第五話

 姉の帰宅を待っていた加奈は、雨に打たれてぐったりと背を丸める早紀の様子に、なにか失敗でもあったのかと、すぐに寄ってきた。

「お姉ちゃん、大貫くんはどうだっらの?」

「タオルちょうだい、あとこっち来なさい」

 早紀は妹の手を引くと、自分の部屋へと強引に連れていく。


 タオルで髪を伝う水滴を不機嫌そうに拭いながら、吐き捨てるように言った。

「ふみちゃんにまた、やらんぇたわ。あたいもまたじゃべんぇなくさせらんぇた」

「もう! お姉ちゃんが大貫くんに意地悪しらんでしょ!」

 詳細を語ろうかどうかと早紀も悩んだが、妹が落ち込むのではと躊躇して、とりあえずは起きた事実だけを伝えることにした。

 スマートフォンを立ち上げると、メモアプリに『か・れ・し』の三文字を打つ。

「こんどはこうよ? あたいがなにじたって言うのよ? もうたっくんと会うのやめな。不幸になるだけだよ?」

「だっくんってなに! お姉ちゃんがあっしよりも、なが良しみらいじゃない!」

「じょうがないでじょ? 『三文字』も言えないんだもん」

 早紀は妹の両肩を掴むと、強めにぽんと叩く。

「たっくんは諦めな。おがね持ちだじ、もったいながったけどね。ふみちゃんのせいだけじゃないけど、こんなことになるなら、そんぇはマトモな恋じゃないよ。祟りを解くための恋は、ホントに本音でお互い好きなのらどうら、あんたもよく判断じたほうがいいよ」

「でも、お姉ちゃん」

「あんたたちはいいよ……相手が出来たら治るんでじょ? あたいは相手がいるのにこうってヒドくない? バイトとデートどうするのよ……」

 不機嫌そうに荷物とタオルを放る姉に、加奈もそれ以上の会話をやめて部屋を出る。

「大貫くん……どうしちゃっらの?」

 

 ぽつぽつと降りだした雨は、すぐにどしゃ降りとなった。

 力無く歩く孝志は、傘も無いのに急ぐでもなく雨に打たれていく。

 情けない涙を隠すにはちょうど良かったからだ。

 全身から雨粒をしたたらせた孝志が帰宅すると、バスタオルを持って玄関で待っていたふみが、ばつが悪そうに彼の顔色を窺う。

「あのね、たかにぃ……」

 だが、孝志は腹を立てることもなくタオルを受け取ると、ふみの頭にぽんと手を置いた。

「もうやめにしようぜ……ふみには悪いけど、俺は全部間違ってたんだろうな」

 万年床の布団に横になった孝志は、ぼんやり天井を眺めた。

 ふみは彼の頭の近くにちょこんと正座すると、ぐっと顔を覗き込む。

「近くにいる女の子さえ真剣にずぎになることもでぎない……なったとしても、お姉さんみたいに、手の届かない人をずぎになっちゃう……俺って情けねぇよな」

「でも、たかにぃがんばってたよ。あの勇気をかなねぇちゃんか、あずねぇちゃんに向ければいいんじゃない」

「なんだか、お姉さんと一緒だと俺が無理しなくていいのがラクでさ……」

 未だに早紀に未練があるような口ぶりを聞いたふみは、煮え切らない孝志に不満を覚えつつも全身ずぶ濡れの彼を案じて、バスタオルでごしごしと水滴を拭う。

「でも、みどりさわの葉月さんのあずねぇちゃんも、知り合いだしラクでしょ?」

「なぁ、ふみ……俺以外のみんなの祟りを解いてやってくれよ」

 唐突に脈絡ない返事と提案をする孝志に、ふみも混乱して手を止める。

「たかにぃはどうするの?」

「これは俺への罰ってことだよ。このままでいいよ」

「そしたら、大貫のおうちはどうなっちゃうの?」

「ふみが心配ずることじゃねぇっての……俺が事故やびょうぎで死んじゃうかもしれないんだし、無理して恋愛ずる必要なんて最初からないんだよ」

 またも腐ってゾンビになっていく孝志を蘇らせようと、ふみは小さな掌で彼の頬をぺしぺしと幾度も叩く。

「たかにぃがそんなんだと、ホントに大貫のおうちが消えちゃうよ! せっかくお兄さまが頑張って大きくしてくれたのに!」

 だが、彼が瞳を潤ませていたのに気づき、ふみも頬を叩くのをやめた。

「だから、俺はとうぎょうに出たんだよ……どうせダムに沈むみどりさわ村が見たくないからやり直したかったのに……俺はなんにも変われなかった」

「たかにぃ? どうしたの?」

「ふみは知ってるか? 駐在さんの隣の坂本さんちって」

「村役場でおしごとしてた坂本さんでしょ?」

 孝志は涙を浮かべながら、滔々と語り出す。

「坂本さんの由宇ってのが同じ学年でいたんだよ……でも小学二年のとぎに、びょうぎで死んじゃってさ……俺は由宇のことずぎだったんだ。それから、女の子のことずぎになるの、ずっと怖くてよ」

「そんなの昔の話じゃない! たかにぃが今すきな子をすきになればいいのに!」

「じゃあ、お前が死んじゃったとぎに、はづぎさんの男の子はどんなぎもちだったと思ってるんだよ! 時間が経ったら次の女の子に行けとか、早くあぎらめろとか言えたのか!」

 孝志も色をなして反論したが、興奮して起こした上半身をまた床に倒す。

「男が女の子をずぎになるのって、エッチなぎもちで一緒にいてドギドギしたら、ずぎだって勘違いしてたわ。加奈ちゃんのお姉さんはだいぶドギドギしたけど……」

「でも、たかにぃがちゃんとしないと、かなねぇちゃんも、あずねぇちゃんも、みんな居なくなっちゃうよ?」

「もうダメだよ。みどりさわの思い出は全部なくなる……それで東京とうぎょうで新しい道を作ろうって出てぎたのに……それでも女の子のことをホントにずぎになれねぇって、ずっと由宇のことどっかで考えてたからかもしれねぇわ」

 途端に孝志は涙を堪えきれずに、声を震わせる。

「だから、みどりさわがイヤなんだよ、俺は……」

 初めて聞いた玄孫の本音に、高祖父の妹は幼い幽体ながらも、何も言えずに瞳を揺らして、ただそばに座っているしかなかった。

「こんなことなら、ふみに会わなけりゃよかったな……」

「たかにぃ、あたしのこときらい?」

「ぎらいじゃねぇよ。全部、俺自身のせいでめちゃくちゃだって意味だ」

 腐り果てた孝志はふみの蘇生もむなしく、布団のうえでふたたびゾンビとなった。

 夜は更けて室内の電気が消えても、孝志の深い溜息が暗闇の中に鳴る。

 ふみはまたも、それ以上は彼を構うのを諦めて読書をしていた。

 だが、次第に彼が発した言葉が何度も頭の中で繰り返す。

『たかにぃもちっちゃい時に、あたしと葉月さんみたいに無理やり失恋したんだ……』

 親の因果が子に報い、ではないが孝志は今もその呪縛に苦しんでいる。

 自分は先に逝ってしまっても、葉月さんの男の子は立派に家を残した。

 だからそれを孝志にも克服して欲しいと願うのは、自分が先祖だとしても、あまりにも無慈悲であろうか。

 ともかく、今は彼の希望を叶えてやるのがよいだろうと判断したふみは、読書をやめて暗い室内にすっと立ちあがる。

「じゃあ、たかにぃ。みんなしゃべれるようにするよ」

 眠っているのか返事のない彼の姿を見てから、ふみは小さな手を叩き合わせた。



 翌日。

 アルバイトを終えた早紀は急いで帰宅した。

「加奈っ! あたしのメッセージ見た?」

「お姉ちゃん、見たよ!」

 姉妹は、ふみの祟りであったそれぞれの『例の文字』が言えるようになっていた。

 前回の濁点よりは多少は凌げるかと、風邪を引いたとマスクをつけて言葉少なにやり過ごしていた早紀はアルバイトのさなか、会話の中で不意に言葉が出たことを知り、自宅にいた加奈にすぐメッセージを送っていた。

「これって、孝志くんにカノジョが出来て、全部終わったってことじゃないの?」

「でも……お姉ちゃんが会って昨日の今日で、すぐにカノジョっておかしくない?」

「わかんないよ。結局、加奈が言ってたあの地元の子とくっついたんでしょ」

「ホントにそうなのかな……」

 ともあれ一件落着といった様子で安堵する早紀に対し、にわかに不安を覚える加奈。

 すぐにスマートフォンから孝志にメッセージを送る。

『今日になったら、わたしとお姉ちゃんが喋れるようになったんだけど。孝志くんかふみちゃんになにかあったの?』

 だがそれきり、待てど暮らせど既読にもならない。

「ねぇ、お姉ちゃん。孝志くんから全然返信がこないけど、だいじょうぶかな? まさか事故かなにかに遭って、ふみちゃんごと消えちゃったとかってことないよね?」

「だいじょうぶでしょ。じきに新学期になったら無事かどうか確認できるじゃん」

 さして気にもしない早紀の返事に、加奈もカレンダーの八月の残り日数をかぞえる。

 九月一日の登校日までは、もうあとわずかだった。


 それから昼夜を経て、日付が変わっても孝志の既読はつかない。

 学校の課題のために机に向かっていた加奈もさすがに彼の身を案じて、自宅を訪問しようかと逡巡していた時だった。

 突然に耳元でふみの声がした。

『だれか、たかにぃを助けて!』

 室内から聞こえたのか、頭に直接届いたのか、悲鳴に近いふみの訴えに思わず周囲を見回すがその姿はなく、イスから立ち上がる。

 すぐにドアが開き、早紀も焦った様子で加奈の部屋に入ってくる。

「聞こえた、加奈?」

「お姉ちゃんも?」

「クルマでパッと行くよっ!」

 早紀たちはガレージにある父の自家用車に乗ると、孝志の家へと急ぎ走らせる。

 もしかしたら、本当に彼の身になにかあったのかもしれないと、加奈は胸元に両手を重ねて一心に祈る。

 まさか自分にフラれたショックのあまり彼が早まったことをしていないかと、早紀もアクセルを踏む脚に力を込めた。

 アパートに着くと、孝志の部屋のインターホンを鳴らしてドアを大きく叩く。

「孝志くん! ふみちゃん! だいじょうぶっ?」

 ドアの向こうで鍵を開ける音がしたので思いきり引くと、ふみが立っていた。

「たかにぃが……」

 姉妹が室内に入ると、彼は布団に頭までくるまっていた。

「孝志くん!」

 加奈が駆け寄ると彼の顔は真っ赤に上気しており、息苦しそうに荒く呼吸をしていた。

 早紀は彼の額と首元に触れる。

「あっつい! ちょっと、だいぶ高熱でてるじゃない。孝志くん、どうしたの!」

 涙目で孝志の近くに座るふみが、ぽつりと語り出す。

「こないだ雨に濡れたまんま腐ってゾンビになってたら、どんどんお熱がでて……病院に行く元気もなくなって、でもあたしじゃなにもできないから……」

 雨に濡れたと聞き、あの日の話だと察した早紀も心苦しそうに顔を歪める。

「とにかく、病院つれてこう。加奈、あんた孝志くんの保険証さがしてよ」

 ふみは足元のショルダーバッグを手渡す。

「このなかに、たかにぃのおサイフがあって、そこに保険証が入ってるから」

 姉妹で両肩を支え、彼を担いで引きずるように歩くと、車の後部座席に放り込む。

 そして病院へ向かうと看護師に事情の説明をした。

 診断の結果、風邪の悪化による上気道炎だったが、満足な食事もしていなかったのか、衰弱が激しく点滴を受けることとなった。

 医師との問診を終えた早紀が待合室に戻ってくると、ソファに座る加奈の隣に腰を下ろした。

「入院するほどじゃないけど、ここ数日は安静だってさ。ひとり暮らしってことは伝えたけど、できれば親に来てもらって看病してもらうのがいいって話なんだけども。あんたは孝志くんちの連絡先しらないよね?」

「お姉ちゃんは?」

「あんたが知らないならあたしが知るわけないじゃない。彼が目を醒ましたら番号を教えてもらうとか、家探やさがしするしかないかしら?」

 すると加奈はソファから立ち上がる。

 いま家で留守番をしているふみなら、なにかしら知っているかもしれない。

 元の実家の電話番号だけでなく、孝志のスマートフォンのロック解除をそばで見ていたとか、家の中にメモのたぐいが残っている可能性もあった。

「あたし、ちょっと孝志くんのおうち見てくるね。お姉ちゃんは孝志くんの点滴が終わりそうになったら教えて。また迎えにくるから」

 姉を病院に残し、加奈は孝志のアパートへと戻った。


 一方、ふみの声は梓にも届いていた。

 外出先だったのですぐには彼の家に向かえず、ようやくアパートに到着した。

 インターホンを鳴らすと、ふみが玄関のドアを開けた。

「あずねぇちゃん! 来てくれたんだ!」

「ふみちゃん、いったいなにがあったの? いつの間にかあの『二文字』も喋れてるし、孝志を助けてって言ってたけど……」

 ところが、梓が室内を見回しても彼の姿はない。

「たかにぃ、すごくお熱がでちゃって。それで、さきねぇちゃんとかなねぇちゃんに、病院に連れて行ってもらったの」

 一度に大量の情報が流れ込んできたことに、梓もにわかに混乱する。

 高熱が出たという彼の容態を案じつつも、無事に病院に行けたことには安堵したが、その彼を病院に連れて行ったふたりの女性の名前が出たことに狼狽した。

 だが、ふみの悲鳴を聞き届けてから、自分よりも咄嗟に動いてくれる女性がいることに、梓は嫉妬よりも感謝が大きかった。

 やはり、自分じゃ太刀打ちできない仲なんだろう。

「そう……とりあえずよかったわ。じゃああたしは部屋の片づけをしてあげるね」

「うん。あずねぇちゃん、ごめんね」

 梓はせめて出来ることを、と室内に上がりシーツの洗濯や掃除を始める。

 するとふみは梓に向かって、孝志の悲痛な胸の内を聞いてみた。

「あずねぇちゃんは、坂本さんちのゆうねぇちゃんって知ってる?」

 それを聞いた梓の手が止まる。

「なんで、ふみちゃんが由宇のことを知ってるの?」

「たかにぃがホントにすきだった子みたい」

 幼くして別れることになった、みどりさわ小の級友の姿を梓も思い返す。

 だが、孝志が彼女を好きそうな素振りだったかどうかは、今は憶えていない。

 なにせ由宇と過ごしたのは八年以上も前のこと、小学一年生というわずかな期間だから。

「ゆうねぇちゃんも死んじゃうし、みどりさわはダムに沈んじゃうし、それで、たかにぃはもう村がイヤで東京にきたんだって」

「そうだったんだ……」

 自分は少しでも孝志の近くにいられたらと、同じように東京での受験を選んだ。

 だが、由宇を失った彼の気持ちはダム建設が決まった頃から、みどりさわには無かったのだろう。

 いずれはダムによってバラバラになる同級生。

 彼は一足先に、六人の輪から抜けていたと感じたのはそのせいかもしれないし、自分の想いが届かないがゆえに、孝志との距離を勝手に感じていたとも思えた。

「だから、たかにぃのことゆるしてあげてね」

 ふみは梓にぎゅっと抱きつく。

「むしろ、先祖のくせにあたしはたかにぃの気持ちをぜんぜん知らなかったの。あずねぇちゃんにもご迷惑かけてごめんなさい」

「別にふみちゃんのせいじゃないよ。あたしも孝志の気持ちをもっと知ってあげてれば」

 夏祭りの夜、彼に自分の素直な気持ちを伝えた。

 まさに由宇の墓がある村で、ダムに沈みゆく故郷で、彼に告白をした。

 それは結果的に、彼の心の痛みや古傷に無神経に触れられたような態度と、受け取られてしまったかもしれない。

 ふみの祟りによる『二文字』を失っても、恋愛に前向きにならない孝志。

 あれこれと言い訳ばかりして、態度をはっきりさせなかったのは、彼の中にずっと由宇との思い出や、彼女との別れの記憶が残っていたからだろうか。

 考えるうちに梓もいろいろな思い出や感情が溢れてしまい、涙をぬぐう。

 あらためて部屋の掃除を始めた時に、玄関のドアノブが回された。

「かなねぇちゃん、かぎあいてるよ!」

 ふみが声をかけると、入って来たのは見覚えのある女性。

 それは孝志と一緒にデスティニーランドに行った子。

 そして帰省の折に、みどりさわ駅に降りた子――。


 加奈と梓、互いの目が合う。

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