第三話
どうやって帰宅したのか記憶も曖昧に、加奈と別れた孝志は気づくと自宅のアパートに着いていた。
玄関を開けた彼の顔を、ふみがじっと見る。
「たかにぃ、すごく元気ない……あんなに楽しそうにお出かけしたのに……」
孝志はがっくりと肩を落とし背中を丸めたまま床に座ると、自分の両膝を抱えた。
「ふみは、どうやってはづぎさんの子と仲良しになったんだ?」
「どうしたの、たかにぃ?」
「ふみでずら、カレシらしいのがいたのに……俺ってやつは……」
「かなねぇちゃんとケンカしちゃったの? かわいそうなたかにぃ」
よもや幼女に慰めてもらうとは想定外であったが、すっかりと涙目の孝志はいつの間にか、ふみに膝枕をされて頭をよしよしと撫でられていた。
「加奈ちゃん、なんで……俺、女心ってわかんねぇよ、もう。俺は一生あの『二文字』を言えねぇ人生なんだな」
「フラれちゃった?」
「フラれたも同然だろうな。俺の目の前で『いい子と付ぎ合えるといいね』なんてよ……女ってマジで怖いわ」
「きもちをきりかえて、あずねぇちゃんに行こうよ!」
「もうダメだ……しばらく生ぎるぎりょくを失ったわ」
その日は夕飯も食べられず、布団のうえで呆然と天井を眺める孝志の落胆ぶりに、ふみもそれ以上構うのはやめて、読書を続けた。
それから数日のち。
孝志の家の冷蔵庫の料理がちょうど切れたであろう頃合いを見計らい、梓は連絡を入れる。
しかし既読もつかず、返信もない。
少なくとも自分の『二文字』が言えない状態であるのなら、孝志にカノジョができたという訳ではなさそうだった。
梓は以前のように食材を持って、孝志の家を訪ねる。
だが、インターホンを鳴らしても反応が無い。
留守かと思ったが、室内からはかすかな物音がしていたので、ドアの郵便受けを指で押して、中に声をかける。
「ねぇ、孝志。あたしだよ、梓だけど。留守なの? 中にいるの?」
その問いかけに対して返事をくれたのは、ふみだった。
「あずねぇちゃんだ! 玄関あいてるよ?」
梓がドアノブを回すと手応えもなくすんなりと扉が開いたので、室内に入る。
彼は留守ではなかったが、布団のうえに寝転がり大きな溜息をつき、室内に空っぽになったスナック菓子の袋やカップ麺の容器、飲み終えたペットボトルを散乱させていた。さらに布団の周りは、脱ぎ散らかした下着だらけだった。
「んぁ……梓かよ。用がないならくんなよ」
「なにそれ、孝志が心配だからきたってのに、そういうこと言うわけ?」
ぐったりと寝込む孝志に、彼が病気なのかと案じた梓は様子を見るために近づく。
「世話ねぇから、俺に構うなって……」
「どうしたの、なんか風邪でもひいて調子悪いの? 病院に行った? とにかくそのままじゃ……って、クサッ! 孝志、あんたシャワー浴びてるのっ?」
室内で本を読んでいたふみが、呆れたように梓に声をかける。
「たかにぃはここ何日かゾンビみたいに、もうずっと『腐ってる』の」
「俺はダメだ……もう死にてぇわ……」
梓は危険なことを呟きながら視線をさまよわせる孝志の頬をたたくと、上半身を引き起こす。
「とにかくシャワー浴びてきな! シーツとか下着も洗濯するから、ぜんぶ脱いでってね!」
梓は孝志を浴室に放り込むと、洗濯機を回して室内のゴミを集めて掃除機をかけ始めた。
「孝志ったら、どうしちゃったんだろね」
「たかにぃはフラれて失恋したみたい」
ふみの言葉に、梓も言葉を呑む。
真実かどうかは彼に聞かないとわからないが、もしそうなら自分が彼と一緒になれるのではないか、という想いもわずかに頭に浮かんだ。
「そうなのね。まぁ、孝志に聞いて…ぃないと、って久しぶりに『あの二文字』が出てきたから、ビックリしちゃった。ホントに声が出なくなるんだったね」
身体を拭いたタオルを首からかけてリフレッシュした孝志は、梓のつくったチャーハンを食べているうちに、生気を取り戻していく。
「あぁ、人間らしさが戻ったかもしれねぇわ。ありがとうな、梓」
「孝志らしいっちゃあ、らしいんだけど、今までどうしてたのよ?」
そう聞かれると、彼はまたも肩を落としてゾンビに戻っていく。
「女のぎもちなんてわかんねぇよ。俺がなにをしたっつぅんだよ……」
「ちょっと、孝志。その例の、同じ学校の『二文字』の子となんかあったの?」
「んぁ、いや、まぁ……」
言葉を濁してはぐらかす孝志の顔を、梓はぐっと覗き込む。
「なにも無かったわけないよ、その様子だと。しっかりしてよ」
彼が正気を取り戻すよう願って、また孝志の頬をたたく。
「よせよ! どうせ梓だって、そういうことなんだろ!」
途端に怒り出す彼をなだめながらも、梓は話を続ける。
「なんだって言うのよ、怒鳴ったりするの恥ずかしいから、やめなよ」
「そうだろうな、俺なんて恥ずかしくて情けねぇ、クズみてぇな人間だよ」
梓は自暴自棄になって喚く孝志の肩を揺すった。
「しっかりしてってば! そんなにツラいなにかがあったの?」
しばらくは言うべきか逡巡していた孝志が、ぽつりと語る。
「同じクラズの子といい感じだったと思ったら、俺はダメだった……」
「どういうこと?」
失ったそれぞれの『二文字』を避けながら、なんとか落ち着いた彼の説明を聞いていくうちに、梓は情けない孝志への怒りが沸々と込み上げてきた。
「はあっ、なにそれ? 孝志が勝手にヘコんでるだけじゃない! だいたい思わせぶりな態度でダラダラ時間稼ぐからいけないんでしょ。女の子って最初がグッと盛り上がるけど、それでダメかなと思ったらすぐに冷めてくんだから」
「俺、なにか間違ったことしたかな?」
「むしろ、なにもしないのが間違いだったと言わせてもらうけど」
それでも梓の話が理解できず、孝志も首を捻る。
「手を繋ぐとか、キスするとかって、スキンシップだけど『好き』って言葉じゃないんだから。それで想いが通じてるなんて男の子の勝手な勘違いだよ」
「なんだよ……ふみとおんなじこと言わないでくれよ」
「たかにぃ、失敗つづきだね」
またもふみに頭を撫でられると、孝志はふみを膝の上に乗せて彼女の手をぺちぺち叩き合わせる謎の遊びを始める。
「ちょっと、ご先祖の女の子に甘えててどうすんのよ?」
「ふみだけだよ、俺のこと認めてくれるの」
病的なまでにすっかりと落ち込んだ彼の姿は、梓も同郷のよしみで心配する、というよりは、同じ『二文字』の祟りで振り回されている孝志の同級生の子に同情すらおぼえた。
「おおぬぎの家は俺で断絶だな」
「たかにぃ、あたしはそれホントは望んでないけど?」
「ほら、聞いた? よっぽど……ちゃんのほうがしっかりしてるじゃない」
大きな溜息をついて幼子と触れ合う孝志は、夏休み前半の頃の雰囲気を消して、大人しくて少し頼りなさげな中学以前の彼にすっかり戻ってしまったようだった。
「とにかく、元気だしなよ。また来るからね」
梓は、うずくまる孝志と膝の上に座るふみのいる部屋を出ていった。
玄関を閉めると、そのままドアに背中を預ける。
『あたし、なんで孝志にアドバイスしてるんだろ……』
自分の偽らざる気持ちを偽ってまで、孝志にカノジョができることを応援している。
そんな自分に嫌気がさしてくる。
弱っていた彼を支えたことで、こちらに気持ちが向くかもしれない、との淡い希望もあったが、自分から積極的に孝志の心の内を確かめるという勇気はまだ無かった。
『いっそのこと、孝志とその子がうまくいかなきゃいいのに……』
そんなよこしまな想いも抱きつつ、彼のアパートを出ると力無く歩いていった。
一方の孝志は、膝に座らせたままのふみの頭に顎を乗せて、ぼんやりとつぶやく。
「なんだか、俺ってだらしないやつだな……」
「ちょっと、孝志くんだらしないんじゃない?」
自分の部屋にやってきた妹の話を聞くと、早紀は呆れたように前髪をくしゃっと掴む。
それは先日のこと。
孝志たちが一緒に飯田橋の縁結びスポット周辺でデートをしたあとだ。
帰宅した加奈は、当日の結果を早紀に報告する。
「もっと、彼からアプローチあってもいいわよね? もしかして、孝志くんの実家に行ったり軽井沢でデートしたから、もう向こうはカレシ気取りになってるんじゃないの?」
「でも、あっしはあんまり、大貫くんをテストするようなマネは……」
「あんただって、孝志くんがどう考えてるんだか心配だって言ってたじゃないのよ」
加奈も姉のベッドに座ったまま、すっかり黙ってしまう。
「んで、加奈は孝志くんのこと、好きなの? まだ気持ちあるの?」
「あっしは、大貫くんを……前みらいに名前で呼べればなって思う……」
顔を赤らめる妹に対し、にやりとうなずく。
「オッケー、そしたらさ、加奈。あんた孝志くんちに行ったんでしょ? 住所をあたしに教えてよ。心優しいお姉さまがあの甘ったれ坊主を説教してくるから」
「やめてよ! 大貫くんにそんなことしないで!」
「だいじょうぶだってば。暴力も寝取りも、どっちの手も出さないわよ。ちゃんと孝志くんのフラフラした気持ちが加奈に向くように、彼を一日借りるだけだから」
加奈が渋々出したスマートフォンを受け取ると、早紀はカレンダーを見る。
「あたしたち大学生より、あんたたちの休みは短いんだから。急がないとこのまま新学期でも、『あっし』とか言うハメになるよ?」
「ホントに大貫くんにイジワルしないでよ?」
「かわいい妹の幸せと、大貫家の財産が待ってるのよ。あたしに任せな」
それでも、強気な姉の様子が逆に不安を掻き立てられる加奈だった。
後日。
孝志はまだ部屋でゴロゴロとゾンビとして過ごす。
加奈からのメッセージもなく、逆に彼女に送ろうとスマートフォンを握ってはみるものの、その先に進む勇気が無くては放り出すを繰り返していた。
やがてインターホンが鳴る。
おおかた、また梓が見かねて様子を見に来たのだろうと思った孝志は、外に向かって投げやりに声をかける。
「なんだよ。鍵、開いてるよ」
するとドアを開けて入ってきたのは、早紀だった。
「はぁい、孝志くん。いい若者がだらしないんじゃない? ふみちゃん、ひさしぶりね」
「さきねぇちゃんだ!」
ふみと早紀は互いに手を振って挨拶する。
「ちょっ、えっ? お姉さん……なんでここに?」
孝志は慌てて上半身を起こし、ポロシャツの乱れをただす。
「こないだは加奈の用事に付き合ってくれたんでしょ? ありがとね」
早紀は室内にずかずかと入ってくると、孝志のすぐ近くに座る。
「ところでどう、ウチの妹は? 孝志くんもその気になってくれた?」
「えぇ、それはもちろん……」
孝志は愛想笑いを浮かべて、頭を掻く。
あらためて間近でよく見ると、雰囲気や所作は加奈とまったく異なるが、整った顔立ちや髪艶の美しさなどはよく似た姉妹だった。
妹よりも少し気丈な視線で、じっと見つめられると孝志も妙に照れてしまう。
「でもまだ、加奈ったら言葉が戻らないのよ? どうしちゃったんだろね?」
「そうっずね……それは、あの……」
「じゃあ、悪いけど加奈にもう会わないでくれない? 妹も気の毒だし、孝志くんが煮え切らないなら、あの子に新しいカレシでもあてがうから。その方法でも、あの子の言葉は元に戻るんでしょ?」
珍しく早紀は強い目線でぐっと孝志の顔を見つめる。
彼女ならではの毅然とした表情は、加奈にはない迫力だった。
「それは……ずいません」
「前も言ったけど、なんで謝るのよ? 孝志くん次第でしょ?」
「俺が……いや、あの、僕がしっかりしていればいいんでずけど」
「なにをしっかりするの? 孝志くんはなにをどうしたい?」
年上の気の強いお姉さんからの詰問に、彼も委縮して肩をすぼめていく。
「加奈さんのぎもちとか……女の子が安心ずるような言葉をちゃんと言えれば……」
「女の子の気持ちはわかるの?」
「いや、それは……もちろん僕だって」
「加奈がどう思ってるのか、孝志くんはホントにわかってるわけ?」
早紀は意地悪く、孝志に顔を近づけていく。
彼女の髪がふわっと肩に触れると、強い緊張とわずかな興奮で瞳を揺らす。
「加奈に対して、孝志くんはどういう気持ち伝えたの?」
「僕は、あの……」
いっちょまえに『俺』だったのが、すっかり『僕』になって臆病に居ずまいを直す年下の男の子を見ながら、早紀はしばし思案をする。
『どうせなら、加奈のこと一気にアプローチできるくらいにお尻叩いて焚きつけたほうがいいかもしれないわね』
早紀は床に置いてあった彼のショルダーバッグを取ると、孝志にぽんと放る。
「さっ、立って。出かけよ?」
「えっ? どこにっずか?」
「今からあたしたちは付き合ってるカップルね。疑似デートをするわよ。女の子ってこういうもんだって教えてあげる」
「だって、お姉さん……カレシが」
「だから、孝志くんのためのシミュレーションだってば。あくまで疑似ってこと」
室内で黙ってやり取りを聞いていたふみが、孝志のお尻をぺしっと両手で叩く。
「たかにぃ、そろそろしっかりしてよ」
「じゃあ、ふみちゃん。ちょっと彼を借りるからね。さっ、行くわよ」
強引に孝志の腕を引っ張り、そのままアパートを出ていった。
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