大友家婚姻録の現代語訳(右田毛利家文書48号より)
黒井丸@旧穀潰
第1話 大友家の話
本作は、大友家をはじめ日本史を研究された故 福川一徳氏が臼杵史談87号P12 に寄稿された文書を現代語訳したものです。
以下に福川氏が活字化したものを一部掲載しますが、ご覧頂けばお分かりになると思いますが、ひらがなが多く、一部特殊な言葉を使用しているため意味が分からない部分がありました。
それ故に、漢字を当てはめて、欠文を補い意味が分かるようにまでを行い、検証は歴史に興味が有る読者諸兄に委ねたいと思います。
☆マークは翻訳できなかったり、誤訳していそうな部分です。
なお、特殊な言葉は以下の通りに訳しました。
わか子(子わか) =息子(若殿の意味か?)
五もし= 娘(ただし『むすめ』表記もあるので特別な意味があるかも)
かもし= 母?
御内 = 妻?
ふんこしゆ= 豊後種?豊後の人間?
かみさま= 奥様(かみさんの意味?)
かつしゆく= 合宿、結婚の意味か?
ほつけはうす= 僧侶?法華坊主
ひく人 = 世を引いた人=出家した人
おとし = 還俗する
ときやう= 読経(どきやう=どきょう)
(※ 江戸時代に濁点半濁点を表記する風習が無いため、どこが濁点か推測する必要があります)
■■■■本文(一部)現代語訳は下■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大ともそうりんノおやハよしあきと
申せし也、ほんさいのミたい所ハ山よし
たかノあね大宮殿也、大宮殿御
身もちあしく、きやうよりあす
かい殿下給ふニ心をかけ、またさる
かくによと大夫とて下候ものニ心をうつ
され、○ともニくにを出んとの御たくミノ
よし、いへのろう中ともききつけ、
山口ニおくり候ハんと申のよしを、山口より
とものつほね、又ききつけ、御ひめさま一人
御入候へハ、ほんさいとかうして有て、
何とそふんこに留、御入候やうニとの
事ニて、よしたかへ申遣、さらハ
御手かけニとてその比よしたかの
かちうひちよいふ人子ヲあつめ、
その内よりもすくり、すきとの五もし、
はつとり五もし、二人ふんこニ遣、
すきとの五もしハ十分見めよく候
つれ共、これハたきたやまと殿へ
遣、はつとりむすめニ御手かかり、そう
りん、よしなか、かうちとの生れ給ふ、(以下省略)
■■■■訳文■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大友宗麟の親は義鑑と言う。
本妻の御台所は山(口の大内)義隆の姉、大宮殿である。
大宮殿は身持ちが悪く(浮気性で)、京都から(蹴鞠の大家である)飛鳥井殿が来ると二心をかけ、猿楽の「☆によど大夫(にょうど?)」という者に心移りして、かけおちして共に国を出ようと企んだ。
これを(大友)家の老中たちが聞きつけ
「山口に送り返そう」
と言ったのを、(大宮と共に)山口から御供していた局がこれまた聞きつけ
「御姫様一人が(山口)お入りすれば、本妻とこう(渡航)してありて、なにとぞ豊後に留まりお入りますように」
と義隆に申し使わした。(=本妻として入った姫様にこのような事があって送り返されそうなので、なにとぞ豊後へ留めるようにしてください。の意味か?)
「ならば、(他の女を)御手掛けに(しよう)」
と言って、その頃 義隆のかち(=徒歩?供の事か?)『☆うひちよ(浮千代?)』という人が子を集めて、それから選りすぐった杉殿の娘、服部の娘(の)2人を豊後に遣わした。
杉殿の娘は十分見目良かったが、彼女は田北大和殿(=田北鑑生)にへ遣わし、服部娘に(義鑑の)お手がかかった。
(彼女との間には、大友)宗麟、(大内)義長、かうち(河内?)殿が生まれた。
宗麟(という跡継ぎ)が出来たので、大宮殿は豊後より山口へ帰された。
大宮殿はその後、内藤殿へお入り(=輿入れ)したという。
(これより子供について述べる)
●(義鑑の長女は)見性院(けんしょういん)、宗麟の姉である。
さて大宮(の)腹(から生まれた)お姫様は土佐へ御祝儀にて土佐の御家取り
御家門様を祝言(=出産)した。
また(彼女の娘には)御姫様が2・3人有り。
1人ハ日向 伊東殿へ遣わした。
今の伊東修理殿の乳母かひ、乳母の一人は田北鎮則の御内である。
鎮則はさせたんはとのふくろ(=ハ佐瀬?佐膳?丹波殿の母?)、賀来藤三郎などの筋である。
右伊東への御姫様の御子は伊東修理殿の母。(伊東左京大夫義益か?)
その次(の伊東家)当主は義賢、その弟こきち殿(伊東祐勝)である。
(義賢・祐勝は)2人ながら、早 浮世に無し。(=早死にした)
こきち殿の御墓所は長門ひん中にあり。高麗帰朝の中で舟かかり(=暴風雨に遭遇)して、さて風邪を患って亡くなった。
◆◆解説◆◆
浮気性な大内義隆の姉が浮気して駆け落ちまで企んだので国に送り返そうとしたという、大内家の黒歴史ともいえるお話です。
幾つか意味が分からない部分がありますが、『杉と服部の二人が選ばれてそれぞれ嫁に行き、義鑑には跡継ぎが生まれたので本妻の面目を保てたとして大内義隆の姉は豊後から帰る事ができた』
というお話だと思われます。
これだと後に大内家の養子となった大友晴英(大内義長)が大内家を継ぐ理由が薄くなり、検証が必要な内容です。
なお見性院は室町時代の天文年間に、京都 大徳寺の大慈院という寺院を建てており、HPによると
『大友宗麟の姉と伝わる見性院、織田信長の姉と伝わる安養院、村上義明、山口弘定らが、大徳寺129世・天叔宗眼を開山に迎えて創建したとされます。
天正年間、大慈院寮舎として碧玉庵が創建され、柳川藩初代藩主・立花宗茂が帰依し、墓が作られました。明治以降、碧玉庵が廃されたため、現在墓は大慈院に統合されています。大慈院は通常非公開』
ttps://ameblo.jp/rrerr/entry-11680242995.html
とあります。
伊東氏は義賢が高麗出兵の帰り1593年に27歳で死亡。
弟の祐勝が叔父らと朝鮮に出兵するも病気となり帰国。その途中で船が暴風雨に襲われ長門国まで流されてしまい、同地で病状が悪化し死去した。享年24。
と言い伝えられており、祐勝の墓が長門にあると言うのは信憑性があります。
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