宗麟の子孫
第5話 奈多夫人と前夫の娘の話
志賀(親度?)の奥様は宗麟の継子(奈多夫人の連れ子)、服部殿の娘で志賀殿の妻である。
伊勢で67年前に死亡した。
この子は娘が2人、男子が3人あり。
① (長男)志賀家の跡継ぎは志賀小左衛門(親次)。長岡殿とか松野左門とも言う。
② (長女)伊勢藤堂家に所属する佐伯権之助惟定の母親
③ (2女)豊後の朽網殿の妻
④ (2男)志賀甚吉というのが一人いる。これは豊後 吉岡家の養子となった。
⑤ (3男)久我守日田殿の妻であるつるきた殿(津留 北殿?)は吉岡のたいほうの養子である。
伊集院は、この北殿のしろ(末裔?)である。この(血)筋は 神きちとの子
☆こもりとうとうミ殿 (小森遠江守?)の内 すき村しんのせう子共の種である。
☆しんのせうしうとめ(新之丞の姑)ハ あすかい(飛鳥井)殿の御姫である。
林式部殿はきた殿の兄嫁である。今の飛鳥井殿は彼のいとこである。
右の朽網殿のたいほうは、朽網殿が死亡して、豊後崩れの時に上方(大阪)にいたのを福島大夫殿ニ候て 備後に豊後殿といって置かれたが、その此 きりしたんが早っていた時分だったので人の手かけ目かけ(付き合ったり目にかかる事は) 以って他と戒めたので暇を貰い、近年は長岡殿 内さもん殿ニかかりい申され候。
又朽網殿の娘が一人いる。
それは筑前の栗山肥後(守)殿の妻である。
さわ殿の妻より馳走していたが、さわ殿五もしはさい将様(宰相?)筑前殿たんかうにてつかわし候
朽網殿へは小一郎
筑前の中が悪しきにより、忍びて迎え取り、秋月近くまてらに置かれ、大せん殿事の二ねんまへに伊勢にのほり給し也
■■■■解説■■■
奈多夫人は服部氏との間に一女をもうけ、彼女は大分県竹田市の岡城城主 志賀氏に嫁ぎます。
そこで5人の子を生み、長男は志賀親善(親次)という熱烈なキリシタンとなります。
親善は叔父の林式部が林ゴンサロ、妻はコインタというキリシタンで、彼らの影響でキリスト教に興味を持ち、妻とともに改宗します。
圧倒的劣勢の大友家の中で裏切らず岡城を守り抜いた事で秀吉からも評価されますがキリシタンだったのが災いしてか大友家が改易された後、領地を失い福島家に仕えたといわれています。
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