたよ」
ふみの言う『そうきち』とは、昨年亡くなった孝志の祖父、惣吉のことだ。
会話こそできないが、またここで祖父に会えたと知れたのは、孝志には嬉しくあった。
「ふみはひいひいじいさんとバラバラで寂しくはないのか? いま一緒に帰ろうって思わないか?」
「最初はお兄さまのために、大貫のおうちを守ろうって思ってたんだけどね。なんであたしもここにずっと残ってるのかわかんないの。べつに今は、たかにぃのカノジョをつくるためだから、いいんだけどさ」
他の家族と同様に手を合わせる孝志の横で、ふみは天に向かって手を振っていた。
いつか、ふみが本当に煙の向こう側にいけるようにしてやりたい。
彼もそう願った。
明けて十七日。
母が洗濯しておいてくれた着替えをリュックに詰めていく。
「孝志。またなにかあったら連絡しなさいよ。身体に気をつけて栄養も良く取りなさいね」
「うん、わかってるよ」
そう言いながら、ちらとリュックの底にある封筒を確認する。蔵に戻っていた座敷童と一緒に帰宅すると祖母にこっそり伝えると、また『活動資金』を支援してくれた。
いったい祖父との出会いと交際までにはどんなドタバタがあったのか。
孝志もこんどは祖母とじっくり語らおうと思った。
蔵の戸を叩くと、扉をすり抜けたふみが出てくる。
「そいじゃ、とうぎょうに帰るぞ」
「うん。また、たかにぃといっしょ!」
ふみと手を繋いで坂道を下っていくと、駅前には梓が待っていた。
「わりぃ、お待たせ」
「じゃあ行こっか」
ホームに到着したのぼり列車に乗ると、四人掛けのシートに腰を下ろす。
帰省した時は横並びに隣り合って座った孝志と梓だったが、今回は正面に向き合う。
孝志の隣には、姿を消したふみが本を読んでいる。
車窓の景色は緑一面の山合いから、徐々に建物が増えて都市部に入っていく。
だがその道中も、先日のことがあってか、ふたりは言葉少なに時間を潰す。
それは昔のような、同じ集落に育って苦楽をともにした既知の仲ではない。
互いを異性と意識しはじめた個々の男女。
孝志も淡いほろ苦さとも甘さとも言えない、キスの感触を思い出す。
「なんつーか、都会って不便ないけどさ……人も街もカチコチで苦しいよな」
「でも自分で決めて出てったんだよ、あたしたち」
よもや、こんなにも東京へ戻るということがつらいとは、帰る前は想像していなかった。
やはり親と再会したせいだろうか。
ふみと出会えて、自分のルーツを強く意識したからであろうか。
もしくは、同窓の由宇の墓参りをしたためか。
みどりさわ村には、家族や仲間や学校や、たくさんの記憶がある。
しかし、ダムに沈んで村が無くなれば、その思い出の場所も失われる。
にもかかわらず、東京には何も待っていないし、まだ何も残せていないではないか。
その時、駅で見送りをした際の、少しはにかんだ加奈の笑顔を思い出す。
『また学校でね』
そうだ、東京には加奈がいる。
それで充分ではないか。
孝志も鬱々とした気持ちを振り払うように、改めて車窓を見る。
「そうだよな……自分で出てったんだもんな、俺ら」
やがて、わたらせ森林鉄道も終点近くなり、他線の特急列車に乗り換えると、一路東京へと向かった。
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