エピローグ

故郷は遠きにありて

 それから一年後。


 ダムの着工が迫り、孝志の村は全村民が退去を命ぜられていた。

 孝志の父の会社は渡良瀬川の下流にある市街地へと移転し、彼の実家はダムの手前になる、もう少し山合いを下ったあたりに引っ越した。

 墓は移築したが、大きな蔵は家とともに解体される運命となった。

 もはや蔵の中には収蔵物もなく、もぬけの殻となっている。

 ダムに沈む前に周囲は造成され、全てはがれきの山となって消えていく。

 梓や他の同窓生の家も村外へ引っ越しをして、すっかりバラバラになってしまった。

 もちろん、それは由宇の家や彼女の墓もそうだった。

 わたらせ森林鉄道の線路は、今よりも標高のある山裾に移動をし、孝志たちが慣れ親しんだみどりさわ駅も線路も橋脚も、やがては水の底となる。



 全村退去の直前。

 夏休みを利用して帰省していた孝志は、くだり電車に乗ってみどりさわ駅にやって来ると、自宅よりもさらに高台から村を見下ろしていた。

 ここが一面の水になる。

 にわかに信じがたいが、ほぼ人気のなくなった駅前から集落の中を歩いているうちに、もはやここは映画のセットか、都市伝説に出てくるような、地図から消えた儚い幻想の村ではないのか、と錯覚するほどであった。

 まったく村の事情に明るくない者が、初めからここは廃村だったと言われれば、信じるような光景だ。

 ふと孝志は足元にあった花を摘むと、花びらを集めて上空へと放る。

 墓こそ移築されたものの、このみどりさわ村で生まれ育って、ここで眠ったふみや由宇や、村そのものへ向けての彼なりのはなむけであった。

「ありがとな……ごめんな、みどりさわ」

 風に巻かれて飛ばされていく花びらが視界から消えても、ぼうっと裾野を眺めていた。





 それから十余年。

 天候が不安定な豪雨の年もあったし、歴史的な渇水となる日照りの年もあった。

 新設された群馬県の水がめは時に首都圏を潤し、時に水害への備えとなった。

 テレビからは今夏も雨が少ない、というニュースが流れている。

 水位を大きく下げたみどりさわダムは、水没した線路や橋脚がわずかに姿を現していた。

 孝志がそんなテレビの報道をぼんやりと眺めていた時だ。

 病院からの連絡が入る。

 出産予定日を控え、入院していた妻が産気づいたとのことだった。

 孝志は慌てて会社の事務所を出ると、自宅から急ぎ車を走らせ、麓の病院へと向かう。

 そこには、無事に出産を終えた妻と新しい命が待っていた。

「ごめん、遅くなって……どっちも無事でよかった」

 孝志はベッドに横になる妻の右手をしっかりと握った。

 そして、隣で眠る赤ん坊を愛おしそうに見つめる。

「ねぇ、あなた。名前を決めてあげないといけないんだけど」

「だいじょうぶ、女の子の名前ならもう決まってるじゃないか」

 孝志は気恥ずかしそうに頬を掻きながら、うなずく。

「名前は『ふみ』だよ。そりゃ確かに今のご時世にはちょっとレトロな名前かもしれないけどさ……もちろん『ふみ』だ」

 すると妻は大きく笑い出す。

「『女の子ならゼッタイにふみ』って、ずっとそれ言ってたもんね」


 孝志はちいさなちいさな桜色の手を指先でつまんで、握手をした。


「おかえり、ふみ」

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あの娘に「すき」と言えないワケで 邑楽 じゅん @heinrich1077

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