第4話 大友宗麟の後妻について

 今回は訳文だけです。

 普段のは著作権が切れているのですが、近代の文書は扱いが難しいですね。


■■■現代語訳■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 この以後宗麟は、小笠原殿の娘と結婚した。

 これは丹後の娘様の時から上臈の御方だったのを娶って結婚した。

 奈多殿の娘は義統と一所に本家におり、隠居した宗麟の元に小笠原の娘はいた。

 彼女は小笠原かうあん(洪庵?)のいとこである。

 彼女には(宗麟との間に?)娘が2人。


 ① 1人は豊後宗像殿の妻。ただしこれは治部丞崩れ(=関ヶ原の戦い)で上方に人質となって夫婦引き分かれていた所を、妻は腹を切り夫共々自害した。(1579~1600年享年22歳)


 ② もう一人は肥前大村殿の甥嫁である。

 甥子が益体なくて、娘は夫を見限って(離婚し)、キリシタンに出家したと言う。


■■■解説■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 宗麟の後妻は小笠原家の娘と言っています。

 フロイスによれば『彼女は、身分ある両親を有する高貴な女性で奈多夫人の館で西洋でいう所の宮廷侍女頭の役を務め、1578年の時点で40歳を数えていた』(日8P120)

『宗麟に先だって洗礼をうけジュリア、娘(林式部ゴンサロの妻)にはコインタの名を受けた』(日8P125)

 とあり、連れ子もいた未亡人だったようです。

 小笠原の娘は宗麟と再婚した1578年に40歳を超えていたそうなので、1538年以前の生まれと想定されますが、それだと1550年に、一色家の娘が宗麟と結婚していたときにはまだ12歳程度。

 同世代の女性を世話役の上臈に宛がったのかもしれませんが若すぎる気もします。


 なお大友家が改易されたあと、ジュリアは『毛利家に移住しようとしたが宗麟の腰元でマリアという女性が臼杵で後任の奉行を説得し、津久見の屋敷に住めるようになった』(日8P332)とあるものの、結局長崎に住んで義統の娘マキゼンシアを育てたそうです。

 宗麟と後妻の間には2人の子供がいた事はフロイスも『モニカとルジイナ』の名前で記載してます。彼女と結婚した翌年には、宗麟と二女をもうけているので娘たちは1579年の生まれと推定できます。


 娘の1人は宗像掃部鎮続の妻で、石垣原合戦の際に上方に人質として囚われていたと推測され、そこで自害したようです。これは夫が死亡したのが原因か、細川ガラシャのように人質に捕られる前に自害したのかまでは分かりません。

 また、キリシタンは自殺を禁じられているので、実際に腹を切ったのかは検証が必要です。


 もう1人は大村殿の甥ですが『見限った後にキリシタンになった』というのは、離婚したのか不明です。

 そもそも彼女は生まれながらにして宗麟によって受洗していたのですが、結婚を機に棄教したのを復活したのかもしれません。

 なお当時3代目大村藩主だった大村純信(1618~1650)だと時代が後すぎ、父親の純頼(1592~1619)だとすでに死亡しているので、彼の兄弟、純宣・純直・純栄あたりと結婚した可能性が考えられますが、彼らの生没年が良くわからないので確定できませんでした。

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