第3話 宗麟の前妻 奈多家の娘と子供

 今回の話は重要部分の固有名詞が書かれておらず、推測で固有名詞をおぎなっているため、本文を引用させてもらいます。


 ■■■引用 右田毛利家文書48号 臼杵史談87号P12 福川一徳氏■■■


 そうりんほんさいノミたい所ハ

 たんこノいつしきとのそく

 ぢよ也、きにあわずしてりへつ

 也、そのいこふんこなた秋もと

 のむすめをミたい所となす、

 よしむねは三はんめ也、そうりやう、これもまたいとこ也、

 これ ○よしむね、とさのかミさま

 二はん五もし

 こか殿かミさま、なたしけもとかミさま、

 とね川道かう、うすき神へもん

 とのかミさま、ひてかん女、松のはん

 斎、右なた殿五もしはらなり、

 比のなた五もしハそうりんふくろの

 おとと、はつとりノ御うちなりしヲ、

 心かわりありしニよりおちヲうち

 はたし、いこおちよめとかつ

 しゆくしてもつ子也、それニ

 より子そんおもふままニなきか、


 ■■■現代語訳■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 ●宗麟の本妻は丹後の一色(氏の)息女である。気に合わず離別した。

 ●その後、豊後の奈多鑑基の娘を妻とした。


 ③ 義統は彼女との間に生まれた3番目の子である。

 ☆惣領。これもまたいとこである。これ○義統

 ① 土佐守様(一条家の妻~清田氏の妻)

 ② 2番目の娘は久我殿(三休)妻

 ④ 奈多鎮基妻

 ⑤ 利根川道孝(大友親家)

 ⑥ 臼杵神衛門(統尚)妻

 ⑦ 小早川秀包ひてかん妻(桂姫・マダレイナ)

 ⑧ 松野半斎(大友親盛)


 右は奈多殿の娘の子供である。

 この奈多の娘は、宗麟の母の弟(=宗麟にとっての叔父)が服部の身内だったのを(叔父が)心変わりがあったので、(宗麟は?)叔父を討ち果たし、その後叔父の嫁と結婚した。

(先に挙げたのは、彼女との間に)生まれた子供である。

 そのため子孫が思うままにならなかったのだろうか?


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 宗麟と夫人の話です。

 一色丹後の娘は大友興廃記にも登場し、離婚した顛末が書かれていますが、一次史料では本当の事か分からなかったため、貴重な記録です。

 その前妻を書いた後に、奈多夫人の間に生まれた子供達を書いています。


 寛政重修諸家譜2巻に書かれた系図では他に4人ほど娘がいたと書かれていますが、フロイスの記録では奈多夫人との子供は8人とあり、合致しています。

 宗麟の長女は土佐の一条氏に嫁ぎ、その後清田氏に嫁いだのですが、『惣領』は『長女』または惣領のなのか文意を読みかねます。

 これは推測ですが、土佐一条家は宗麟の姉との間に生まれた子なので宗麟の娘とはいとこ同士。

 また義統も宗麟の姉が嫁いだ吉弘鑑理の娘といとこ同士で結婚しています。

 『これもまたいとこである』とはいとこ同士の結婚が2組ある事をさしているのかもしれません。


 4女の夫は奈多鑑基の子。彼は奈多家の系図では宗麟の妻と姉弟であり、おじ姪の関係となります。


利根川道孝は大友親家。

 臼杵神衛門(統尚)妻については特に情報は見つけられませんでした。

 小早川秀包ひてかん妻(桂姫・マダレイナ)はイエズス会の報告書に、その信仰の記録がたくさん掲載されており、フロイス日本史でも末女とされています。

 松野半斎は大友親盛。


 合計8人なのはフロイス日本史の記述と合致します。

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